ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

円空と木喰 <えんくう・もくじき>

2009-11-09 | Weblog
 11月8日の日曜日、昨日のことですが、JR京都駅のうえにある伊勢丹七階の美術館「えきKYOTO」に行ってきました。
 7日から当月29日まで「―庶民の信仰―円空・木喰展」が開催されています。あまりに見事な200点ほどの木彫像に飲み込まれ、決して広くはないミュージアムに、二時間あまりも釘付けになってしまいました。
 どっと疲れ、途中で立ったまま眼を閉じ、数分間休憩したほど、迫力に圧倒されてしまいました。凄い。
 円空のことはかつて、若冲の連載「義仲寺」の項で書きました。再録ですが、
 江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。畸人伝の記述は伴蒿蹊(ばんこうけい)の親友であった三熊花顛(みくまかてん)が天明八年(1788)春、天明大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢(京の俳僧・売茶翁や大典らの友人)だが、飛騨高山の高弟・加藤歩蕭をかつて訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。

 大火の後、住居や生活の糧を失ったたくさんの京のひとたちが、地方の縁故を頼り、仮寓したり、また永住したりした。三熊花顛もその意味では同様です。都の文化が全国の都市や片田舎に拡散した画期である。また地方の情報が、畸人伝のように、収集されもした。
 これより以前では、やはり応仁の乱のときに、同様いやそれ以上にたくさんのひとが流動し、文化の大伝播現象を起こしている。一種の文化革命に等しい出来事といえます。

 まず円空について記してみましょう。会場でいただいたチラシから、
<円空美術館―岐阜市―案内パンフレット>江戸時代におびただしい数の飄逸洒脱な神や仏像を造顕した円空は、寛永9年(1632)、美濃の国に生まれ、生涯を修行と庶民の救済に全国を遍歴し、貧しい農民や漁民の信仰と委託にこたえて、多くの神仏像を作りました。/円空の造顕は、寛文3年(1663・32歳)より全国を巡り、元禄5年(1692)61歳までの、おおよそ30年間続き、その数は12万体を超えました。そして元禄8年7月15日盂蘭盆、長良川河畔で入定の素懐を遂げました。時に円空64歳。/いったい彼は何のために、こんなにたくさんの円空仏を造顕したのでしょうか。それは円空が厳しい修行から悟りえた釈尊の偉大な教え「仏教」を、苦しんでいる多くの人々に伝えようと、その教えの根本である“慈悲の心”を円空仏に彫りこんでみなに与えて回るためだったのです。

<関市円空館―案内パンフレット>円空は江戸時代のはじめ、寛永9年(1632)に美濃国(岐阜県)で生まれました。このことがわかったのは昭和45年(1970)のことです。円空50歳(1681)の時、群馬県富岡市の貫前(ぬきさし)神社で大般若経を見終え、その奥書にみずからの筆で「壬申年生美濃国円空」と書き残したのです。円空没後100年余りのち(1790)に書かれた『近世畸人伝』には、関市にゆかりの深い人物として…取り上げられています。そのなかで「僧円空は、美濃の国竹ヶ鼻(羽島)という所の人なりけり。…池尻にかへりて終をとれり」と書いておりますが、誕生地については諸説あり、決着しておりません。円空は若くして出家し、岐阜県を中心に北海道から近畿地方の諸国を遊行し、各地の霊山で修行を重ねながら、誓願を胸に秘め、おびただしい数の仏像を、人々の幸を願い彫り続けました。現在知られている像は5300体ほど。円空は作仏のほか、和歌を詠み、絵を描いており、これらの作品も円空のこころを理解するのに貴重なものとして注目されています。…元禄8年(1695)7月15日、長良川の河畔で入定し、64年の生涯を終えました。

