ふろむ播州山麓

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唐のポロ <古代球技と大化の改新 8>

2009-11-28 | Weblog
中国唐代、ペルシアからチベット経由で伝えられた馬打球が盛んだった。馬打球は、ポロ・撃毬・馬球・打球・撃毬とも記されたが、わたしは「馬打球」とよぶ。
 騎乗で激しく走り、球を追って擬似戦闘を行う。このスポーツは唐代の皇帝や貴族、将校たちに好まれた。本来は武技としての騎馬訓練である。
 1956年のこと、西安の唐代大明宮遺跡から石碑が出土した。「含光殿および球場など、大唐大和辛亥の年乙未月に建つ」と記されている。大和辛亥は西暦831年である。この球場は宮殿の敷地内にあった。馬打球専用の宮廷競技場である。
 当時の球場は、砥石の平らなるごとし、油をひいて毬場を造る、とか記載されている。風塵防止のためであろうか。しかしこのような地面では、馬が滑って転ぶのではと、心配になる。

 近年発掘された章懐太子李賢墓の壁画、西暦706年ころの画には、競技者が馬に乗り、球を追う姿が活写されている。騎手の数は20数名にのぼる。文献記録は各種あるが、壁画として中国最古の馬打球像である。なお章懐太子李賢は、唐皇帝・高宗と則天武后の次男。若くして30歳で亡くなった。
 この壁画の騎手は、それぞれ色とりどりの筒袖の袍を身に着け、黒い靴をはき、頭巾をかぶっている。中央部分には騎手が懸命に毬を追っている場面が描かれ、その内5名が馬を走らせて毬を争っている。前端の者はマレット(打球杖)を手に、身をそらして毬を打とうとしている。そのフォームはみるからに見事で、美しい形をみせている。先頭のプレイヤーは、おそらく墓主である章懐太子の姿であろう。

 692年に亡くなった韋洞の墓からは、88点の騎馬俑が発掘された。その多くに撃毬図がある。韋洞は唐の中宗韋后の弟。彼はかなりの撃毬狂であったのだろう。現代日本のゴルフ狂のようなものか。

 また唐代以降、女性も馬打球を楽しんだ。「唐代撃毬図銅鏡」では、4人の女性騎手が馬を駆って毬を打っている。10世紀の記載には「宮女に毬あそびを教えたが、はじめて鞍にまたがる宮女の柳腰のしなやかさ。貴賓席には天子が観戦しておられ、たまたま彼女が打った毬はみごとに得点した」。また『新唐書』巻133には「ロバに乗る撃毬技を舞伎に教える」とある。

 唐の宣宗のころ、来訪した日本の王子が囲碁の対局を、国手の顧師言と行ったという言い伝えがある。もしかしたら、馬打球でも、また歩打球でも遣唐使たちは、唐人らと競ったのではないか。日本でも盛んであったからである。

参考:邵文良編著『中国古代のスポーツ』ベースボールマガジン社 1985
   守屋美都雄訳注『荊楚歳時記』平凡社 東洋文庫 1978

<2009年11月28日 南浦邦仁> [190]
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