おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その5。江南サイフォン跡(明戸床止め)。秩父往還。(「荒川」を遡る。第5日目。)

2021-05-03 18:30:23 | 荒川を遡る

             開けた場所に出ます。「江南サイフォン跡(明戸床止め)」。(「荒川左岸82.8k」。)

鉄筋コンクリート製、長さ513m、内径1.3mのサイフォン(伏せ越し)。

江南サイフォンは、かつて農業用水を荒川左岸側から右岸側に送るために、荒川の河床下に設置された水路でした。しかし、荒川の河床低下の影響により、本来は埋設されていて見えないはずの伏越の本体が、川底からむき出しの状態になってしまいました。

2003年(平成15年)、上流に新しい「六堰頭首工」が完成。荒川右岸側への農業用水は、「六堰」から行うこととなり、役目を終えた「江南サイフォン」は撤去されましたが、河床安定の必要上、現在の形となって残されました。

事情を知らない人は固定堰や床止工だと勘違いするようで、俗称は「明戸堰」。実際、「江南サイフォン」の上流と下流では、河床に大きな落差ができ、上流から下流へ勢いよく流れています。そのため、下流側には大量のブロック(護床工)が設置されています。

なお、江南サイフォン跡の周辺は、冬季に白鳥が飛来する場所となっています。

サイフォン(伏せ越し)

用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い歴史的に古い水路・用水にも見られる工法

(この項、「Wikipedia」より)

右手に堰のようにみえる。露出した岩床も。

下流は、水量が少なくなっている。

下流方向。

右手、土手下に農業用水路跡。デザインが歴史を物語る。

この左岸の「呑口」より「江南サイフォン」によって、荒川の対岸(右岸)の「吐出口」に農業用水を送っていました(現在では使用されていません)。

上流方向。

  両神山(↓)が遠くに。左遠く見えるのは、奥秩父の山々。

                     1880年代のようす。荒川はたくさんの流れに。

                     2010年代のようす。中央が「江南サイフォン跡」。左岸の堤防はかつてのままの位置のようです。

振り返って望む。

河川敷の農道を進みます。

                 

ミツバチの巣箱。養蜂所の施設。

農作業中の車も。

この道をこのまま進めばよかったのですが、右手の堤防に上がり、集落を通り、「秩父往還」(国道140号線)の方へ。

竹林。

集落に入っていきます。

 

       蔵づくり。

大きなおうちが目立つ。

秩父往還」。

中山道熊谷宿を起点として荒川渓谷沿いを通り、秩父盆地を横断し、雁坂峠を越えて甲州に入り甲府に至る街道。現在の「国道140号線」に相当する。標高2082mの雁坂峠に1998年(平成10年)、「雁坂トンネル」が完成して、ようやく埼玉・山梨両県間を自動車で移動することができる道となった。古くは日本武尊説話が残る場所があり、大和朝廷の軍事的勢力征服の進路を示している。

※「雁坂峠」=南アルプスの三伏峠や北アルプスの針ノ木峠と共に日本3大峠に数えられている。(若い頃、これらの峠を越えたことがあります。)

                車の行き来はけっこう多い。

「秩父往還跡」碑。ここで右折し、「武川」駅」に向かいます。

                     1880年代のようす。東~西の道が「秩父往還」。

                     2010年代のようす。赤線が現在の秩父往還(国道140号線)。

 

色とりどりの機関車。

 貨車。石灰石などを頻繁に運んでいます。 

  

ラッピング電車。装飾がみごと。

熊谷で降りてからもう一つ出かけます。次回にその番外編を。


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