 円空の美術館は、どうも岐阜市と関市、ふたつあるようですが、木喰はまだ館がない。本人はそのようなことに、決してこだわらないと思いますが。
 ところで展覧会の図録は入手しましたが、まだ読んでいません。同展チラシから紹介しますと、
<「―庶民の信仰―円空・木喰展」チラシ>17世紀、18世紀にそれぞれ活動した造仏聖・円空と木喰は故郷を離れ、全国を巡る行脚僧として布教活動をしながら、独創的な仏像や神像を彫り歩きました。庶民との交流を通して彼らが彫った木像の多くは、庶民の信仰の対象として守り伝えられてきました。/円空(1632~1695)は、荒々しくも自由奔放で力強い鑿(のみ)あとに、よりデフォルメされた仏像を数多く彫り残しました。32歳で仏像を彫りはじめてから64歳で入寂するまでの30余年の間に、12万体造像したともいわれ、いままでに確認された円空仏は5340体にのぼります。/一方、木喰(1718~1810)は、表情豊かな「微笑仏」と呼ばれるやわらかな笑みをたたえた丸みのある像を彫り、62歳に初めて造像して以来、80歳で1000体、90歳に2000体の造像を誓願し、93歳で生涯を閉じました。現在710体あまりが確認されています。

<京都新聞2009年11月4日朝刊/荒削りなノミ跡、笑みたたえた仏 庶民の信仰 「円空・木喰展」 作仏聖(ひじり)2人の木彫・資料200点 11月7日~29日 美術館「えき」KYOTOで開催>荒削りで奔放なノミ遣いの円空。笑みをたたえた表情豊かな仏を彫った木喰。ふたりの作仏聖が木彫の神仏に託した素朴な庶民の信仰の世界を紹介する「円空・木喰展」が7日、京都市下京区の美術館「えき」KYOTOで始まる。(川村亮)/円空(1632~1695)は美濃(岐阜県)で出生。32歳で神仏像制作を始め、30年余りで12万体を彫りあげたと伝えられ、これまで約5340体が確認されている。/一方、甲斐(山梨県)出身の木喰(1718~1810)は62歳で造像を始め、93歳で没するまでに2000体の像を彫る願を立て、710体の残存が確認されている。/ふたりの遊行僧は北海道から四国、または九州の草深い村里を遍歴。その足跡をたどるように残る彫像は、ひとびとが身近に愛し、子どもが手に取って遊んだがために、表面が欠けて光沢があったり、親しみにあふれる。本展は、民衆のなかに生きた信仰の力強さと優しさが宿るふたりの彫像と資料計約200点を全国の寺社や美術館から集めた。…/「微笑仏」とよばれる木喰像は丸い顔に、丸い額と頬と鼻、ゆるやかに弧をなす眉。愛嬌のある表情がこころに安らぎをもたらす。「不動明王」や「閻魔王」ですら、どこかユーモラス。愛媛・光明寺の「子安観音菩薩」は立木に彫り込み、おおらかな生命の喜びを伝える。

 長々と引用しましたが、木喰明満上人と伊藤若冲は同時代人です。若冲の生まれたのは正徳6年(1716)。木喰誕生は、その2年後の享保3年です。若冲没は寛政12年(1800)、85歳。もっと長寿だった上人は文化7年(1810)、享年実に93歳。ふたりの人生は、数年のずれだけで、完璧に重なるのです。
 全国を行脚した木喰ですが、京や丹波にも度々、立ち寄っています。もう一度確認してみますが、彼の作風は晩年にかなり変化しています。わたしは上人の後期作の微笑仏や、ただ笑ってしまうしかない彼の自像をみていますと、若冲の石峰寺五百羅漢との類似を思います。ふたりには、何らかの接点があったのではないか。もしかしたら、ふたりは対面対話をし、笑みを交し合ったのではないか。そのような白日夢にわたしは、京都駅の美術館で襲われたのです。
 最後に、木喰上人を発見評価され、さらには彼の足跡を確定された柳宗悦先生に、心底から敬意を表します。
<2009年11月9日早朝深夜> [182]
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