ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

錦市場を救った伊藤若冲

2024-06-19 | Weblog
 若冲は五十六歳のころから還暦の直前まで、ほとんどというか、まったく画を描いていません。空白の謎の期間でした。ところが近年、やっと原因が判明しました。滋賀大学経済学部の宇佐美英機教授が、伊藤若冲が生まれ育った錦市場の事件の事を、経済史の立場から解明されたのです。今回の発見と分析は、学問がそれぞれ孤立せず、連携することの大切さを痛感させる大事件でした。
 若冲は存亡の危機にあった錦青物市場の救世主でした。それこそ命をかけて全力で疾走していたのです。これまでの若冲という人物の評価は、世事に疎く画を描くしか能のない畸人とされていました。そのような人物観はものの見事に打ち破られてしまったのです。驚くべき若冲の勇姿が出現しました。

 ところでこの一文は、そもそも若冲が晩年に力を注いだ石峰寺、彼の墓もここにありますが、「伊藤若冲顕彰会」会報に寄稿したものの部分です。そしてその後、このブログシリーズで再掲載。しかし読者は予想より少なすぎた…。それで、衣もほぼ同じですが、再々登場させます。

一七七一年 明和八年 辛卯 五十六歳
〇一二月二十二日 京都東町奉行所より錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。商いがそもそも公許を得てのものなのか、その証文はあるか、また営業の内容は正当であるのか、返答書を求められた。このような意外な事態が生じた原因は、同じ青物市場で競っていた五条大橋西の五条問屋市場の謀略であった。錦高倉青物市場の解体、分裂弱体化させての傘下化、さらには錦高倉市場の廃止を画策したのである。
〇一二月二十四日 東町奉行所への返答書に、帯屋町年寄の若冲名「高倉通四条上ル丁/年寄/若冲」

一七七二年 明和九年 壬辰 五十七歳 
〇一月 錦高倉市場は奉行所より営業停止を言い渡される。青物市場四町の代表者である帯屋町年寄の役にあった若冲は、この苦境を解決するために対外交渉に当った。彼は五条市場と妥協することなく、正々堂々と役所と交渉する道を選ぶ。若冲は五条市場からの理不尽な提案に対し、四町は揃って拒絶する旨の書を返した。「五条問屋丁ニしたかい申候訳者一切無御座」。四町は中魚屋町、西魚屋町、帯屋町、貝屋町。
〇二月三十日 いったんは営業再開にこぎつけた。しかし七月にはまたもや営業を停止させられる。
〇幕府直轄の諸都市における町年寄は、他の有力町人とともに江戸城において将軍に拝謁できるという格式を与えられていた。年頭には江戸の町年寄はじめ、上京、下京、大坂、堺、奈良、伏見の町年寄などが白木書院の縁側で将軍に目見を受けた。若冲は京を代表する町年寄ではないが、いざとなれば幕府に訴え出ることが可能な立場であったと思われる。
〇四月 大典が相国寺慈雲庵に復帰。本山からの度々の強い勧告を受け、十三年ぶりに戻った。画ばかり描いている聞中への大典の叱責はこのときか。聞中は若冲から作画を習い、毎日一紙の芦雁を描くことを日課にしていた。聞中はその許可を大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に関する訳では、決してない……」。大典著『小雲棲手簡』二編下(一七八七年刊所収)。驚きそして残念に思うのは、描画を否定するかの厳しい言葉と、苦境にある若冲を大典の相国寺が助けた気配が感じられないことである。相国寺なら幕府に対してそれなりの影響力を示せたのではないか。
〇七月 奉行所はまたもや錦高倉市場の営業停止を命じた。困りぬいた若冲は医者の四条原洲菴に悩みを話した。「市場は差しとめられ、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の農民百姓町人たちが難儀している」。原洲菴は江戸から入洛していた知人の中印中井清大夫を紹介した。若冲は中井に会い、その意見を取り入れ、困窮している農民を取り込む作戦をたてた。若冲はまず壬生村の庄屋四郎八を説得し連携行動をとる。若冲は四郎八に「どのようなことがあっても、わたしが責任を取る」と語った。
〇秋 若冲たちは西九条村、中堂寺村の賛同も得る。彼らはこのままでは農の生活が成り行かず、年貢の上納にも支障が生じると奉行所に訴え出た。また五条問屋市場と錦青物市場とはまったく性質の異なる市場で、錦青物市場がなくなれば、京の需要がまかなえないとする書状を提出した。賛同する村はその後も増える。若冲は東九条村や御霊村に出向いて説得した。西七条村、西塩小路村、上鳥羽村、東寺廻りも加わり、若冲の努力で九ヵ村連合が結成された。錦市場とは取引のない聖護院村、吉田村、岡崎村までもが加勢を申し出た。
〇八月二十五日 若冲は町年寄をあえて辞任する。彼は錦高倉四町を代表する町年寄であったが、理由は万一市場再開が不可能になれば江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。実行すれば、責任者は命を賭す直訴である。若冲は命がけで幕府評定所に出願する決意を固めた。役をついだ町年寄の三右衛門に若冲は「関東に下って江戸奉行に訴え出る覚悟がある」と語っている。自らを平ラ(ひら)にしたのは、その累がせめて錦高倉市場に及ばないようにという配慮である。
〇一一月二日 十二ヵ村代表が寄りあった。中井は「町奉行所から市場再開の許可が下りなければ、七ヵ村の御蔵百姓たちと錦街商人たちが江戸に出願したらどうか。この場におられる若冲さんもその覚悟である」と話した。東九条村はおじけづき役所への願いを取り下げた。御蔵とは幕府直轄の米蔵で、七ヵ村は幕府領地の天領であった。町奉行の直接支配を受けない天領の農民たちは、江戸表の幕府役人に出願することが可能であったのかもしれぬ。またそのような彼らの気配は、奉行所役人にとって容認しがたい、分をわきまえない行動なのではないか。
〇聞中は隠元百回忌の書記をつとめるために、萬福寺に呼びもどされた。翌年には住持の伯珣結制の冬安居の知浴をつとめる。
〇一一月十六日 安永に改元。

