おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

呉服町。辻之札。七ぶらシネマ通り。府中一里塚。・・・(静岡駅から「宇津ノ谷峠」坂下まで。その1。)

2015-02-02 21:32:47 | 旧東海道

 1月31日(土)。前日の雨・雪だった空もすっかり晴れて、静岡付近まで来ると、快晴。風は冷たいでしたが。

 JR「静岡」駅で下車しての、前回の続き。「江川町交差点」から「呉服町交差点」へ。呉服町の商店街を通り、「伊勢丹」手前の交差点を左折。「七間町交差点」を過ぎて、「サッカーショップ」の角を右折、「梅屋町キリスト教会」の先の角を左折して、「新通り」へ。しばらく進み、右からの「本通り」に合流、「安倍川橋」へ、という順路。「宿場」らしく、右・左折を繰り返して、府中宿(静岡市の繁華街)を抜けていきます。その先は、さほど迷わずに「丸子(鞠子)宿」を経て、「宇津ノ谷峠」へ。

 自宅を6時前に出て、JR東海道線で小田原、熱海、そして沼津で乗り換えて「静岡駅」に着くのが、10時少し前。そこからの行動(歩き)ですから、思ったようには先に進めず、「宇津ノ谷」峠を越え、岡部側の「坂下」バス停から再び静岡駅まで戻って(バス代500円)、在来線で東京へ戻る(もちろん新幹線を使えば楽ですが、こういうことで出かけるためには、節約、節約)。

 この距離になると、自宅からの往復時間も8時間以上かかり(座っているだけでも、大変)、現地での行動にかなり影響が出てきます。まして、真冬。陽の落ちるのも早く感じ、風の冷たさも増してくるので、というわけ。

「呉服町」通り。

 静岡駅前や「江川町交差点」付近の通りの広さから比べると、思ったよりも狭い感じ。しかし、かつての「東海道」府中宿の中心地としての雰囲気が残っていて、賑やかな商店街。

   

呉服町

 今川氏の時代、呉服町は駿府の本町といわれ、当時から城下の主要地城であったことが知られています。現在のように呉服町の名が使われるようになったのは、駿府へ引退した徳川家康が慶長14年(1609年)に行った町割において駿府96ヵ町が定められた時からです。浅間神社に近い北から南に向かって順に1丁目から6丁目までの6ヵ町からなっていました。その名は、この地に今川時代末期(1560年代)から徳川時代初期(1620年代)にかけて絹座、木綿 座の長であった伴野宗善(友野宗全)が住んでいたためつけられたと言われています。宗善は町頭を勤め、駿府町割の際には奉行を補佐し、駿府のまちづくりに活躍した人でもあります。また、呉服町には、その名のとおり、戦前までは十数軒の呉服店が通りに軒を連ねていたことが伝えられています。その後、戦前までは、この名は変わることなく踏襲されてきました。戦後の区画整理に伴い、旧1、2、3丁目が現在の1丁目に、旧4、5、6丁目が現在の2丁目になって現在に至っています。
 また、呉服町は江戸時代の交通の大動脈『東海道』に面しており、多くの人が行き交う「憩いの場」、「交流の場」でありました。東海道は、七間町を通り札の辻を見てから呉服町4丁目に入り、6丁目まで進んだ後、伝馬町方向へと曲がるコースがとられていましたが、最初は、七間町ではなく、本通りを通っ て呉服町1丁目へと入るコースがとられていたようです。その時代から、呉服町は東海道沿いの駿府の中心商店街だったのです。
 その後、呉服町は、明治、大正時代を経て、昭和15年の静岡大火や、戦争による空襲という壊滅的な被害を経験しながら、江戸時代から続く老舗商店やその時代時代の新しい商店が互いに競争しつつ、常に商都静岡市の顔となる商店街の歴史を刻み続けてきたのです。

「札之辻址」。

    

札之辻町

 札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来します。・・・
 高札とは、幕府の法令を庶民に徹底するため、各地域の要所に設置された掲示場です。札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていました。札之辻界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。
 また近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。
 昭和20年、札之辻町は呉服町、七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。

