Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

石上神社(2012年9月29日参拝)

2012-10-18 | 神仏霊場巡拝の道
本日は1年前に予約した森伊蔵を買いに奈良の山奥の酒屋へ。

その前に久しぶりに天理に行ってみようということで、
まずは石上神社へ。

この石上神社は今回初めての参拝。

石上と書いて「いそがみ」と読みます。

今までは特に行きたいとは思ってなかったのですが、
近鉄電車に乗ってると石上神社のポスターが貼ってあって、
その楼門が余りにも見事だったので急に行きたくなりました。(^^



所在地:奈良県天理市布留町384
主祭神:布都御魂大神
社格:式内社(名神大)、二十二社(中七社)、旧官幣大社、別表神社
創建:(伝)崇神天皇7年(紀元前91年)
札所:神仏霊場巡拝の道19番(奈良6番)


【由緒】
日本最古の神社の一つ。
 
総称して石上大神と仰がれる御祭神は第10代崇神天皇7年に現地、
石上布留の高庭に祀られました。
古典には「石上神宮」「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」等と記され、
この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、
現在の拝殿は天皇が宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えています。
 
中世に入ると興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、
布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は同寺とたびたび抗争。

戦国時代に至り織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、
壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。
しかし氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え神祇の国家管理が行われるに伴い、
明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。
 
当神宮にはかつては本殿がなく拝殿後方の禁足地を御本地と称し、
その中央に主祭神が埋斎され諸神は拝殿に配祀されていました。
明治7年菅政友大宮司により禁足地が発掘され御神体の出御を仰ぎ、
大正2年御本殿が造営されました。
 
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ昔の佇まいを残しています。



【布都御魂大神】
国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊」に宿られる御霊威を称えて
布都御魂大神と申し上げます。

韴霊とは古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される
武甕雷神がお持ちになられていた剣です。


【鳥居】



【廻廊】


鳥居をくぐり廻廊が見えてきました。


【楼門】




重要文化財。

鎌倉時代末期の第96代後醍醐天皇の文保2年(1318)に建立。
往古は鐘楼門として上層に鐘を吊るしていましたが、
明治初年の「神仏分離令」により取り外され売却されました。


重文の名に恥じぬ楼門です。

思ってた以上に渋く美しい楼門でした。


【拝殿】




当神宮への御崇敬が厚かった第72代白河天皇が鎮魂祭の為に、
永保元年(1081)に宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられています。

建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられます。
いずれにしても拝殿としては現存する最古のものであり国宝に指定されています。


ほう、
参拝した時は重文かなと思ったが国宝とは。


祈祷の初穂料は5,000円~だから、
今度祈祷していただこうかな。

国宝の拝殿で祈祷していただくなんて貴重な経験だしね。


【出雲建雄神社拝殿】






保延3年(1137)に建立された国宝。

元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが大正3年に現在地に移築。

内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院でしたが、
神仏分離令により明治9年に廃絶しました。
その後も鎮守社の住吉社は残されましたが住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、
拝殿だけが荒廃したまま残されていましたので当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築。


何気に国宝です。

神仏分離令による廃寺とか本当に残念です。

明治政府は後世に残る大悪行をおこなってくれたもんです。(怒)


【天神社】




摂社。


【七座社】


摂社。


【出雲建雄神社】




摂社。


【ニワトリ】


境内で飼われていました。
ひさしぶりにニワトリを見た。


【御朱印】





この後、天理教の神殿を見に行ったのですが、
余りの施設の大きさと雰囲気に呑まれ退散。

何だか天理教の信者じゃないと居心地が悪く、
私が行くような場所じゃないなと感じた次第。(^^;

中学の友達に天理教の信者がいるので、
他の新興宗教と違って嫌悪感は無いのですが。

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