おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

善光寺坂。三浦坂。赤字坂。へび道。・・・(根津・谷中の坂。その1。)

2014-11-01 13:13:55 | 都内の坂めぐり
 根津駅から西日暮里駅までのコース。下町探索コース「谷根千」ともかぶっています。以前、「藍染川(谷田川)」流路跡の探索で歩いたところとも重なりますが、今回は、「坂道」に徹底して。

 その前に、「根津」ということで、以前から気になっていた「建物」に向かいます。「はん亭根津本店」。木造三階建て。
 「不忍通り」に面して「茶房」、裏に回ると「串揚げ」のお店。

  

 もともとこうしたお店として長年やっていたわけではありません。そのへんのいきさつについて、

 『歴史ある建物の活かし方』出版記念シンポジウム・第5回歴史・文化のまちづくりセミナー記録
 1999年7月17日に東京大学工学部1号館第15教室で行なわれた『歴史ある建物の活かし方』(学芸出版社刊)出版記念シンポジウムでのご主人のお話が掲載されいます。

はん亭の誕生

 見出しに建築再生物語と書いてあります。「根津の大通りの一本裏に木造3階建ての串揚げ屋があって繁盛している。紺の暖簾に木目の洗い出された板戸。盛況のこの店のご主人高須治雄さんに、お店をはじめるまでの話を聞く」と書いてあって、ここからが私の語り口なのですけれども、実は森さんが雰囲気を出すために私のことをべらんめえ調で書いておりますが、決して普段そのようなことはなく、大変上品な喋りしかできない男でございます。私は35歳で脱サラして、上野の本牧亭の真裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやっていました。店は少しずつうまくやっていましたが、7、8年のうちに周辺の環境が悪くなって、ピンクサロンが客引きをするので、まともな客が道を歩けなくなった。その雰囲気がいやで、夜、店を開けるのが毎晩うっとうしかった。

 その頃、根津にある弥生会館で飲食店の会合があり、根津の裏通りをぶらぶら歩いてふと見るとこの木造3階屋に出会ったんです。湯島に木造3階建てがあるのは知っていましたけど、根津のこんなところにこんな建物があるとは思いもよりませんでした。それから取りつかれて、どんな人が住んでいるのかななんて想像して何回も見にきました。そして、ついに区役所に調べに行ったらある運送会社の独身寮だってことがわかったんです。なにも独身寮ならこの建物である必要はないと思い込み、もし売る時は僕に声をかけてほしいと言ったんです。あんなボロ家を買いにきた物好きがいると、向こうも驚いたらしいです。

 そのうち景気も悪くなって、向こうは売ろうかという話になりました。確かその間約3年かかりました。そりゃあ、ああいう建物は残す義務があるとか、うまく活用してみせると豪語した手前、売ってもよいと言われるとかえってあわてました。条件もわからない、中も見たことがない、買ってすぐ壊れちゃうんじゃないか、そこで上野の店の常連で芸大の建築科を出た浦さんに調べてもらいました。そしたら多少柱がゆがんでいるとか、3階で鉛筆をころがすとコロコロ片隅に転がる程度のことはありましたが、基礎、柱から構造もビクともしない、あと数十年は持つって太鼓判。こうなりゃやるべきだと思いました。

 さて、いくらかかるのか。お金もないし、一時は十条の自宅と取りかえっこしないかという大胆な提案までしたんですが、とにかく価値観の違いがありますから、こちらは垂涎の建物でも、向こうにしてみりゃとっくに減価償却の済んでるボロ家で、しかも借地ってことで、提示された価格はまあ手に負えるものでした。その当時、根津のこんなところで商売になるのか考えてもみなかったことで、とにかく両親含めて6人家族、いまどきマンション買うより広くて安いや、と家族を説得し、庭付きの家を処分して、この根津の町なかに引っ越しました。これがおっちょこちょいの家族で、この3階屋を見上げて「へえ、かっこいいや」というわけですよ。

