ふろむ播州山麓

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唐・長安の春 <古代球技と大化の改新 5>

2009-11-14 | Weblog
古代から、日本で盛んに遊ばれた球技の多くは、主に唐から伝わったものといわれています。『長安の春』(石田幹之助著・昭和16年初版)から、当時の唐での流行振りをまずみてみましょう。

 漢・魏・六朝を通じて、徐々にシナに入ってきたイラン方面の文化は、隋(581~618)と唐(618~907)の時代におよんで、一層いちじるしい流伝をみるにいたった。外国文化との関係史をみると、この国の隋唐期、まさにイラン文化全盛の時代といえる。
 ただ後年、13世紀から14世紀にかけて、蒙古支配の元朝時代には、イスラムの陰に隠れ、イラン文化の東漸はかなり盛んであった。隋唐時代だけが絶後の全盛期ということはできないけれど。
 隋唐時代の興隆の原因は、中央アジアや近東地方との交通がますます盛んとなり、北は陸路により、南は海路により、イラン系統の諸民族が、前代よりはさらに多く、シナ各地に入ってきたこと。またアラビア人など、セム系の民族が、商人・貿易商として、イスラム教の伝道師とともに多数が、隋唐にはるばる遠来したこともある。
 ペルシャないしアラビア方面の商人が来住、あるいは往復して、貿易に従事するものはすこぶる多かった。また西方諸国より、その国使に随伴して入朝するもの、長安や洛陽の大学に来たり学ぶものなども、相当の数にのぼった。
 隋唐時代に西域の文物、特にイラン地方のそれが、シナに盛行するにいたったのは、まったくそれらの事情によるものと思われる。
 伝来したスポーツ遊戯に打毬(だきゅう)<注:騎乗打球・馬打球>がある。これはペルシアの国技ともみるべきもので、もっともイラン的な遊戯である。原名を何と伝えたかはよく分からぬが、いま広く東西の世界でこれを、ポーロ(Polo ポウロウ)とよぶのはチベット語らしいので、シナへは唐のはじめに吐蕃(とばん・チベット)から伝わっており、太宗(たいそう)皇帝のごときはおおいにこれをたしなんだという。最初は武人のあいだでとうとばれ、後に文官や女子のあいだにも行われ、その流風は、宋・元・明の時代にもおよび、海をこえて高麗(こうらい)に伝わり、日本へも平安朝に伝わっている。
 ただし近ごろ、打毬(注:馬打球)は「大化の改新」以前に伝わっているという新説もあるが、平安期なのかあるいはもっと前の時代なのか、いまはしばらく深く触れぬこととする。
 その唐代にポーロが盛んであったことはよく詩文に残っており、遊戯法は宋代の文献からさかのぼって知ることができる。

 当然ですが、唐にはスポーツだけでなく、さまざまな文物が遠来のひとびとによってもたらされた。宗教では、ゾロアスター教(ケン教:ケンは示偏に夭)、マニ教(摩尼教)、ネストリウス派キリスト教(景教)、イスラム教(回教)…。
 弘法大師・空海は804年、31歳のときに遣唐使に従って、伝教大師・最澄らとともに入唐した。
 学者の馬総ははじめて逢って空海の才能に驚愕し、詩を寄せた。意訳ですが「驚くほどの大秀才のあなたが、なぜ万里の波濤をものともせず、わざわざ大唐国にいらしたのですか。まさか自己の傑出した学識才能をみせびらかすためでは、決してないでしょうが。折角唐まで来られたのですから、どうかより研究して唐国の学問を深めてください。世界をみわたしてもわたしの知る限り、本当にあなたのような秀才はめずらしい…」
 781年には長安のキリスト教寺院・大秦寺に石碑「大唐景教流行中国碑」が建立された。碑銘の撰者はアダム・スミス、唐名を景浄という。後に空海が師事した般若三蔵が胡本『大乗理趣六波羅蜜経』を翻訳したとき、アダム・スミスは三蔵の助手をつとめている。大秦寺は東ローマ教会系ネストリウス派の教会であって、長安に波斯胡寺として677年にまず建立された。そして745年に大秦寺と改称されたものである。
 空海は9世紀早々の都・長安で、師の般若三蔵から、景教すなわちキリスト教のことなども、きっと教えられたに違いない。そう思う。

参考資料
『長安の春』石田幹之助著 講談社 学術文庫
『空海入唐』趙樸初ほか編著 美乃美 
<2009年11月14日>  [184]
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