永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(92)の1

2016年01月06日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の1  2016.1.6

「ともあれかくもあれ、だたいとあやしきを、『入る日を見るやうにてのみやは、おはしますべき。ここかしこに詣でなどもし給へかし』など、ただこのころは異事なく、明くれば言ひ暮るれば嘆きて、さらばいと暑きほどなりとも、げにさ言ひてのみやはと思ひたちて、石山に十日ばかりと思ひ立つ。」
◆◆いずれにせよ、ただもう腑に落ちなでいると、「入り日をみるように、そうふさぎこんでばかりいてはよくありません。あちらこちらに物詣でなどなさいませ」などと勧めるので、このごろは心が他に向かず、夜が明ければ愚痴を言い、日が暮れればため息をついて日々を過ごす始末、
それでは、暑い盛りだとしても、実際嘆いてばかりいてもはじまらないと決心して、石山寺に十日ほどと思い立ったのでした。◆◆



「忍びてと思へば、はらからといふばかりの人にも知らせず、心一つに思ひ立ちて、明けぬらむと思ふほどに出で走りて、賀茂川のほどばかりなどにて、いかで聞きあへつらむ、追ひてものしたる人もあり。有明の月はいと明かけれど、あふ人もなし。河原には死人も臥せりと見聞けど、おそろしくもあらず。」
◆◆こっそりと思ったので、妹という人にも知らせず、自分の胸一つに思い立って、夜が明けかかったと思う頃に小走りに家を出て、賀茂川のあたりに差し掛かった頃、どうして聞き知ったのか、追って来る人もいました。有明の月はとても明るいけれど、行き合う人もいない。賀茂の河原には死骸が転がっているということだけれど、恐ろしくもない。◆◆



「粟田山といふほどに行きさりて、いと苦しきを、うち休めば、ともかくも思ひわかれず、ただ涙ぞこぼるる。人や見ると、涙はつれなしづくりて、ただ走りて行きもて行く。山科にて明けはなるるにぞ、いと顕証なる心地すれば、我か人かにおぼゆる。人はみな遅らかし先立てなどして、かすかにて歩み行けば、あふ者、見る人あやしげに思ひてささめきさわぐぞいとわびしき。」
◆◆粟田山と言う辺りにやってきて、とても苦しいので、一休みすると、心が乱れてただただ涙ばかりがこぼれます。人に見られてはと、涙などをとりつくろって、ただもう小走りに道を急ぎました。山科のところで夜がすっかり明けますと、私の姿はすっかりむき出しで、人目にさらされる感じがして、とてもやりきれない。供人をだれもかれも後にしたり、先に行かせたりして目立たないようにとぼとぼ歩いて行くと、出会う人や、目に止めた人が、怪訝そうにひそひそとささやき合っているので、それがとても辛かった。◆◆

■涙はつれなしづくり=とりつくろって。

■顕証(けむせう)なる心地=(徒歩ゆえの)人目にさらされる感じ。

■粟田山(あはたやま)=京都市東山区と山科区に境の山々の総称。

■石山(いしやま)=石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
『石山寺縁起絵巻』によれば[2]、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。(その他資料としては『元亨釈書』[3] や、後代だが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある[4]。)
その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係していると言われる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。
以降、平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、聖宝、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。
石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890-953)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されている。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。

■写真;石山寺

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