ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №3 <若冲連載46>

2009-11-04 | Weblog
聞中浄福
 黄檗僧の聞中浄福(もんちゅうじょうふく)は宝暦八年(一七五八)、二十歳のときに相國寺の塔頭・慶雲院に掛錫(かしゃく)する。掛錫とは、僧がほかの寺に留まることだそうだが、彼の滞留は長期にわたる。そして聞中はその才を大典に愛され、門人中第一位を占める。
 ある時、聞中は若冲に雁の画を学び、毎日一紙を写し描くのことを日課とした。いつのことか不明だが、おそらく明和八年(一七七一)、若冲畢生の大作「動植綵絵」全幅寄進の終わった翌年のことではないかと思う。聞中三十三歳、大典五十二歳、若冲五十六歳の年である。若冲は全精魂を込めた「動植綵絵」の制作を終え、脱力虚脱感と画作や生きることへの迷いから、画に精を出せなかった時期であると思う。
 この不安定な精神状態は、錦市場存亡の危機を迎えるころまで続く。そして錦事件の後には、何枚も脱皮した新「若冲」がそれこそ誕生する。錦市場が危機に直面したとき、若冲は意外な面をみせる。信じがたいと、現代の若冲ファンや研究者はみな驚いた。この件は、追って記載します。

 明和九年(一七七二)四月、大典は本山の勧告で、十三年ぶりに相国寺に復帰する。聞中も同じ年に登檗する。四月開催の開山隠元百回忌の書記をつとめるために呼び帰されたのである。久しぶりに萬福寺に帰った。

 ところで室町時代中期以降、参禅の風はすたれ、五山僧は詩文に浸るを善しとしていた。文学の安きへの潮流を禅林各寺が連携して、本来の宗教禅に復帰しようとする禅宗の改革運動が起きる。活発化した参禅学道の「連環結制」が、大典の芸術感も変えてしまったのであろうか。
 聞中は毎日絵を書くことの許可を、大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって、「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に關する訳では、決してない……」
 若冲は聞中からこの話を聞いて、あるいは大典の書状をみせられて、どのように感じたであろう。おそらく涙を流し、号泣したのではないか。若冲は、純粋に僧になりたかった、それも画僧に。学門、教養のかけらも持ち合わせないけれど、売茶翁に人生の本当の生き方を学び、宗教の何たるかは理解していた。
 若冲に対する世間の評価は、円山応挙と並んだ。ふたりは京都を代表する双璧の一流画家と認知されていた。しかし若冲は、あくまで市井の画工でしかない。筆を捨てても僧として、大典はまだしも、ほかの相國寺の僧たちは認知しなかったのではなかろうか。そもそも若冲から筆を奪えば、ただの人でしかない。詩文も解せず、書も下手、人付き合いは苦手、話も駄目な、並にも及ばぬ畸人である。
 後のことであるが大火の二年後、若冲は大病を患う。相国寺の六月の日記によると、本山より見舞いを遣わす相談があり、金百疋くらいの菓子箱を贈ろうということになった。役僧が見舞いに行ってはどうかということで、瓊林座元がその任を言いつかる。だが彼は「若冲は寺に寄附物(動植綵絵)があるといっても、“畢竟町人之事故”。役僧が見舞いに行くのはさしさわりがある」と異議を唱えたという。市井の画人に対する扱いは、軽いものであった。

追伸:聞中の描いた「蘆雁図」がはじめて発見され、ミホミュージアムで開催中の「若冲ワンダーランド」展に出品されています。実は、わたしがお披露目の仲介役をつとめました。感慨深いものがあります。それと大典が聞中に呈した苦言『小雲棲手簡』二編下の原本も展示されています。
<2009年11月4日 南浦邦仁> [180]
コメント (4)
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