おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その3。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-18 20:05:34 | 五日市街道
                               (10:50)少し高台になった旧道を歩く。

 「現五日市街道」をしばらく進み、「西中学校入口」交差点を斜め右に上がっていきます。一段と高くなって見晴らしがよくなります。
 

家並みの向こうに「東京サマーランド」の観覧車が。
                             その名の如く趣向を凝らしたプールが人気。来たことはありませんが。

住宅街を進む。 

再び現街道に合流。引田、山田を過ぎます。

 

(11:05)右手にお醤油屋さん。

                       商標は「キッコーゴ」。

東京で唯一醤油を醸造する蔵元 東京・近藤醸造

醤油ソムリエール黒島慶子の日本醤油紀行
〈 この連載・企画は… 〉  小豆島の「醤(ひしお)の郷」と呼ばれる地域に生まれ、蔵人を愛する醤油ソムリエールが
真心こもった醤油造りをする全国の蔵人を訪ねます。

riter profile
Keiko Kuroshima
黒島慶子くろしま・けいこ
●醤油とオリーブオイルのソムリエ&Webとグラフィックのデザイナー。小豆島の醤油のまちに生まれ、蔵人たちと共に育つ。20歳のときに体温が伝わる醤油を造る職人に惚れ込み、小豆島を拠点に全国の蔵人を訪ね続けては、さまざまな人やコトを結びつけ続けている。高橋万太郎との共著『醤油本』発売中。

 東京の緑豊かな土地で醤油を造る
 東京で醤油を造る蔵元は〈近藤醸造(屋号「キッコーゴ」〉1軒のみ。
 東京駅から中央線で武蔵五日市方面に電車で約80分。
 澄んだ空気と緑に恵まれたあきる野市にある。

 「ものづくりが好きなんだよね。ラベルも自分でつくるし、年賀状づくりも9月から取りかかる。でも醤油造りは一番おもしろいよ。どんなに手をかけても、結局は人ではなく菌が造るんだからね」

 近藤醸造3代目の近藤功さんは、温かな気持ちで醤油を造り、届けます。

3代目近藤功さんが描いた年賀状。9月から練り、1万4千枚も出している。

 緑豊かな多摩の山裾に位置する近藤醸造は、明治41年から100年余続く蔵元。

“東京”のイメージから離れた緑豊かな場所で、清流秋川から流れるきれいな水と、国産丸大豆と国産小麦を使い、天然醸造で醤油を育みます。

 「東京にも昭和53年には22軒の蔵元があったんですよ。でも、うち以外の醤油蔵は、広い敷地を有効活用し、貸しビルを建てたり、別の事業に転業したりしました。うちも、昭和55年頃に道路を拡張するからと退かなければいけなくなって、これを機にホームセンターをしようかなと思ったこともありました。日曜大工が趣味なので。けれど、秋川渓谷の入口にあるこの土地でやるべきことは……。そう思うとやっぱり醤油業だと思ってね」

・・・

 そうしていつの間にか東京唯一の醤油醸造元になった近藤醸造。

 「東京は昔から県外の醤油がどんどん入ってきていたから、1軒になったからと言って売り上げが伸びるわけじゃない。それより、東京で醤油を造るぞ、と思う仲間がいてほしかったですね」

 そう話す近藤さんは寂しげ。
 「私が入社した昭和40年頃は、小さな蔵元の醤油よりも、大手の醤油が魅力的に見える時代で、消費者も大手のものを使いたがっていたし、ましてや価格で競争なんてできるはずもない。
 そこで近所の家庭に醤油を配達して、顔の見える関係のなかで使ってもらってきました。いまでもうちの醤油を使っているのは、あきる野市やその周りの家庭が多いです」

 それを物語るように、お店には女性が空ビンを2本持ってきて、醤油を買っていきました。

 近藤さんは70歳とは思えないほど筋肉がガッチリとついた体つき。昼夜問わず力仕事をしてきたことが表れている。4代目の近藤寛さん。総括や人事、醤油加工調味料を担当している。

“東京産の醤油”を使った商品で注目されるように
 次の世代に向けて
 「醤油屋の数は減り続け、業界も変動しています。だからこそ関係性の大切さを感じています。うちの蔵を見て醤油のすばらしさを知ってもらえれば、そのよさが伝わっていくと感じています。
 小学校の見学を受け入れて、もう30年ほどになります。あきる野市の小学生はほとんどうちの蔵を見ていますよ。態勢を整えて、来年4月頃からは個人の見学にも対応できるようにしようと思っています」

