おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その4。(「五日市街道」第1日目。)

2019-02-01 19:39:31 | 五日市街道
                                  桜並木。

(14:09)郊外という雰囲気が出てきます。

 冬景色なので桜並木の趣はありません。
 車道と遊歩道の間に植えられ、「五日市街道」の交通量の増加、「玉川上水」の水量の減少などの影響で、いっときほどの勢いのない古木(ソメイヨシノではなく、江戸中期に植えられたヤマザクラ)が多い。そのため、各種のヤマザクラの若木が植えられています。ソメイヨシノではないのがすばらしい。江戸、明治、と長い年月に亘る、官民一体となって地元の方々の保存活動が展開されています。

 

 
桜樹接種碑
 元文2年(1737)頃、桜が植えられた玉川上水堤は、しだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百余年がたち老木化が進んだので、嘉永3年(1850)、代官大熊善太郎は、田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に、互いに協力して補植するよう命じました。村々では、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。
 この石碑は、嘉永4年3月、田無村の名主下田半兵衛が補植の経緯を後の世に伝えるとともに、桜樹が永久に植え継がれ、保護されることを願って建てたものです。石碑の表に「さくら折るべからず 槐(えんじゅ)宇道人(下田半兵衛)」、裏に無量老人(賀陽ーかやー玄節)撰の「桜樹接種の記」が刻まれています。

                    

名勝小金井(サクラ)について
               
               史跡玉川上水と名勝小金井(サクラ) 明治30年代

 玉川上水堤の桜並木は、200年以上も前から花見の名所として知られ、全国的に有名な花見の名所でした。
日本屈指の桜の景勝地であること、ヤマザクラの天然変種が多数あること、大木が多いこと、という3つの特徴から、大正13年12月9日付けで「史蹟名勝天然記念物保存法」に基づき国の名勝に指定されています。

名勝小金井(サクラ)復活プロジェクト
 花見の名所として知られた名勝小金井(サクラ)の景観は、江戸時代以来、大正13年の指定を経て昭和30年代までは、ヤマザクラの並木だけであり、法面や並木の林床は、様々な野草が自生する草地でした。
 名勝小金井(サクラ)は、近年、交通量の増加やケヤキをはじめとする高木の成長等、生育環境が悪化したことにより、危機的な状態にあります。
これを踏まえ、小金井市は、平成22年3月、文化財保護法に基づく東京都水道局の「史跡玉川上水整備活用計画」(平成21年8月策定)に沿って「玉川上水・小金井桜整備活用計画」を策定し、東京都や市民団体と協働で、名勝小金井(サクラ)復活へ向けた事業を進めています。

後継樹の育成と補植
「サクラ並木復活」のため、市民団体と協働で、歴史的経緯に基づき、多様なヤマザクラの苗木を育成し、東京都に提供、補植を進めます。

(この項、「」HPより)

                歌川広重『藤三十六景武蔵小金井』

         

《小金井桜のふるさと》
 名勝 小金井桜の起源は元文2年(1737年)江戸幕府の新田開発の一環として玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木です。奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜です。
 このヤマザクラの並木は、江戸時代から地元の農民たちにより守られてきましたが、幕府の代官たちも雑木の伐採や桜の苗木の補植を進めるなど、桜を守る努力を続けてきました。今、危機的状況にある国の名勝「小金井桜」を私たちの代で絶やすことなく、後世に引き継がなくてはなりません。
 明治時代の有名な植物学者三好学博士の研究により、玉川上水堤の小金井桜のヤマザクラ並木は天然変種の一大集積地であることが明らかになりました。大正3年奈良の吉野山、茨城の桜川と一緒に名勝として指定されました。

《江戸時代》
 元文2年(1737年徳川吉宗の時代)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎右衛門が吉野や桜川から山桜の名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。
 文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。

《明治時代》
 幕末の動乱期を経て、明治22年(1889年)に甲武鉄道(元JR中央線)が開通しました。当時、武蔵境と国分寺に停車場が置かれ、花見時期には鉄道会社は割引切符を発行、臨時列車を増発し東京から花見客を誘致して日曜日には数千人もの行楽客が訪れました。
 玉川上水付近の新田農家はにわかに花見茶屋に変身し、一年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎを得て、地域経済は大いに潤いました。やがて甲武鉄道は国有化され、大正15年(1926年)に武蔵小金井駅が誕生しました。

(この項、「」HPより)

北側一帯に広がる「小金井公園」入口。

(14:31)「陣屋橋」。

                      
 江戸時代前期の承応3年(1654)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(18世紀前半)ころに、82か村の新田村が誕生しました。
 この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。
 この陣屋から南真っ直ぐ小金井方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和48年に新設されたですが、もとの陣屋橋はここから数十㍍下流にありました。
 また玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の命によって川崎平右衛門等が植えたものです。


「周辺案内図」。上の緑の部分が「小金井公園」。

この付近ではケヤキ並木になってしまいます。

 
      「御成の松」跡。
 玉川上水堤の桜並木(小金井桜)は、江戸近郊随一の花見の名所として知られ、多くの著名な文人墨客が訪れました。武士はしばしば騎馬で遠乗りを行い、文政9年(1826)には越前丸岡藩主有馬誉純(なすみ)、天保14年(1843)には老中水野忠邦等一行が花見に来ています。
 天保15年(1844)旧暦2月25日(4月12日)、第13代将軍家定(当時世継ぎ)一行が花見に訪れました。家定側近の紀行文によると、当日はあいにくの大雨でしたが、家定は馬から下りて堤を歩き、御座所を設けて花見の宴を催しました。
 この家定の御成りを記念して里人が御座所跡に1本の黒松を植え、「御成の松」とよばれてきました。見事な枝振りでしたが、惜しくも平成6年に枯れました。ここはその跡です。

              

(14:39)「小金井橋」。

「名勝 小金井櫻」碑。

この付近の今昔

1880年代のようす。○が「小金井橋」。「海岸寺」「真蔵院」などは現在も同じ位置。


2010年代のようす。北側に「小金井公園」。○にあるガソリンスタンドが当時の「料亭・柏屋」跡。
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