永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(92)の2

2016年01月08日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の2 2016.1.8

「からうして行きすぎて、走井にて破籠などものすとて、幕引きまはしてとかくするほどに、いみじくののしる物来。いかにせん、誰ならん、供なる人見知るべき物にもこそあれ、あないみじと思ふほどに、馬にのりたるものあまた、車二三ひき続きてののしりて来。『若狭の守の車なりけり』と言ふ。」
◆◆やっとの思いで通り過ぎて、走井(はしりい)というところでお弁当などをするというので、幕を引き回し、食事をしていると、ひどく大声で先払いをする一行がやってきました。どうしたものか、誰であろう。供人を知ってしる者であったら困るし、ああ大変だ!と思っていると、馬に乗ったものを大勢従え、車を二台、3台連ねて、がやがやとやってきます。「若狭の守の車でした」と供人が知らせてきました。◆◆



「立ちもとまらで行きすぐれば、心地のどめて思ふ。あはれ、ほどに従ひては思ふ事なげにても行くかな、さるは明け暮れひざまづきありくもの、ののしりて行くにこそあめれと思ふにも、胸裂くる心地す。」
◆◆一行は立ち止まりもせずに通りすぎたので、ほっと胸をなでおろしたのでした。まあ、受領は受領なりに身分相応に満足しきって行くものよ。その実、兼家の前では常に腰を低くして立ち回っている者が、京を出れば、このように威張り散らしていくことよ、と思うと、胸が張り裂けそうな気がするのでした。◆◆


「下衆ども、車の口に付けるも、さあらぬも、この幕近に立ち寄りつつ水浴みさわぐふるまひの、なめうおぼゆること、物に似ず。わが供の人わづかに、『あふ立ちのきて』など言ふめれば、『例も行き来の人寄る所とは知りたまはぬか、咎め給ふは』など言ふを見る心地は、いかがはある。」
◆◆若狭の守の供の者で、車の口についている者も、そうでない者も、この幕の近くに寄って来ては、がやがやと水浴びをする、その様子の無礼さといったら、例えようがない。私の供人が、「おい、そこからどいてくれ」などと言っているようですが、「いつも往来の人が立ち寄る所だとは、ご存知なさらぬか。とがめだてなどなさって」などと言っているのを見る心地はどんなだったことか。◆◆


「やりすごして今は立ちゆけば、関うち越えて、打出の浜に死にかへりて至りたれば、先立ちたりし人、舟に菰屋形ひきて設けたり。ものもおぼえずはひ乗りたれば、はるばるとさし出だして行く。いと心地いとわびしくも苦しうも、いみじう物かなしう思ふこと、たぐひなし。申の終はりばかりに、寺の中に着きぬ。
◆◆その一行をやり過ごしてから、出発して逢坂の関を越えて、打出の浜にまったく死んだようになって到着すると、先に行った人が菰屋形をつけた舟を用意していました。ぐったりしたままやっとのことで乗って、はるばると漕ぎ出して行く。ひどく気分がわびしいやら、苦しいやら、たいそうもの悲しく思われることといったら、たぐいがありませんでした。午後五時ごろにお寺の中に着きました。◆◆


■若狭の守(わかさのかみ)=当時、若狭の守は藤原元尹(もとただ)か。国司補任。

■なめう=「なめく」のウ音便。無礼に。

■申(さる)の終はり=午後5時ごろ。

■石山寺と文学作品[編集]
石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
『枕草子』二百八段(三巻本「日本古典文学大系」)には「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女も寛徳2年(1045年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。 『和泉式部日記』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、 和泉式部が敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。

伽藍[編集]
• 本堂(国宝) - 正堂(しょうどう)、合の間、礼堂(らいどう)からなる複合建築である。構造的には正面7間、奥行4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)の正堂と、正面9間、奥行4間の礼堂という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になる。正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県下最古の建築である。内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に建立されたものである。合の間の東端は「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されている。礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造(かけづくり)となっている。懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い。
• 多宝塔(国宝) - 建久5年(1194)建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。
• 東大門(重文) - 参道入口の門。入母屋造

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