 静岡市教育委員会

  
                           「七間町通り」。

 この通りを進んで行くと、映画撮影機がショーウィンドーのようにガラスケースに収まっているのを発見しました。



 サカエ本社のすぐそばには通称「七ぶらシネマ通り」と名づけられた映画館の街がありました。
 その歴史は明治の時代の、まだ映画が活動写真と言われていた頃からだそうです。
 ここには数軒の映画館が密集していて、静岡に暮らした人の多くが映画を見る為に足を運んだ場所でしょう。
 そんな映画館の街も時代の流れには逆らえず、新たに静岡に出来た商業施設「セノバ」にシネマコンプレックスがオープンとなり移設と共に2011年9月末をもって閉館となりました。
 多くの人が惜しみカメラで街の姿を収めようと来ていました。
 オリオン座は静岡で最大規模の映画館でした。閉館後、この壁画を残すことはできないかと検討されるようですが・・・
 ミラノ座の軒下にはヒメアマツバメのコロニーがありました。いつのまにか撤去されてしまいましたけど・・・屋上に見えるドームは昔、プラネタリウムがあったと聞いています。
 多くの人に夢や希望を与えてきた映画の街は最後に「二十四の瞳」を上映してその幕を下ろし、10月に入ると共に解体の準備に入りました

(「株式会社サカエ「www.omaezaki-sakae.jp/84/post_66.html」HP 2011の記事より)

 かつての映画館跡には、下水道局の大型施設の建設が始まっていました。辺りを見回しても、映画館は一軒もありません。建物としては「静岡東宝会館」というのが目に付いただけでした。

        
 「七ぶらシネマ通り」の標識。               大型照明器具。

 ついつい行きつ戻りつして歩いてしまいました。写真はその後の予定もあるので、これらのみですが。時間があれば、と惜しみつつ先に進みます。上のようなメモリアル計画は、どうなっていくのでしょうか?

「東海道 府中宿」説明板。

東海道 府中宿

 府中宿は江戸から約44里(約176㎞)品川宿から19番目の宿場町です。東見附は横田町、西見附は川越町にあり、天保14年(1843)には、本陣2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道最大規模の宿場でした。
 江戸時代の街道と城下町は、道を曲げたり町の外側に寺を配置することで、敵の侵入を防ぐように作られていました。
 駿府でも、城下町を通る東海道が東の見附から西の見附まで、複雑に折れ曲がっており、的から城や町を守る整備がされていたようです。
 家康公は、駿府のまちづくりの際に、城下町を通る東海道を本通りから新通りに付け替えたといわれています。
 ここを通行する大名や旅人たちは、新通りを主要な街道として利用していました。
 新通りを西(安倍川方面)から東へ進むと、富士山を背景にした駿府城の天守閣の姿が見えたといわれ、家康公もこうした景観を考慮して駿府城下町と東海道の整備を進めたのかもしれません。

「七間町」説明板。

 七間町の由来は、今川時代からの豪商友野氏が七座(七軒)の長として、この地を賜ったためとも、道幅が7間(約14m)あり、これに由来するともいわれています。
 江戸時代の七間町は1丁目から3丁目に分かれていて、町の中心を東海道が通っていました。
 町には竹細工や蝋燭などを商う店が並び、東海道の宿場町として人の往来が絶えない賑やかな町だったようです。

 家康公にまつわるエピソード

 家康公が駿府に住んでいた時代のことです。大坂の豊臣秀頼が京都の方広寺の鐘銘に家康公の名前を勝手につかい、なおかつ「国家安康」と名前を二つに裂いたとして、糾弾される事件が起きました(方広寺鐘銘事件)。
 豊臣秀頼の乳母である正栄尼は、この事件を弁明するために駿府城に登城し家康公に直接謁見することは恐れ多いとしてこの七間町に住んでいた大野氏治の家を訪ね、まず家康公の側室阿茶の局を招いて、謝ったといわれています。
 後に正栄尼は家康公に呼ばれ駿府城に登城し、その弁明も聞き入れられますが、豊臣家側の事件の処理がうまくいかず、この事件が発端となって「大坂の陣」が起こり、豊臣家滅亡に繋がってしまいます。
 戦いに勝利した徳川家は、名実ともに最高権力者となり、家康公は元和2年(1616)に亡くなるまで、この駿府で平穏な日々を送ることになります。

      
                           「新通り」。

 まもなく「一里塚」があるはず。事前調査では「本通り」の方に設置されているらしい、と。そこで、いったん東海道から離れて本通りに向かいましたが、見当たりません。行ったり来たりしながら、よく目を凝らしてみると、通りの向こう側に何やら標識が。

「府中一里塚」跡。

 この「府中一里塚跡(日本橋から45番目)」は「新通り」(旧街道)沿いにはなく、並行する広い本通り(「本町8丁目交差点」付近)に設置されているので、見逃してしまいそうです。

       

 どういうわけか、道路側を向いている。

「説明文」(かなり古びている)。

 ・・・
 一里塚は市内長沼、本通8丁目、丸子、宇津ノ谷の4か所に設置されたが、いずれも現形ををとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。
 現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から28里の起点に築かれたもので、大正11年、国の史跡に指定されているほどである。

 昭和59年3月 静岡市
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