 私も蔵を見せてもらうことに。もろみを仕込む木桶は、譲り受け使い続けている明治8年製のもの。窓から光が静かに射し、熟成香が染みついています。そしてそのもろみ蔵の隣に、新しい麹造りの工場が建っています。

 「そろそろ息子に代替わりをしようと思って、3年前に思い切って麹を造る工場を新しくしたんです。道具も建物もすべて。私もいま70歳。自ら望んで蔵に入った息子も40を超え、もう15年以上の経験を持ちましたから」

 工場も機械も新しくするのは、減価償却も難しく勇気のいること。それでも息子の代を想い、態勢を整えてきました。

麹のできを確認する近藤さん。

できあがった麹。新工場はなかなか安定しなくて必死で試行錯誤してきた結果、やっと最近安定してきたという。

・・・

 蔵に併設している売店も2014年2月に改装。近藤醸造の周辺は多摩産の木材が集まる地域。売店にも、蔵からほどないところにある青梅の御岳山から切り出した木材などを使い、床板も施工業者の指導のもと、スタッフみんなで金槌を片手に張っていきました。温かみを感じる店内には醤油や調味料、醤油スイーツがずらり。

 「最近は“東京産”の商品を出したいということで、うちの醤油を前面にアピールした商品をつくってくれるところが少しずつ出てきました。東京駅に入る〈三州総本舗〉さんの〈東京ふみう〉というせんべいもうちの醤油を使い、うちの商品かと思うくらい近藤醸造をアピールしてくれています。東京駅の前にある商業ビル〈kitte〉の〈東京から揚げバル〉さんでも『東京醤油にこだわった鶏から揚げ』として、うちの名前を出してくれています」

 近藤さんはうれしそう。

・・・
 
 近藤醸造さんの醤油は、素朴で懐かしさを感じる風味。その醤油を使ったせんべいも、滋味に富む味わい。
 そうか、近藤さんの醤油を使うと、東京で提供する新しい商品やサービスに背景が生まれるのか。
 これからも温かい人柄の近藤さん親子によって育まれ、そしてあきる野市を中心に、都内や各地の食卓を豊かにしていく。

近藤醸造 
キッコーゴ
住所:東京都あきる野市山田733-1
TEL:042-595-1212
http://www.kondojozo.com/

(この項、「」HPより)

その駐車場にあった「秋川渓谷案内図」。

JR「武蔵五日市」駅に向かいます。

 (11:17)右手「岸タイヤ商会」さんのところを斜め右に入って行くのが「旧道」。
 

広い通りと交差する手前の民家のところに道標があります。

→五日市 檜原方面。←八王子 拝島 福生方面。

→津久野 青梅方面。←川戸村 恩方方面。

 その先で交差します。青梅方向(北)を望む。

旧道はそのまま横切って進みます。

農家の庭先に農産物が。のらぼう菜」。

こちらはとうがらし。

「のらぼう菜」? あまり見かけない野菜。 
 菜の花に良く似ていますが、春先にとう立ちした主茎を折り、脇芽を摘み取り食べます。
 柔らかい花茎(茎の部分)にはほのかな甘味があり、他の菜花類のような苦味やクセはなく、アスパラガスのような味と歯ごたえが感じられ、やみつきになります。
 普通のナバナ類と同じ料理に使えます。
 栄養価も高く、ビタミンA・Cのほか、鉄分、食物繊維なども豊富です。
 「茎葉タイプ」で、おもに花茎と葉を利用します。全体的に緑色が濃く、和種ナバナに比べて苦味が少なめで甘味があるとされています。

調理の仕方
 さっと一つまみの塩をいれた熱湯で、下茹でしてから使う事をお勧めします。
 おひたしや和え物、マヨネーズを付けたり、シンプルな味付けのものに最適です。
 下茹でした物をさっと炒めたり、パスタの具にしたり、和洋中どのような料理法にも合います。
(この項、「JAあきがわ」HPより)

のらぼう菜
 東京都西多摩地方(あきる野市、青梅市等)及び埼玉県飯能市・比企郡小川町付近で多く栽培されるアブラナ科アブラナ属の野菜である。江戸時代初期には、すでに各地で栽培されていたと伝えられる。耐寒性に優れ、天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際に人々を飢餓から救ったという記録が残る。かき菜などの「なばな」と同系統だが、在来種のアブラナ(和種なばな)ではなくセイヨウアブラナ(洋種なばな)に属している。

