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枕草子を読んできて 「五節の舞姫とは」

2019年02月06日 | 枕草子を読んできて
■■五節の舞姫とは■■  2019.2.6

五節舞、五節の舞(ごせちのまい)とは、大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示のもと、大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる、4~5人の舞姫によって舞われる舞。大嘗祭では5人。

 大歌所には和泉国から「十生」と呼ばれる人が上洛し、臨時に大歌所に召された官人に教習した。別当はこの大歌所の責任者である。
舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人が選ばれ、選ばれた家は名誉であった。また、女御が舞姫を出すこともあった。大嘗祭では公卿の娘が3人になる。

 古くは実際に貴族の子女が奉仕し、大嘗祭の時には叙位にも預かった。清和天皇の后の藤原高子も后妃になる前に清和天皇の大嘗祭で舞姫を奉仕して従五位下に叙された。もっとも貴族女性が姿を見せないのをよしとするようになった平安中期以降、公卿は実際に娘を奉仕させず、配下の中級貴族の娘を出した。『源氏物語』少女巻において、光源氏が乳母子の惟光の娘(のちの藤典侍)を奉仕させたというのも、こうした時代背景を反映する。

 また、これとは別に五節舞姫と天皇が性的関係を結ぶことが行われ、天皇と貴族との関係強化の場としても機能していたが、藤原北家などの特定の家からしか天皇の后妃が出せなくなると、性的要素が排除されて変質が行われて行ったとする見方もある[1]。

 舞姫に代理を出すようになっても、五節舞姫奉仕は奢侈的に行われ、宮中に賜る局の設営や女房・童女の装束等に多大な費用を要した。すでに延喜14年(914年)の『意見封事十二箇条』では舞姫を毎年貴族に出させるのをやめ、専門の舞姫を置くという案が出されているが、その第一の目的が奢侈の防止にあった。

 摂関家から舞姫を出す時には配下の受領らの奉仕が当然のように行われ『類聚雑要抄』や『猪隈関白記』『勘仲記』には経費割り当ての文書である「五節雑事定文」が掲載されている。選ばれた舞姫は練習に明け暮れ、新嘗祭の前々日である丑の日の夜に宮中へ参上、直に、「帳台試(ちょうだいのこころみ)」と称して常寧殿にて天皇に練習を披露、前日の寅の日に「御前試(おんまえのこころみ)」と称して清涼殿にて天皇に練習を披露、当日の卯の日に「童女御覧(わらわごらん)」と称して舞姫に付き従う童女を清涼殿にて天皇が御覧になるなど、天皇自身からの試験も厳しかった。

 五節舞の情景を描写した、僧正遍昭の「天つかぜ 雲の通ひ路吹きとぢよ  をとめの姿しばしとどめむ」の歌が有名である。    


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