ふろむ播州山麓

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河合寸翁と酒井抱一(2)白鷺城

2024-07-24 | Weblog

 姫路城は別名「白鷺城」。ともによく聞く名前です。しかしなぜ「シラサギ」城なのでしょうか。わたしなど、子どものころから見慣れているこの郷土の宝を、白いシラサギの姿のように、清楚で美しいお城と自慢でした。日本国中探しても、これほど美しく優雅なお城はないに違いない。少年の確信でした。

 姫路城の本をあれこれ読みました。その美について、白漆喰総塗りごめ造りの白壁におおわれ、その姿は白鷺の名にふさわしいとの意見にはうっとりします。

 壁はすべて、さらには垂木、ひさし、窓、窓枠、石落とし……、外から見える姿で、瓦以外すべてを真っ白に塗り上げた美しさは、徹底している。

 この城の美は、連立式天守群と低く長くのびる西の丸。この絶妙な組み合わせによって完成した。池田輝政がまず天守群を築き、つぎに本田忠政が西の丸や三の丸などを完成させた。

 三の丸本城は大手門を入って西側。現在は東側も同様に、芝生を張った広大な広場です。ここあたりには、かつては、いくつもの館が並んでいました。贅を尽くした桃山風の居館、武蔵野御殿(菱の門に行く道の南側)。また三の丸本城の東には迎賓館の向屋敷があった。広い庭園もあった。

 また城主の下屋敷としての東屋敷、いまの護国神社あたりにあった家老ら重臣たちの御用場、すなわち執務場があった。しかし明治になって、陸軍がこれら用地をすべて接収してしまい、建物の痕跡はなくなってしまいました。

 池田輝政の後、本多忠政が造った第2期工事の事績は、西の丸以外、すべては陸軍に完全征服されてしまった、といえる。本多忠政は、池田輝政のし残した造営を、自らの縄張りで完成したのだが。

 ところで白鷺城の呼び名は、鳥のシラサギの姿からか。わたしは少年時からそう思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。研究者の見解をみると、

 城の立つ小山全体を姫山と呼ぶ。あるいは鷺山ともいうようだ。別の見解では、鷺山の呼称は姫山の西半分を指すという。そして白鷺城の呼称は、この「鷺山」から来たのであり、鳥のシラサギからではない。

 さて、このような見解をいくらか目にすると、「鷺山」のことを調べたくなりました。先達の「鷺山」記述例を、<近世>から<近代><現代>へと時系列で列挙してみます。

 

<鷺山 近世>

 

姫山の地は住古、富姫の館舎であって、この山の地を姫山という。…姫山は古記によると、刑部社、富姫の社、角岳国社の社等、なお姫山の鎮守たり。/[「姫路古図」に、姫山の隣に「鷺山ト云フ」。後世の制作ともいう]『府中めぐり』芦屋道海 天正4年1576

 

姫山の頂下、西ノ脇を鷺山と号す。/『播磨鑑』平野庸脩 宝暦13年1763/[姫山に最初に城を築いたのは、赤松貞範だという説があります。それも鷺山に、貞和2年1346年。真偽について意見は分れています]

 

富姫君播磨へ、マヨヒ下され、鷺山の本館に御入り……刑部親王を姫山にまつる説實とすべし。(姫山小刑部社)

富姫は播磨に下り、鷺山に居たまう。ここを姫山という。(姫山大明神)

姫山 鷺山城という 桜本重俊(姫路名所歌)/『播州姫路考略記』天川友親 宝暦10年1760

 

姫山 鷺山の城という、往古富姫の舎地。播磨なるここ、富姫の山の名は永き代々にも残りけるかな(梅本重俊)/『播州姫路考略記』の桜本重俊と同一人物か。『播陽万宝智恵袋』天川友親 宝暦10年1760

 

[西の丸と三の丸居城との中間の登り口の門を「鷺山口門」と称した。位置は西の丸南西部、ほぼ角地。この門は、いまはない]。/酒井家蔵『姫路侍屋敷図』文化年間1804~1818

 

鷺山へ女坂御通云々/『姫路藩集書』

 

<鷺山 近現代>

 

姫山の一名を鷺山と呼ぶ。古来この城を呼んで姫山の城、または鷺山の城という。今、白鷺城と称するのは、この鷺山に出たもの。……鷺山の呼称は、姫山の一部分にして、その西部の称ではないかとも考えられる。この件を、にわかに断定することはできぬ。/『姫路城史』上巻 橋本政次著 昭和27年 臨川書店

 

慶長6年、池田輝政による地形の造成がまず始められた。そして本丸・二の丸が築かれる「姫山」と、(後に本田忠政によって)西の丸が設けられる「鷺山」の造成工事(元和4年1618~)……/『日本城郭大系』第12巻(姫路城)昭和56年。

 

姫山と鷺山のふたつの小山の上にそびえる。/『ひめじ』市教委編発行/昭和54年

 

本多忠政から見て、鷺山が無防備なまま放置されていた。池田輝政はなぜか、この小山には防備の施設を構えなかった。/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

姫山の高さが45.6メートル。ピーナツ型に姫山と鷺山がつらなる/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

千姫の化粧料として10万石を加えられた本多家は、鷺山と呼ばれていた西の丸の高台整備に取り掛かった。武蔵野御殿に加え、忠刻・千姫夫妻、その取り巻きたちの櫓や居室を増築した。/中元孝廸『姫路城 永遠の天守閣』2001年 神戸新聞総合出版センター

 

天守閣の建つ姫山。それと連なっている丘が鷺山で西の丸の所だ。/『たゆらぎ山に鷺群れて』市川宏三2007年 北星社

 

「♪ 鷺山に秋の夜は更けて 城楼照らす松の月…」(鷺山に秋 栗山粛夫詩)/『旧制姫路中学校歌』

 

 鷺山についていくらか見ましたが、鷺山は姫山の西半分、現在の西の丸あたりをいう。かつて、この広い西の一帯を「鷺山」と呼んでいた。そのように判断して、間違いはないはずです。

 説得力のある記録のひとつは、酒井家蔵『姫路侍屋敷図』です。城を中心に作成された、本来極秘の精密な平面図です。「鷺山口門」は小さな門ですが、はっきり描かれています。

 この地図の制作は文化年間(1804~1818)。家老河合寸翁が、藩主酒井忠道から全権を任されたのが、文化5年でした。このような門外不出の貴重な図面は、河合寸翁の指示で作成されたのではないでしょうか。

 なお酒井家蔵複製図は、いまも見ることができます。『姫路市史』第14巻付図。現在、門はありません。

 

 姫路城を「白鷺城」と呼ぶのは、ひとつには「鷺山」という名の記憶が、延々と水面下で継続し定着していたからではないか。そして池田輝政と本田忠政の築城以降、シラサギの優美な姿が白い城郭に重なったのでは。そのように思っています。

 池田輝政と同じ場所に、天守閣をまず築いたのは、豊臣秀吉でした。天守は三重四階建て、工期は天正8年4月より翌9年3月。わずかちょうど1年で終わったという。この頃は毎日が戦戦戦の時期です。工事は急ぎます。外壁を白壁にするなどという余裕はなかったはずです。秀吉の城は、「姫山城」と呼ばれても、「白鷺城」はありえない。呼称「鷺山城」もないはずです。

<2024年7月24日 南浦邦仁>

 

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