ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

「あれれっ?!」 若冲とマイクロソフト <若冲連載48>

2009-11-23 | Weblog
 若冲連載は終盤に入っているのですが、先日ふと「おかしい」と気づきました。かつて一昨年に萬福寺刊『黄檗文華』126号に「若冲逸話」として掲載していただいたときの文と、最近このブログに連載している文章とは、なぜか大幅に異なるのです。
 活字版の方が、ブログ版よりかなり長く、見出しも多いのです。抜け落ちている見出しは「天恩山五百羅漢寺」「霊鷲山」「蝶夢と九鬼隆一」など。ハードディスクに残っている項目はあと、「石峰寺過去帳」と「もうひとりの蝶夢―雨森菊太郎」のみ。
 なぜパソコン文が、このように短くなってしまったのでしょうか。原因のひとつは、活字になるとき、校正を三度までやったということ。それも手書きで、ゲラにどんどん書き足したのです。編集者の和尚から「好きなようにやってください。いくら文字数が増えても大丈夫ですから」。この言葉に甘えて、かなり書き加えて行ったのです。初稿、再校そして三稿。ゲラの余白が足りず、次頁に別紙を付けたほどでした。当然、すべて手書きです。
 それとパソコンの識字能力の限界です。古い漢字が出てこないという大きな問題です。江戸期以前や中国のことなどを書くとき、キーボードに頼らずに、手で書くのが便利で気楽なのです。マイクロソフト「ワード」と漢字、大きな問題だと思います。パソコンはあまりにも字を識らな過ぎます。

 諸橋『大漢和辞典』の収録字数は約5万字。最もたくさん収めているのは字書『集韻』で5万6千字ほど。しかしいずれも特殊な異体字を相当数含んでいます。諸橋大漢和をみていると、複雑な漢字の説明に「この字は○○書にのみ記載されている。□字の書き誤りであろう」などと出てきます。
 白川静先生は「社会生活に必要なものとしては、まず7千か8千字ほどあれば十分で、今喧しく言われております情報機構(PC)に組み込む場合は、1万字くらいが限度のようですけれど、1万なら必要な字を網羅できると思います。ただ、非常に特殊な文字だけは、また何か考えなければなりませんけれども」
 常用漢字はわずか1945字。パソコンは一体、いくつの字を覚えているのでしょうか。4千か5千? その程度ほどに感じます。
 それにしても、白川先生の卓見は見事としか、いいようがありません。

 さてこれからの若冲連載ですが、短文のままで終了させようと思っています。追加入力作業と、漢字問題のクリアのことを考えると、正直なところ気後れしてしまうのです。それと近ごろ、古代の球戯史をやり、また中途半端になっている千秋萬歳のこと、「ぎっちょう」から左義長に行くはずだったのが腰折れ状態。また「バンザイ」の詰めもおろそか。また萬歳(まんざい)から入った門付け・民俗芸能そして声聞師のことも放置しています。……。
 若冲に終止符を打たないことには、次の一歩二歩が困難になってきたように思えます。若冲談義はあと二話か三話ほどで、ひとまず休業にしようと思っています。ただ還暦を前にした若冲が、錦市場存亡の危機を救ったという、新しく発見発表された驚愕すべき事実があります。この件だけは解明したく、宿題として暖めておこうと考えています。興味ある方は、近江信楽で開催中の若冲展図録「若冲ワンダーランド」解説をご覧ください。
<2009年11月24日> [189]
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日本の「蚩尤」と、世界のブランコ <古代球技と大化の改新 7>

