おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成高砂駅~京成金町駅。その3。長屋門。矢切の渡し。野菊の墓。水原秋桜子句碑。

2020-07-07 20:10:56 | 沿線歩き

            山本亭の裏庭から表へ。

防空壕跡。

洋館(鳳凰の間)の外壁。

よく手入れされた庭。

長屋門。こちらが正面入口。

 武家屋敷に見られる伝統的な長屋門に、洋風の意匠を取り込んだ、和洋折衷の造りになっています。六角形のタイルが敷かれた床、ステンドグラスの窓など、洋風に装飾された和装建築に、建造当時の流行を垣間見ることができます。 建物の両側にある部屋は、当時、門番が常駐し、客人のお付きの者や人力車の車夫などが待機していたところ。

玄関。

通りを挟んだ向こうにあるのは、「寅さん記念館」。

見どころ

 大船撮影所から移設した「くるまや」や、あの”タコ社長”の「朝日印刷所」のセットに加えて、寅さんが実際に使用した実物の革カバンなどの展示コーナー、「寅さんと一緒に楽しむ鉄道の旅」をテーマに、昔懐かしい駅舎や駅務室、客車ボックスシートに座って名シーンを楽しめるコーナーなどで『男はつらいよ』の世界を再現。また、寅さんと一緒に記念写真をとることができる記念撮影コーナー(有料)や作品に関するクイズにチャレンジできるQ&Aコーナーもお楽しみいただけます。
 併設する「山田洋次ミュージアム」は、映画『男はつらいよ』シリーズの原作・脚本・監督を務め、寅さん記念館名誉館長・葛飾区名誉区民であり、2012年に文化勲章を受章した山田洋次監督の、これまでに携わってきた数々の作品や映画づくりへの思いを9つのテーマでつづられたミュージアムです。
 2019年に新設されたTORAsan cafeと合わせてお楽しみください。

(この項、「」HPより)

ということで、省略。「矢切の渡し」に向かいます。

小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結んでいます。 
  
「矢切の渡し」の歴史について 
  
「矢切の渡し」は、江戸時代初期、地元民専用に耕作や対岸の農地への移動手段として使われるとともに、日用品購入、寺社参拝などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、「金町・松戸の渡し」と呼ばれていた。 
これらの渡しについては、江戸幕府による直轄事業として行われていた。 渡し場で使われていた船は、金町村と松戸村で 2隻ずつ出していたが、その後、松戸町だけで船を出すようになる。 当時の渡航運賃は1人3文。馬も5文で乗ることができたといわれている。 
  
1740年頃、渡しの運営が幕府による直轄事業から、幕府と松戸町、町民による半官半民の運営体制となったことから、百姓たちにも渡し業を請け負わせた時代もあったそうである。 
  
明治初期には、関所廃止及び陸運の発達のため、鉄道や主要幹線道路などに橋が開設されるようになり、各地で渡し船を廃止するところが場を閉めるようになった。 
隅田川では、戦後まで運行を続けている渡し舟もあったが、「佃の渡し」が昭和39年、「汐入の渡し」が昭和41年を最後に廃止され、現在、東京近郊で定期的に運行されている渡しは、「矢切の渡し」のみとなっている。 
なお、「矢切の渡し」は、「下矢切の渡し」とも呼ばれる時期もあったそうである。 
松戸市下矢切と東京都葛飾区を結ぶ、現在の「矢切の渡し」の運行航路の他に、1877年(明治10年)から1910年(明治43年)まで、この上流である上矢切から金町間を往来した「上矢切の渡し」が運行されていたからである。 
  
この「矢切の渡し」が世に広まったのは、1906年(明治39年)、雑誌「ホトトギス」に発表された、矢切を舞台に、政夫と民子の悲恋の物語を描いた小説「野菊の墓」の一節、「僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上で矢切村と云っている所。」として描かれたことによるとされている。 
(下矢切の西連寺の境内には、小説の一節を描いた「野菊の墓文学碑」が建立されている。) 
 
この渡しが全国的に有名になったのは、1982年(昭和57年)に細川たかし氏が歌った、歌謡曲『矢切の渡し』が大ヒットしたことや、フーテンの寅さんが柴又を舞台に各地を訪れる映画『男はつらいよ』が上映されたことで、「矢切の渡し」が全国的有名となり、再び脚光を浴び、年間20万人以上の観光客が乗船する時期もありました。 
  
「矢切の渡し」は、有限会社矢切渡船で運営・運行しているが、明治時代から、杉浦家において、世襲制で代々運行を引き継いでいる。 
現在もなお、帝釈天や寅さん記念館&山田洋次ミュージアム、山本亭などがある対岸、葛飾区柴又などを訪れる人の観光コースとして、運行を続けている。 


  
〈参考〉 
「矢切の渡し」を紹介する看板の文面について 
  
松戸側 
矢切の渡しは 松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しで、その始まりは380余年前、江戸時代初期にさかのぼります。 当時、 江戸への出入は 非常に強い規則のもとにおかれており、 関所やぶりは 「はりつけ」になろうという世の中でしたが、 江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、 その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりで、いわゆる農民渡船といわれるものです。 
明治以降は、 地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され 現在では 唯一の渡しとなっています。 この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、 千葉県の生んだ歌人でもあり、小説家でもある伊藤左千夫の小説“野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっており、その小説の中で美しく描かれております。 
  
葛飾側 
元和2年(1616) 、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヵ所を定船場として指定、 それ以外の地点での渡河を禁止しました。 
その1つが矢切の渡しで、 この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。 
現在、 都内に残る唯一の渡し場で、 今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。 伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、 ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。 

(この項、対岸の「」HPより)

葛飾側から対岸を望む。

伊藤左千夫「野菊の墓」

 僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。 
 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。 
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」 
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」 
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」 
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」 
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」 
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。 
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」 
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」 
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」 
「僕大好きさ」

・・・ 

船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟を撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬に、品のよい友禅縮緬の帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。 

・・・

毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。その翌くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。 

 民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。 

 

 

 

 

(「YouTube」より)

道標。

 

水原秋桜子句碑。

             葛飾や桃の籬も水田べり

 水原秋桜子先生(明治25年~昭和56年)の作 先生は東京神田の生まれ。はじめ高浜虚子に師事したが、やがて「ホトトギス」を去り、昭和6年から「馬酔木」を主宰した。葛飾の自然をこよなく愛し、しばしば訪れて、世に「葛飾詞」といわれる、多くの作品を残した。 この句は、大正15年の作。対岸の市川真間あたりの風景を詠んだもので「葛飾詞」の代表作のひとつ。その頃の水郷葛飾の春の田園の美しさを流麗典雅の響きでうたっている。

『葛飾』水原秋桜子の第一句集。

昭和5年(1930年)4月、『葛飾』馬酔木発行所刊。

・・・

梨咲くと葛飾の野はとのぐも曇り

連翹や真間の里びと垣を結はず

連翹や手児奈が汲みしこの井筒

葛飾や桃の籬も水田べり

草餅や帝釈天へ茶屋櫛比(しつぴ)

注:「櫛比(しつぴ)」=櫛(くし)の歯のように、ほとんどすきまもなく並んでいること。


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