おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

脇本陣跡。七里役所。三度笠。金谷一里塚。機関車トーマス。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その6。)

2015-02-22 18:41:00 | 旧東海道

 宿場は、緩やかな上り坂の旧道(「国道478号線」)に沿うようにつくられています。
 現在の航空写真で見ると、町の中心は大井川に沿った北西側に広がり、南西部は、「牧之原台地」など茶畑が多くある丘陵地帯となっています。
 「旧東海道」は金谷宿のはずれ、JR「金谷駅」東のガードをくぐり、南西の丘陵地帯の、上り・下りの続く峠道へ向かいます。 「金谷宿」が、旅人にとって東は大井川、西は小夜の中山、と難所を控える宿場として繁盛したことが分かります。
 車も人も行き来が少ない国道を西方に上がって行きます。
 「金谷宿」には東海道時代の建物など当時のそのものは復元を含めて残っていないようですが、当時の様子を伝える説明板が充実しています。

「脇本陣(角屋・金原三郎右衞門家)跡」。

 脇本陣とは、参勤交代の大名や勅使(天皇の使い)、公家(朝廷の直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。
 元禄~正徳(1688~1715)ころの家並み図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。
 寛政3(1791)年の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失してしまいました。それから10年後の享和2(1802)年の記録では、幕府からの借金で、玄関・門構えなどは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし、「脇本陣なし」となっています。
 天保14~安政6(1843~1859)年の「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪105坪(346.8m)、玄関付(門構えなし)と記録されています。
 これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衞門が勤めました。金原三郎右衞門は、享保19(1738)年金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(1818~1830)から明治3(1870)年の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。

 島田市教育委員会 島田宿・金谷宿 史跡保存会

「お七里役所(七里継ぎ御状箱御飛脚小屋)跡」。

 徳川御三家のひとつ、紀州家が重要書類の送信のために、七里(約28㎞)ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)のことです。
 この飛脚は幕府の継ぎ飛脚、民間の定飛脚(町飛脚)に対して、「大名飛脚」・「七里飛脚」とも呼ばれていました。
 紀州家は江戸~和歌山間(146里・約584㎞)に役所を23ヶ所設け、江戸勤番の中間(仲間・下級武士)の中から、体格も良く才能の優れた者を二人ずつ選び配置しました。極めて華美な格好と才覚から、宿内外の顔役となる者も多かったようです。
 実際の御状箱の搬送は、宿問屋から人足を出させるか、賃金を払って人足を雇いました。
 ちなみに上りは掛川宿、下りは丸子宿で引き継ぎました。常便は、月三回(江戸は五の日、和歌山は十の日に出発)、道中は8日かかりましたが、臨時の急便は4日足らずで到着したと言います。しかし、経費が掛かるため、いつの頃か廃止され、定飛脚に委託するようになりました。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会 

 「急便」だと584㎞をわずか4日足らずであった、ということは、1日150㎞近くを駆け抜けたということになり、ほぼ1日、5ヶ所の「七里役所」を継ぎ立てしていったことに。まさに「駅伝」です。
 
    
                        「定(じょう)飛脚問屋(三度屋)跡」。

 田町の南側に「朝倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という定飛脚の問屋がありました。
 定飛脚とは「三都定飛脚」ともいい、江戸と京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。
 並便は昼間のみの往来でしたが阿、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を6日としたことから「定六」とも呼ばれました。
 明治4(1871)年、郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の輸送もこの定飛脚で取り扱われました。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会

 「三度笠(さんどがさ)」の由来をはじめて知りました。

 「三度笠」=竹の皮や菅を編んで作られた笠のうち、頂の部分が尖っている形状のもの。

 これまでは、おなじみの「股旅もの」などの時代劇で渡世人が被っている印象が強かったのですが、もとは江戸、京都、大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び、彼らが身に着けていたことからその名がついた、らしい。「へエ~」という感じです。

 あんかけの時次郎(あんかけのときじろう):藤田まこと。三度笠をかぶり各地を放浪する渡世人。顔が長いところから、馬呼ばわりされる。
 珍念(ちんねん):白木みのる。時次郎の相棒の小坊主。口が達者で小生意気。食べ物に目がない。時次郎が馬呼ばわりされるのに対し、珍念はイイダコ呼ばわりされている。
 という「てなもんや三度笠」って懐かしいTV番組がありました。
 

    
     「金谷宿」案内絵図。              現在とほとんど道の形状は変わっていないようです。

JR「金谷駅」手前には、

     
           「金谷一里塚跡」。

 「一里塚跡」金谷町新町

 延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎木」とある。
 里程 江戸へ53里
    島田へ1里
    日坂へ1里24町

 金谷宿 

 この「一里塚跡」碑を左に折れてJRのガードをくぐって右に行くと、「小夜の中山」方向へ進みます。
     

 今回は、ここまで。「大井川鐵道」の始発駅(乗り換え駅)でもあるJR「金谷駅」へ向かいます。

   
         大井川鐵道線の電車が停車中。
         「沿線観光案内図」。

機会があったら、乗ってみたい路線の一つです。
      
      大井川本線。                井川線・日本唯一のアプト式鉄道。

 この鉄道は、蒸気機関車の動態保存(運転)で有名。子供達には、


 
 平成26年夏、大反響の中運転された『きかんしゃトーマス』号が本年も、大井川鐵道で走行いたします。
 本年は運転日も少し増やして運転しますので、ぜひトーマスに会いにお越しください。また、ジェームスが新 しく仲間に加わることになりました。
 トーマスもヒロもジェームスも皆さまのお越しをお待ちしております。
         ※ 平成27年度の運転は、6月7日~10月12日までの予定です。


(以上、「大井川鐵道」HPより。含:鉄道写真)

 我が家の孫達もいっときは「トーマス」ばかり。絵本やらレールを敷いては走らせて大いにはしゃいでいたが、今や「妖怪ウオッチ」にシフト。連れて行くこともなさそうですが。・・・

 こうして、ほぼ予定通り、午後3時に「金谷駅」に到着しました。しかし、ここから在来線を乗り継いで東京に帰るのも、一苦労です。 

JR金谷駅からの「小夜の中山峠」方向。
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