一七七三年 安永二年 癸巳 五十八歳
〇この年も錦高倉市場四町の営業再開は許されなかった。決着は翌年に持ち越す。
〇三月二十五日 大坂に移った中井清大夫にかわり若林市左衛門が加わり、この日に若冲とはじめて対面した。若林は「錦高倉四町の結束が揺らいでいる」と教えたが、その後確かに西魚屋町と貝屋町が脱落し、帯屋町と中魚屋町二町のみが、百姓と町民の困窮を役所に訴え続けることになる。
〇六月二十六日 二町は七ヵ村と協調して追願書を提出した。訴願には多額の費用が必要で、村方町方は合力で金二十両と銭六十一貫四百文を取り急ぎ集めた。

〇夏 若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服を更めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるに夫れ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶お故を去り新しきを取るがごとし。此に余命ずるに革を以てする所以なり。子其れこれを勉めよ。……」。また「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されている。古くから子どもが習い事、芸事をはじめるのは、六歳の六月六日であった。若冲も同様であったかもしれない。なお「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
伯珣偈頌全文を故加藤正俊氏にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に碣し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書。」
〇宇治の萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持の選任には幕府が当たっていた。萬福寺こそ幕府との強い接点をもっていたと考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願ったことも可能性はあろう。また幕府に直訴するならこの僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。

一七七四年 安永三年 甲午 五十九歳
〇八月二十九日 錦高倉青物市場四町の営業再開を、東町奉行所がやっと許した。公認の青物市場として復活がついにかなった。解決の次第を記し、村方町方関係者が連署した内証の一札には「桝屋若冲」の署名がある。また三年近い紛争の間、若冲が画筆をとったという記録は、どこにも見られない。
〇「猿猴摘桃図」に萬福寺の伯旬照浩が賛した。この猿図が数年ぶりにやっと筆をとった若冲の久方ぶりの画作であろう。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がった三個の桃を摘もうとしている。母猿は真寂、子猿は清房であろうか。賛を意訳すると「桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになるであろう」。命がけでみなのために目標を達しようとしている若冲の姿を描いているのか。紛争の末期、解決の目途がやっと立って以降に描かれたのだろう。ついに仙桃は得られた。

一七七五年 安永四年 乙未 六十歳
〇六月 大典『小雲棲稿』刊。若冲寿蔵の補訂字句を記す。
〇この年に第二弾が刊行された『平安人物志』に、応挙、若冲、大雅、蕪村の順で載る。はじめて蕭白(1730~1781)の名が出たが、順位は二十名中十五番目と低い。若冲の住所は高倉錦小路上ル町とあるので、帯屋町ではなく高倉錦小路北東角の中魚屋町の北屋敷であろう。応挙の住まいは四条麩屋町西へ入町で、明和五年版の『平安人物志』と異なる。応挙は四条麩屋町のすぐ向いあたりに引っ越したようである。このころ、画家若冲は錦街青物市場を救った義人として、社会的にも評価されていたはずだ。人物志には「藤汝鈞/字景和号若冲/高倉錦小路上ル町/藤若冲」

安永五年 丙申 一七七六年 六十一歳
○四月十三日、池大雅死去。五十四歳。京都浄光寺に葬る。碑銘は大典の書。
○十月二十三日、萬福寺二十代住持の伯珣照浩没。八十二歳。
〇還暦のこの年から石峰寺「五百羅漢石像」群の制作に着手か。『拾遣都名所図會』(天明七年1787刊)に「近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した」。安永年間は十年間であった。安永なかばはこの年か。
<2024年6月19日再録 南浦邦仁>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 能登の震災と原発 | トップ | 日本列島襲来・各地の津波高 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事