アニメ「王様ランキング」(もちろん原作は連載漫画)を、毎週楽しみにして家人と観ている。
可愛い童話的キャラクターで、タイトルの印象とあいまって、楽しいお気楽な冒険活劇かと思いながら観始めた。
しかし主人公は巨人属なのに人間の子供よりも小柄、そして言葉を話すことができず、力も非力の極みで、王子であっても民衆から馬鹿者扱いをされ蔑まれ詰られる、やりきれない設定だ。
それでもすねて諦めることをせずに努力を重ねる姿が痛ましく、2話くらいはストレスが溜まる回となっている。
王である父親が亡くなったのをきっかけに、物語は急激に進み始めてからは、主人公ボッチの成長と絡んでくる人々の思惑、それぞれの背景が、物語に厚みを持たせている。
「欲」は、人を突き動かすエネルギーであるけれど、過ぎるとそれは害悪でしかなくなる。
王様のボッス王の強くなりたいという望みは、力比べの域を出ると、完膚なくまで相手を打ち据えて、果てには「神」をも葬ろうと禁断の力に手を伸ばしてしまう。
その結果、後悔しても仕切れない思いが残り、周囲の人の運命を狂わせる。
気持ちを寄せる人のために良かれと思ってしていることが、だんだんと盲目的になり他人の存在は目的を遂行するための道具か障害物となり、利他的で始まったのに利己的になってしまう。
こうして増長した「欲」に蹂躙され荒廃した状況を仕切りなおすことができるのは、「裁き」でも「断罪」でもない、究極の愛の形「許し」なのだ。
エピソード1の終盤、この「許す」という言葉が、畳み掛けるように何度も出てくる。
散々な目に合ってきた人たちが、いとも簡単に「許す」行為に納得する。
感動的場面であるけれど、こんなにあっけなく「許す」ことが連続することに、なんとも言えない違和感と不信感を持ってしまったのは、自分の心が捻くれているせいなのだろうか。
今日職場で、道路での危険な追越運転や、十字路に面したコンビニなどの駐車場を信号を回避するためにショートカットする人たちの行為についてどう感じるかを話していた。
皆一様に、その行為は危険で自己中心的なもので腹立たしく、あいにくとそこに居合わせた時は不快な気分で、余裕を持った易しい運転をしにくくなるという。
そこで私は、「おなかの調子が悪く、トイレに一目散」だったのではないだろうか?
また、そう思っていたほうが諦めやすく、不愉快な気分を早く切れると応じた。
すると、皆驚いていたが、いらいらした気分での運転は荒くなったりするのでそのほうが心の健康にいいみたいだ、けれどもなかなかそうは思えにくいというらしい。
ふむ、危険ではあったが実害がなかったことであっても、「許す」のは難しいようだ。
さて、「許す」にも種類がある。
「偉大な愛の許す」と「諦めの許す」、「どうでもいい拒絶の許す」の3つが思い浮かんだ。
私が危険運転行為に対する「許す」という場合には、ほぼほぼ「どうでもいい拒絶の許す」が7割で残
り3割「諦めの許す」の混合物だ。
話は物語に戻る。
ここで出てきた「許し」は、積極的な「偉大な愛の許し」なのだ。
人の中にある「善」に期待し、そして「弱さ」を包み込む尊い慈しむ気持ちから出ている。
今回のエピソードで回収されてないが、冥府の王デスハーが、拒み続けてきた王様ランキング1位を受諾し宝を受け取りに行くシーンがあった。
王様ランキング委員会の使者が、意味深な言葉をデスハーにかける。
「自分の私欲のためにランキング1位を受けた。自分は変わらないと思っているようだが、人は変わるもの。」
「王様ランキングは、人々の幸せのためにある。」
ちなみに、これまで王様ランキング1位を獲った歴代の王たちは、宝を受け取って後姿をくらましている。
その宝とは、浦島太郎の玉手箱に類するものなのか?
これをどう捉える、われわれは試されているのか?