歴史
 のらぼう菜がいつ頃から栽培され始めたのか、その来歴は不明とされる。のらぼう菜の原種は、闍婆(じゃば、現在のジャワ島)を経由してオランダの交易船が持ち込んだセイヨウアブラナ(洋種なばな)の1種「闍婆菜」(じゃばな)という品種という説がある。この闍婆菜は各地で栽培が広まり、江戸時代初期にはすでに西多摩地方でも栽培されていた。
 のらぼう菜を含むなばな類は、油を採る目的の他に食用として葉や蕾が用いられ、栽培地の気候や風土によってさまざまな特質が見られるようになった。西多摩地方ではこの食用なばなを「のらぼう」または「のらぼう菜」と呼んでいた。「のらぼう」には「野良坊」という漢字表記がしばしば見られるが、この名で呼ばれるようになった経緯は定かではない。
 のらぼう菜は耐寒性に優れている上、花茎を折ってもまた次の脇芽を何度も出す旺盛な生命力を持った品種である。江戸時代後期の1767年(明和4年)9月、関東郡代伊奈忠宥が地元の名主小中野四郎右衛門と網代五兵衛に命じて、のらぼう菜の種子を江戸近郊の12の村々に配布した記録が残る。のらぼう菜の普及によって天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際、人々を飢餓から救ったと伝わる。あきる野市の子生神社(こやすじんじゃ)には、この事績を記念して「野良坊菜之碑」が1977年(昭和52年)に建立されている。
 のらぼう菜は収穫後はしおれやすいため長距離輸送や大量出荷向きではなく、生産地付近でのみ消費される地方野菜として受け継がれてきた。近年は苦みやくせのないのらぼう菜の味わいが再度注目されるようになって、産地のあきる野市では東京都農業試験場・西多摩農業改良普及センター・JAあきがわが協力して、品種改良を進めている。
 のらぼう菜の本来の旬は、前年8月下旬頃から9月上旬までの間に播種をして苗を畑に植え付けて越冬させた後の3月下旬から1か月足らずの短い期間である。近年では2月初旬から出荷可能な早生種も出回っているが、3月下旬からの晩生種こそが、古来から続くのらぼう菜の系統である。あきる野市五日市ののらぼう菜生産者たちで結成する団体「五日市のらぼう部会」では、早生種の普及に伴う出荷競争での品質低下防止のために、東京都農林総合研究センターで3年間にわたる早生種の試験栽培を依頼した。五日市のらぼう部会は、試験栽培した早生種の中から食味などの優れた2種を選定した。この2種は万一の交雑を防ぐためにあきる野市の山間部で種の採種を慎重に行い、五日市のらぼう部会の会員のみが種子を入手することが可能である。

調理法や利用
 のらぼう菜は冬を越して春先に成長してきた花茎を、根こそぎではなく手で折り取りながら収穫する。鎌を使っての収穫では、育ちすぎて食用に向かない固くなった花茎まで刈り取る恐れがあるため、30センチメートルくらいの長さを目安として必ず手で折り取っている。収穫したての花茎は甘くて雑味がなくて柔らかいが、のらぼう菜を初めて食べる人の中には、美味しい茎の部分を捨てて葉だけを食べてしまう人もいるという。
 のらぼう菜は100グラム中に鉄分1.15ミリグラム、ビタミンA1580IU、ビタミンC90ミリグラム(小松菜の2倍近い量)や食物繊維を豊富に含んでいる。収穫後しおれやすいため、生産地近郊でのみ流通している。店頭では250グラムから300グラムの束になったり、ポリ袋に詰められたりして陳列される。のらぼう菜はゆでてもかさが減らないという長所がある。かつてはおひたしやごま和えにして食していたが、油との相性が良いためバター炒めやマヨネーズ和えにも向き、味噌汁の具にも合うなど調理の用途が広い。
 のらぼう菜は生命力が強く、葉や花茎の部分を摘んで食べた後にはまた次の葉や茎が伸びてくる。耐寒性に優れていてハウス栽培の必要がなく、何回かの収穫ができて長期間楽しむことが可能であるため、家庭菜園にも向いている。

(以上、「Wikipedia」参照)

 どうも途中で興味関心を奪われ、記事がなかなか先に進みません。
 
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