おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

北品川。本陣跡。・・・(品川宿。その1。)

2014-04-17 21:25:28 | 旧東海道
 神奈川宿、川崎宿と歩いてきたので、今回は「品川宿」の巻。品川駅から京急線・大森海岸駅までの道のり。

品川宿
 東海道五十三次の宿場の一つで、東海道の第一宿。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれました。
 慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていました。京急線の「北品川」駅から「青物横丁」駅周辺にかけて広がっていて、目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされていました。
 日本橋から2里、次の川崎宿までは2.5里だったそうです。

京急の踏切の手前にある、品川宿の「案内板」。
「従是南(これより南) 品川宿 地内」。
京急の踏切。「品川」を出発してすぐ南にある駅が「北品川」。「品川宿」の北に当たる地域のため。そもそも「品川駅」は、品川区ではなくて、港区にある。


1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「案内板」付近。上の「停車場」が「品川」。「北品川」「歩行新宿」等の表記がある。南下する直線が東海道線。線路を越えて右に曲がっている道が「旧東海道」。当時から交通の要路として存在し、現在とほぼ変わらない道幅。東京湾に突き出た造成地は「御殿山下台場」(現在、区立台場小学校があるあたり)。
 ちなみに「品川沖」につくった「台場」は、次の絵図に。
(「同」より)

「御殿山下台場」説明板。これによると、品川沖の台場で完成したのは、5基で、他に陸続きのこの台場があった、ということだ。


ほぼ同じ場所の1970(昭和45)年頃のようす(「同」より)。東側(東京湾寄り)に大きく土地が造成されている。旧東海道の東側にある「海岸通り」がかつての海岸跡。

旧東海道・品川宿の町並み。
東側(海側)はかなり低くなっている(ほぼ1㍍台)。この付近の旧東海道の標高は4メートルほど。南に進むにつれてだんだん標高は低くなっていく。東海道・品川宿は海岸線沿いの台地上にある。


「品川宿」の説明板。道幅は当時と同じだとか。
落ち着いた店構えの商店が並ぶ。いかにも街道筋、宿場町といった風情か。
ところどころに古いつくりの商家が残っている。


しばらく進むと、「本陣跡」。明治維新後、明治天皇の宿舎(行在所)になったとかで、現在は、聖蹟公園となっている。
説明板。街道筋の要所要所にある「高札」風の説明板は木製で古いものが多く、見づらい。

公園入口。東側に広がっている。本陣は、南品川、南品川それぞれにあったようだが、北のみになったとか。

公園の奥には、記念碑や銅像などが並んでいる。
一段と大きく立派なのが、「御聖蹟」碑。
かつては古い小学校などには必ずあった「二宮尊徳」像だったらしいが、「新聞配達の少年」像に変えたそうだ。

八重桜が満開。
コメント
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