建物を改修する

 次は改造の手配です。運送屋の季節労働者用の寮ですから、家の荒れはてようといったら。ベニヤで仕切って外はプラスティックの生子板を張ってあって、見るも無残。いい大工を紹介してもらったら、「こりゃ金食い虫だぜ。いくらかかるかわかんねえや」って言われました。でもこっちは本物の部材で再生させたいとすごい情熱でしたから。大工さんも一徹な人で、よくわかった、といったらあとはきかないことばかり。よくケンカもしました。1階の店の真中においてある大テーブルも、ある家具屋で静岡の若い作家の作品を気に入って、金がないので直接交渉しようと、ちょっと梱包の箱が店にあったのを密かにメモって静岡までいったりしました。それでもここはあくまでも住まい。1階はわが家のダイニングキッチンのつもりでした。そして上野の店の客で、もう少し静かで変わった所で食べたいという人がいたら、地下鉄で一つ乗って来てもらって、その間に私が自転車に材料積んで先回りして、ゆっくりおもてなししましょうと、そんなことを考えてました。だから最初は椅子も12しか入れなかった。

 ところが工事中から、何やってるんですかと見にくる人がひきも切らない。説明すると、そりゃオープンしたら一度来たいもんだ、との返事です。完成したときに、懇意の染織家に暖簾を頼み、今までの「くし一」から半歩前に進みたいと、「はん亭」という屋号をつけました。暖簾をあげると、毎晩押すな押すなの大盛況。湯島の店は若いのにまかせて、あわてて椅子を増やしました。そのうち、宴会がしたい、座敷はないかというので、私たちのテレビもタンスもある居間に通すことになりました。そのうち両親があいついで亡くなり、我々は近くに借家をかりて、ここは全面的に店になっちゃいました。

大正時代からの歴史

 この家を最初に建てた人のご紹介が遅れましたが、そもそもこの家は三田さんという方が経営する下駄の爪皮屋だったんです。ま、根津ではちっとは知られた大店で、建築は大正初期だということです。息子さんに店のあとを継がせようと東京商科大、今の一橋大学に入れたんですけれども音楽が好きで、後で著名な音楽家になられたそうです。通りにある風貴堂さんというのが茶道具を扱う店なんですが、その間にもう一軒ひっそりと暮らす家があります。ところがその人があるとき越すことになりました。その時に大家の三田さんからぜひ借りてくれないかという話がありました。私は店としては3階建て部分だけで十分だったんですが、また住まいにすればいいやと心を決めて借りることにしました。そしてその借りた場所に立派な土蔵があるなんて知りませんでした。また、建築家の浦さんご夫妻、前の大工さんにお願いしてすっかりよみがえらせてもらいました。今では土蔵の中が一番人気があるんですよ。座敷で串揚げというのは珍しいんです。揚げたてのアツアツを食べていただこうと思うと人手がうんとかかる。お客さん80人に従業員15人もいます。この根津ってのは谷底の職人町ですよね、なんとなく温かく、しみじみするような所です。この3階屋に初めて上がったとき、床の間のケヤキの板がすばらしかったですよ。想像しましたね、きっとここの主人が、近所の長屋の八つぁん熊さんを呼んで花見だ月見だと一杯やったんじゃないかと、上野の山もよく見えたでしょう。両国の花火もきっと見えたことでしょう。でもねえ、越してきたその冬の寒さったらなかったです。すきま風で石油ストーブも怖くて使えなかったし。でも、かつて三田さんもここで冬の寒い日に火鉢で暖をとっていたのかな、なんて考えたら楽しかったですよ。
 森さんは「根津や谷中の民家はちょっとやそっとでは残らない。地価が高く相続税、固定資産税の負担の重い今日の東京で、ただ古い家に住んでいるだけでは残すのは難しい。建物の風情が店に付加価値をつけ、料理にプラスして客を魅きつける店として、『はん亭』がある」と、このように書いてありました。森さんは、私が20年間にも及ぶこの建物との関わり合いを端的に私の言葉で表現してくれたと思います。私は常々、店の従業員にこの店が繁盛しているのは我々の作る料理が人一倍、並外れておいしいわけではなくて、きっと日中鉄筋コンクリートの塊の中で仕事をしてきたサラリーマンの人たちが、この古い木造家屋で食事をしたり、飲んだりすることでやはりその空気と雰囲気の味わいを感じるのだろうと、だからこの建物をもっと大切に扱わなければならないと申しております。この度、この建物が三船先生などのご尽力によって登録文化財ということになりました。名誉であるとともにこの建物が文化的な財産なのですから、もっとこれからも大切に維持・保存していかなければならないという私自身への戒めの印として、21世紀にいつまでもいい形で残せるように頑張っていきたいと思います

