永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(52)

2015年07月17日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (52) 2015.7.17

「『今年は節きこしめすべし』とて、いみじうさわぐ。いかで見むとおもふに、ところぞなき。『見むとおもはば』とあるを聞きはさめて、『双六うたん』と言へば、『よかなり。物見つくのひに』とて、女うちぬ。よろこびてさるべきさまのことどもしつつ、よひの間しづまりたるに、硯引き寄せて、手習ひに、
<あやめぐさ生ひにし数をかぞへつつ引くや五月のせちに待たるる>
とて、さしやりたれば、」
◆◆「今年は端午の節会(五月五日)を帝が催しあそばす」とのことで、世間中が大騒ぎしています。私も見物したいと思うものの座席がありません。あの人が「見たいと思うなら」と言うのを私が小耳にしたので、その後「双六を打とう」と言われたときに、「ええ、やりましょう。見物席を賭けて」と言って、良い目を打ち出して私が勝ちました。うれしくてそのときの見物の用意など細々としながら、宵の間の人が寝静まった時分に、硯を引き寄せて、手すさびに、
(道綱母の歌)「五日に引く菖蒲の数を数えては、五月の節会の日が切に待たれることです」
と書いて、差し出しますと、◆◆



「うち笑ひて、
<隠沼に生ふる数をば誰か知るあやめしらずも待たるなるかな>
と言ひて、見せんの心ありければ、宮の御桟敷のひとつづきにて、二間ありけるを分けて、めでたうしつらひ見せつ。」
◆◆あの人は、にっこりとして、
(兼家の歌)「隠沼(かくれぬ)のように、人目にふれぬ沼に生えている菖蒲の数など、誰が知っているでしょうか。それと同じように見物席があるかどうか分らないのに、むやみにあなたは待っているのですね」
と言って、祭りを見せようとの気があったので、宮様の御見物席と一続きで二間あった席を仕切って、立派に調えさせて見物させてくれました。◆◆


■端午の節会=(たんごのせちえ)
「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月五日となり、その中でも数字が重なる五月五日を「端午の節句」と呼ぶようになった。
日本には、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。しかし、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・刀・武者人形(五月人形)などを飾り、庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てて、男の子の成長を祝うようになった。
「菖蒲の節句」とも言い、古くから邪気を除くために菖蒲を軒にさしたり、ちまき、柏餅を食べる習わしがある。男児のいる家では鯉のぼりを立て、五月人形を飾って出世を祝います。鯉のぼりは江戸中期に町屋で行なわれ、「黄河の急流の竜門を登った鯉は竜となる」といわれる鯉に立身出世を願って大空を泳ぐようになった。
大宝律令制定の701年には朝廷により競馬(くらべうま)がおこなわれ、律令は端午節に節会を行うことを定め、平安時代には五節会の一つにかぞえられた。江戸時代には幕府が五節供の一つに定めた端午節は、一般にも広く祝われて、次第に男子の節供となった。
かしわ餅は、平安時代の「椿餅」が元の形、椿の葉を二枚餅の両面につけたものだった。 柏の葉は大きいので1枚で包むようになり、流行したのは江戸中期ごろとされている。かしわの葉は若い葉が出ないと古葉が落ちないことから跡継ぎが絶えないという縁起に習ったものである。
ちまきは、古代中国の忠臣屈原(くつげん)の命日が五月五日で供養のために米を入れた竹筒を供えたのが始まりと言われている。


■双六(すごろく)=双六は現在にもみられるが、現在の双六とは異なる。双六盤の区画の上に黒白各十五個の駒を置き、二人が交互にサイコロを振ってその目数によって駒を進める。サイコロは現在と同じく各面に一個から六個の点を打つ。白河法皇が自分の意にならないいわゆる「三不如意」に、賀茂川の水・山法師とともにサイの目をあげたのはあまりにも有名。

■写真は双六をしているところ。

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