2009-11-23 | Weblog
中国古代の王・黄帝がその頭骸骨を足蹴し、棒で打った宿敵「蚩尤」(しゆう)球のことは、日本では『源平盛衰記』や古伝承に残っています。
 まず『源平盛衰記』24巻では、憎き平氏のことを「法師の首をつくって、打毬の玉を打つがごとく、杖をもってあち打ち、こち打ち蹴りたり。踏んだりさまざまにしけり。大衆児とも態に、この玉は何物ぞと問えば、これは当時、世に聞こえたまう太政入道の首なりと答う」。南都の大衆が、打毬を平清盛の首に擬えて打った。黄帝の蚩尤故事に習っての打球・蹴球です。
 『義経記』でも、牛若丸が毬を作って、これを清盛、重盛の首に擬して打つ。
 『袖中抄』に漢文での記載がありますが、読み下してみます。「彼の例(蚩尤)を以って、漢土(中国)は年始の件事に用いる。よって国中、凶事無し。すなわち日本国もその例を学び、年始に毬杖を行う」
 江戸時代『絵本束わらべ』では、「唐土黄帝のとき、蚩尤というもの悪行ありければ、これを退治したまうに、その悪霊疫鬼となりて、人民を害す。黄帝おおいに怒り、毬をつくり蚩尤が頭になぞらえ、あるいは蹴り、または地に投げて、はずかしめたまう。疫鬼恐れて逃げ去りし吉例なり」「黄帝は逆臣の蚩尤を滅ぼし、その眼を抜き、眼玉を的(まと)として、諸臣に命じて射させたまう…破魔とは鬼を破るの文字にて、いとも目出度き吉例なれば、男子の初正月には必ず破魔弓を贈りものとし、祝いたまうべきなり」
 ここでは話は少し変化しています。それにしても、賢帝の代表人物かと思っていた黄帝ですが、ずいぶん執念深く残虐だったようですね。

 中国では六世紀の『荊楚歳時記』にはじめて「歩打球」と「ブランコ」が記載されました。正月立春に「打毬とシュウセンの戯を為す」。シュウセンは秋遷ですが、両字は正確には、左に革偏がつきます。字がPCで出ませんので、これからは「秋遷」と略字で表記します。
 ところで、1998年のことでしたが、仲間と韓国東岸の江陵に旅しました。有名な端午祭を見学するためです。日本にもかつて残っていたであろう民俗芸能や、さまざまの行事に感動したものでした。その内のひとつに、ブランコがあります。
 現代の日本では、ブランコといえば近くの公園や小学校の校庭にある、子どもの遊戯具ほどに思われています。しかし本来は、太陽と響感しあう、神聖な行為であったようです。
 まず二本の高い柱を南北に建て、上に梁を渡し門型に構える。二本のロープの下に座板を結び置く。本来は娘がこれに乗り、大きな半円弧を東西に描く。乗り手は当然ですが、東面する。これが典型的なブランコ[秋遷]シュウセンの形です。
 ブランコ運動のそもそもの意義は、太陽の軌道軌跡を象徴することです。東西の軌跡は太陽の軌道で欠落している、下半分の円弧を意味しているはずです。太陽は東から出、大きな半円形の軌跡を周り、西に沈む。ですからブランコの半円弧は、沈んでから日の出までの、欠けている軌跡を描いているわけです。
 天空の太陽の半円弧、そしてブランコの下半分の円弧。ふたつが合体することによって、太陽の完全なる円弧が完成すると考えるべきです。
 また乗る女性は、座板の太陽男神と交接し大地に繋ぐ。この行為によって、完全なる太陽は大地と交り、作物食糧の豊穣が約束される。古代のひとたちは、世界中のいたるところで、そのように考えたとわたしは信じています。本来は冬至や夏至、また初春などの節々に演じられた、神事聖婚遊戯です。
 古代インドでは、4000年前から記録がある。座板は太陽男神を象徴した。祭官は顔を東に向けて乗り込む。その折、すばやく地面と座板に触れ「太陽男神は大地女神と交わりたもうた」と宣言した。天父地母聖婚儀礼である。
 ヨーロッパ地中海域でも古くから冬至祭(後の聖誕祭)には、必ず女性がブランコをした。バルト海域では、夏至にのみ娘が行っている。ヨーロッパ内陸部では、スラブ系住民は春の復活祭を、ブランコ祭とよぶ。アメリカ大陸の原住民たちも古くから行っている。

 ところで「踏」トウの正字は、足の右上に日を書き、その下に羽。足・日・羽の構造は、実に象徴的です。また踏トウは、蹴字と同じく、「踏む」「蹴る」の意味です。
 打毬・打球にも、大地とぶつかりあう、地を叩き打つという、ブランコの足先蹴り、あるいは手による座板と大地の交接と同様、豊穣を祈る神的効果を認めたことに違いないと、わたしは信じています。初春の候、まだ眠っている大地を刺激し、目覚めさせる運動であると、解釈できるのです。
 『荊楚歳時記』が、初春に「打毬と秋遷の戯を為す」と、ふたつを併記した理由は、ここにあると確信しています。
<2009年11月23日 南浦邦仁> [188]
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