蜻蛉日記 下巻 (143) 2016.9.17
「又つごもりの日許りに、『なにごとかある。さわがしうてなん。などか音をだに。つらし』など、はては言はんことの無さにやあらん、さかさまごとぞある。今日もみづからは思ひかけられぬなめりと思へば、返りごとに、『御前申しこそ御いとまの暇なかべかめれど、あいなけれ』と許りものしつ。」
◆◆また三十日ごろに、「なにか変わったことはないのか。こちらは取り込み中でね。せめて手紙だけでもくれないのか。薄情な」などと、しまいには言うことがなくなったのか、逆恨みをしてきます。今日もあの人自身の来訪はないだろうと思うので、返事に「御前での御奏聞のお役目は、お体のお休みになる暇もないご様子ですが、私には何とつまらないこと」とだけ書いてやりました。◆◆
「かかれど、今はものともおぼえずなりにたれば、なかなかいと心やすくて、夜もうらもなううち臥して寝入りたるほどに、門たたくにおどろかれて、あやしと思ふほどに、ふとあけてければ、心さわがしく思ふほどに、妻戸口に立ちて『疾くあけ、はや』などあなり。
◆◆こんな風で、今は足が遠のいてしまっていますが、それもそう気にならなくなって、かえって気が楽で、夜も心置きなく横になって寝込んでいましたところ、門を叩く音にすっかり目が覚めて、変だと思っていると、召使がさっと門を開けたので、わたしがどきどきしていますと、あの人が妻戸口に立って、「早く開けよ。早く」などと言う声がします。◆◆
「前なりつる人々もみなうととけたれば、逃げ隠れぬ。見苦しさにゐざりよりて、『やすらひにだになくなりにたれば、いとかたしや』とて開くれば、『さしてのみまゐりくればにやあらん』とあり。さてあか月がたに松ふく風の音いと荒くきこゆ。ここら一人あかす夜、かかる音のせぬは、ものの助けにこそありけれとまでぞきこゆる。」
◆◆前にいた侍女たちもみなくつろいだ身なりだったので、逃げ隠れてしまいました。だれも迎えに出る人がいないので、わたしが妻戸口にいざり寄って、「もしかしてお出でになるかと戸締りをせずに寝ることすらこの頃はしなくなりましたので、すっかり錠が錆付いて開けにくくなってしまったこと」などと言って開けますと、「ただ一途にこちらを目指してやって来たせいで、戸も鎖して開かなかったのだろうかね」と言う。さて、夜明け前ごろに松を吹く風の音が、とても荒々しく聞こえます。独り寝をして明かした幾晩もの間、こんなひどい音がしなかったのは、神仏の御加護であったのだわと、思うくらいに荒々しく聞こえるのでした。◆◆
■御前申し=帝の御前で奏上すること。大納言の職務をいう。大納言の和名は「おほいものまうすつかさ」
「又つごもりの日許りに、『なにごとかある。さわがしうてなん。などか音をだに。つらし』など、はては言はんことの無さにやあらん、さかさまごとぞある。今日もみづからは思ひかけられぬなめりと思へば、返りごとに、『御前申しこそ御いとまの暇なかべかめれど、あいなけれ』と許りものしつ。」
◆◆また三十日ごろに、「なにか変わったことはないのか。こちらは取り込み中でね。せめて手紙だけでもくれないのか。薄情な」などと、しまいには言うことがなくなったのか、逆恨みをしてきます。今日もあの人自身の来訪はないだろうと思うので、返事に「御前での御奏聞のお役目は、お体のお休みになる暇もないご様子ですが、私には何とつまらないこと」とだけ書いてやりました。◆◆
「かかれど、今はものともおぼえずなりにたれば、なかなかいと心やすくて、夜もうらもなううち臥して寝入りたるほどに、門たたくにおどろかれて、あやしと思ふほどに、ふとあけてければ、心さわがしく思ふほどに、妻戸口に立ちて『疾くあけ、はや』などあなり。
◆◆こんな風で、今は足が遠のいてしまっていますが、それもそう気にならなくなって、かえって気が楽で、夜も心置きなく横になって寝込んでいましたところ、門を叩く音にすっかり目が覚めて、変だと思っていると、召使がさっと門を開けたので、わたしがどきどきしていますと、あの人が妻戸口に立って、「早く開けよ。早く」などと言う声がします。◆◆
「前なりつる人々もみなうととけたれば、逃げ隠れぬ。見苦しさにゐざりよりて、『やすらひにだになくなりにたれば、いとかたしや』とて開くれば、『さしてのみまゐりくればにやあらん』とあり。さてあか月がたに松ふく風の音いと荒くきこゆ。ここら一人あかす夜、かかる音のせぬは、ものの助けにこそありけれとまでぞきこゆる。」
◆◆前にいた侍女たちもみなくつろいだ身なりだったので、逃げ隠れてしまいました。だれも迎えに出る人がいないので、わたしが妻戸口にいざり寄って、「もしかしてお出でになるかと戸締りをせずに寝ることすらこの頃はしなくなりましたので、すっかり錠が錆付いて開けにくくなってしまったこと」などと言って開けますと、「ただ一途にこちらを目指してやって来たせいで、戸も鎖して開かなかったのだろうかね」と言う。さて、夜明け前ごろに松を吹く風の音が、とても荒々しく聞こえます。独り寝をして明かした幾晩もの間、こんなひどい音がしなかったのは、神仏の御加護であったのだわと、思うくらいに荒々しく聞こえるのでした。◆◆
■御前申し=帝の御前で奏上すること。大納言の職務をいう。大納言の和名は「おほいものまうすつかさ」