歴史は繰り返されるのも、このあたりに原因があるかもしれない。
「王様ランキング」は、その見た目で油断してはいけない、様々な問いを私たちに投げかけてくる。
可愛い童話的キャラクターで、タイトルの印象とあいまって、楽しいお気楽な冒険活劇かと思いながら観始めた。
しかし主人公は巨人属なのに人間の子供よりも小柄、そして言葉を話すことができず、力も非力の極みで、王子であっても民衆から馬鹿者扱いをされ蔑まれ詰られる、やりきれない設定だ。
それでもすねて諦めることをせずに努力を重ねる姿が痛ましく、2話くらいはストレスが溜まる回となっている。
王である父親が亡くなったのをきっかけに、物語は急激に進み始めてからは、主人公ボッチの成長と絡んでくる人々の思惑、それぞれの背景が、物語に厚みを持たせている。
「欲」は、人を突き動かすエネルギーであるけれど、過ぎるとそれは害悪でしかなくなる。
王様のボッス王の強くなりたいという望みは、力比べの域を出ると、完膚なくまで相手を打ち据えて、果てには「神」をも葬ろうと禁断の力に手を伸ばしてしまう。
その結果、後悔しても仕切れない思いが残り、周囲の人の運命を狂わせる。
気持ちを寄せる人のために良かれと思ってしていることが、だんだんと盲目的になり他人の存在は目的を遂行するための道具か障害物となり、利他的で始まったのに利己的になってしまう。
こうして増長した「欲」に蹂躙され荒廃した状況を仕切りなおすことができるのは、「裁き」でも「断罪」でもない、究極の愛の形「許し」なのだ。
エピソード1の終盤、この「許す」という言葉が、畳み掛けるように何度も出てくる。
散々な目に合ってきた人たちが、いとも簡単に「許す」行為に納得する。
感動的場面であるけれど、こんなにあっけなく「許す」ことが連続することに、なんとも言えない違和感と不信感を持ってしまったのは、自分の心が捻くれているせいなのだろうか。
今日職場で、道路での危険な追越運転や、十字路に面したコンビニなどの駐車場を信号を回避するためにショートカットする人たちの行為についてどう感じるかを話していた。
皆一様に、その行為は危険で自己中心的なもので腹立たしく、あいにくとそこに居合わせた時は不快な気分で、余裕を持った易しい運転をしにくくなるという。
そこで私は、「おなかの調子が悪く、トイレに一目散」だったのではないだろうか?
また、そう思っていたほうが諦めやすく、不愉快な気分を早く切れると応じた。
すると、皆驚いていたが、いらいらした気分での運転は荒くなったりするのでそのほうが心の健康にいいみたいだ、けれどもなかなかそうは思えにくいというらしい。
ふむ、危険ではあったが実害がなかったことであっても、「許す」のは難しいようだ。
さて、「許す」にも種類がある。
「偉大な愛の許す」と「諦めの許す」、「どうでもいい拒絶の許す」の3つが思い浮かんだ。
私が危険運転行為に対する「許す」という場合には、ほぼほぼ「どうでもいい拒絶の許す」が7割で残
り3割「諦めの許す」の混合物だ。
話は物語に戻る。
ここで出てきた「許し」は、積極的な「偉大な愛の許し」なのだ。
人の中にある「善」に期待し、そして「弱さ」を包み込む尊い慈しむ気持ちから出ている。
今回のエピソードで回収されてないが、冥府の王デスハーが、拒み続けてきた王様ランキング1位を受諾し宝を受け取りに行くシーンがあった。
王様ランキング委員会の使者が、意味深な言葉をデスハーにかける。
「自分の私欲のためにランキング1位を受けた。自分は変わらないと思っているようだが、人は変わるもの。」
「王様ランキングは、人々の幸せのためにある。」
ちなみに、これまで王様ランキング1位を獲った歴代の王たちは、宝を受け取って後姿をくらましている。
その宝とは、浦島太郎の玉手箱に類するものなのか?
これをどう捉える、われわれは試されているのか?
歴史は繰り返されるのも、このあたりに原因があるかもしれない。
「王様ランキング」は、その見た目で油断してはいけない、様々な問いを私たちに投げかけてくる。
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