ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

河合寸翁と酒井抱一(1)連峰の麓

2024-07-15 | Weblog

 連載をひさびさに再開しようと思います。ただ例によって、書籍や資料を読みながら進めます。ほぼ知識ゼロからのスタートだけに、牛の歩みのごとくになる覚悟。

 まずこのブログのタイトル、播州の山麓から開始します。姫路城の南東4キロメートルほどの位置に、三山の小さなかたまりがあります。至ってローカルな話題ですが。

 

 この低山のひとつが、姫路酒井藩家老の河合寸翁(すんのう)と密接なつながりがあります。

 そして江戸で活躍した画家・文人の酒井抱一は、姫路藩城主・酒井忠似(ただざね)の弟でした。また抱一と寸翁は同じ姫路酒井藩に属し、ほとんど同じ時代を生きたのです。

 河合寸翁:明和4年~天保12年(1767~1841 75歳)

 酒井抱一:宝暦11年~文政11年(1761~1828 68歳)

 

 『播磨国風土記』は奈良時代、いまから1300年ほど前に編纂された。ここに「継の潮」(つぎのみなと)があったと記しています。近ごろ周辺部で、大規模な発掘調査がありました。しかし肝心の港が推定される地帯は、すでに住宅が立ち並び、想像で判断するしかない。だが倉庫の痕跡は数多く発掘され、かつて継の港では、しきりと荷の積み下ろしがあったとみなされます。

 この地域、継地区の背後には、東の峰「船橋山」122mがあります。想像ですが、麓の川や港に、船を連ねて橋とした。この推察にわたしは賛成です。船橋山には海と関係の深い住吉神社もあります。

 

 三連峰の中央は「麻生山」(あさおさん)172m。

 均整の取れた姿から、「播磨小富士山」の愛称があります。播磨灘を航行する船からは、小さな富士のかわいい姿は愛されたことでしょう。

 この山には神功皇后や大己貴命(おおなむちのみこと)、別名、葦原醜男・大国主命などの神話伝説が、たくさん残っています。麻生の語源は、葦男山からか。

 また急峻な岩場もあり、修験道の山でもありました。山伏の山岳信仰もかつては強固な山です。山頂には行者堂「華厳寺」もあります。しかし、行者の高齢化のため、無住寺であり宗教行事も休止になってしまった。ちなみに急峻な岩場は登攀禁止だが、山道はハイキングコースです。

 

 そして西の峰が「仁寿山」(じんじゅさん)175mです。旧名「幡下山」(はたしたやま)。

 酒井家の姫路藩は膨大な負債を抱えていました。文化5年時点で73万両に達した。それを家老河合寸翁は、十数年にして奇跡的に解決してしまいました。

 そして藩主酒井忠実より幡下山を拝領。寸翁は山名を「仁寿山」に改めます。仁寿は『論語』によります。「知者は楽しみ仁者は寿し」。寿し、いのちながし。

 寸翁は、私学「仁寿山校(黌)」を山麓に開学します。校舎は数十棟もあり、収容は原則2人1部屋の全寮制で、150名ほどが寄宿できたといいます。晩年の寸翁は教育に全力を注いだのです。

 なおこの仁寿山は、姫路でいちばん有名な山のようです。理由は山頂。テレビ電波塔が、10基ほどもそびえ立っています。塔は姫路平野の四方八方から目撃できます。ちなみに仁寿山校は、南麓にありました。

<2024年7月15日>

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