(以上「www.gakugei-pub.jp/kanren/rekisi/semi05/02-3.htm」より引用)

 上の話にもあるように、国の「登録有形文化財」に指定されています。

 機会があったら、改めて訪ねてみようと思っています。さて確認したので、本来の目的に。「谷中」は、坂の町。上野台地と西の本郷台地、その間には「藍染川」流域、東は台地のはずれ、と、どこに向かうにも坂を上り下りしなければなりません。

 「根津一丁目」交差点。「不忍通り」と「言問通り」がクロスする所。
「言問通り」。

  
 西が「弥生坂」。                      東が「善光寺坂」。

坂の途中にあった「下町みちしるべ 旧谷中坂町」。

 もともと谷中村に属していた。元禄年中(1688~1704)に寛永寺領となるが町家が形成されるにつれて、付近に善光寺があったことから谷中善光寺前町と呼ばれた。その後、玉村寺門前町と谷中村飛地をあわせ、明治2年(1869)谷中坂町と命名された。さらに同24年三方路と呼ばれたところと善光寺坂、三浦坂、藍染川端などを加えた。
 町名は町の中央に坂があったことにちなんで名付けられた。もとになった坂は「善光寺坂」と言われているが本町北側に位置する「三浦坂」も関係があったと思われる。・・・

 しばらく上って左折し、「旧藍染川流路跡」の道路(この道は、文京区と台東区の区界。かつてその区界を源流付近から「不忍池」まで探索し、blogにUpしました)を北西に進み、「三浦坂」方向へ。

 右折すると、



三浦坂

「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり。一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。

平成4年11月
         台東区教育委員会

 坂の途中にあったお店。

 猫グッズを扱う? 猫好きにはちょっと興味をもちましたが、素通り。

坂の上から西方を望む。左手はお寺がたくさん。

 「三浦坂」を上り、左に二度曲がると、「大名時計博物館」。

 大名時計博物館(だいみょうとけいかぶくつかん)は、東京都台東区谷中にある時計の博物館である。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗に収集された江戸時代の大名時計が公開されている。
(以上、「Wikipedia」より。)

 大ヒットした、NHKの連続テレビ小説(2013年)「あまちゃん」で、外観が「まごころ第2女子寮」として使われた、とのこと。

  

 その先を右に曲がると、「赤字坂」。

  
石段の下の道路。                      坂の途中から見上げる。

 「赤字坂」はそのネーミングのユニークさからタモリさんをはじめ、大勢の人が取り上げています。いずれも、曰く因縁の説明にはそれほど相違点はないようですが。

赤字坂(明治坂)

 坂上に明治の大財閥、渡辺家の屋敷があった。初代が明石屋治右衛門だったので略して「明治(あかぢ)」だ。九代目が東京渡辺銀行を設立したが、昭和2年の金融恐慌で破産、姉妹行のあかぢ貯蓄銀行も同時に閉鎖し、破綻した。根津や千駄木、谷中では損害を被った人が続出し、人々は皮肉って「赤字坂」といった。銀行によく「あかじ」とつけたものだ。
 実は東京渡辺銀行の破産は時の片岡大蔵大臣の失言によるものだった。

(以上、「台東区の坂-3: 坂道散歩」8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2005/09/post_950e.htmlから引用させてもらいました。

 坂道を下ると、さきほどの旧藍染川流路跡(区界)。
 
旧藍染川流路跡から望む。              坂の途中にある「案内図」。南北が正反対。

右が「台東区」、左が「文京区」。

 いよいよ「へび道」にさしかかります。曲がりくねり、道幅も狭くなります。

「交通標識」にも「蛇行あり」という言葉が(←)。

  
右が台東区、左が文京区(だと思います。振り向いて撮ったとすれば、ちょっと自信がありません)。

  
 「三崎坂」との合流も間近。                 振り返って望む。

 左の写真では右が台東区、左が文京区。右の写真では右が文京区、左が台東区、となります。

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