ふろむ播州山麓

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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №4 <若冲連載47>

2009-11-11 | Weblog
伯と聞中と若冲

 若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持・伯照浩(はくじゅんこうしょう)に会ったのは、安永二年(一七七三)夏のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
 聞中は明和九年(一七七二)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中の手引きで、若冲は伯浩照に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
 禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらうと聞く。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名・雪舟について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動・静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は、寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。
 若冲も伯から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られたのである。一部を意訳するが、内容には大典が若冲の寿蔵に記した文と共通するところが多い。やはり聞中がかかわった文なのだろうか。
 「これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。黄檗賜紫八十翁伯書」
 若冲の出家を意味しているのであろう。多分このころに、若冲画「猿猴摘桃図」に伯の賛も得ている。「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。この言葉にも、若冲は感動したであろう。彼が石峰寺門前に居を構え、妹か妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。
 「動植綵絵」の完成後から、五年以上の長きに亘って彼を苦しめ続けた気鬱も、やっとこのときに晴れたであろう。
 石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯から出されたのではないかと想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
 当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(一七七二)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。
 そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶の実質開創であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。
 伯が石像五百羅漢造営を、それも石峰寺に望んだとしても不思議ではない。 <2009年11月11日 南浦邦仁> [183]


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