rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ルネサンス期のリュート音楽

2011-01-18 16:46:12 | 音楽たちークラシック


   メロッツォ・ダ・フォルリ「リュートを弾く天使」

ルネサンスの芸術が花開いた時期に、奏でられたであろう瀟洒なリュートの音色を、往時に思いを馳せながら聴いてみる。

絵画・彫刻・建築・文学は、厳しい宗教の制約を抜け出て、自由さを取り戻していたこの時期、いまだに音楽は教会の厚い庇護の元に、宗教音楽が主流だった。
しかし、時代の気運は音楽を置き去りにはしない。
ルネサンスといえば、イタリアが中心を占めていたけれども、音楽においては、ブルゴーニュ、イギリス、フランドル地方が活躍していたが、今日聴いている作品は、イタリアの作曲家によるものだ。
フランチェスコ・ダ・ミラノのリュート曲、リチュルカーレとファンタジア。
他に、フランチェスコ・スピナチーノとヴィンチェンツォ・カピロラの曲が収録されている。
演奏者は、クリストファー・ウィルソン。
いずれも、リュートの音色が暖かい愛すべき小品。
あたかもリュートから、音を一つ一つそおっと手で包み取り出すような情景が眼に浮かぶかのよう。
ゆったり気持ちをリラックスさせてくれる、天使の癒しをありがたく受け取ってみよう。

暮らしに溶け込んだ、蚤の市が存在しない日本

2011-01-18 01:40:49 | つぶやき&ぼやき
リサイクルショップの普及によって、不用品や中古品が再利用される環境になった。
「もったいない」精神の、よい現われだ。

だがなぜか、何かしら寒々しさを覚える。
大型リサイクルショップに、大雑把な分類で、ぎゅうぎゅうにぶら下げられ並べられた品物は、本来持っている精彩を欠いて見える。
家電、生活雑貨、衣料品が、まるで中古デパートよろしく、多種多様な傾向の物が、広い店内に陳列されている。
ブランド品は、ガラスのショウケースに綺麗に並べられ、それ以外はこれでもかというくらいびっしりと隙間なく展示してある。
それはそれで構わないが、掘り出し物を探す喜びを感じられないのだ。
価格設定が、いささか高い気もするし、新品の3~4割程度では、納得もいかない。
まるで常設のバザー会場のようだ。

もともと日本人は、人も使ったものを好んで使わない傾向が強い、新品至上主義。
昔は、家屋、家財道具一式、着物などあらゆるものが、使いまわされた。
それというのも大量生産技術がなく、物の価値が高かったから。
いまでは、簡単に安く新しいものが手に入れられるようになった。
なおのこと、中古品は軽んじられ、まだ使えるものがゴミになって捨てられやすくなる、安易なワンオーナー主義が蔓延した。
また、古いものより新しいものを好いと思う、アジアンティックな感覚と、日本人の清潔に拘る傾向も手伝っている。

それもここまでの話。
これからは、物を大切にし、最後まで使いきる時期が来た。
世界的な人口爆発が収まる気配がなく、地球の限りある資源を使っていくには、これまでの消費活動を見直さなくてはいけない。
でないと、資源は枯渇し、地球が疲弊する。
ウイルスは、宿主を滅ぼしはしない。
そこで、大型リサイクル店に丸投げせずに、物の持ち主自ら次の使い手を捜す、地域ごとに個人出店できるフリーマーケットを見直すのだ。

フリーマーケットをフランスでは「ブロカント」といい、「アンティーク」ではないものを個人規模で売ること。
「アンティーク」とは、物が作られてから100年以上経ち、美術的価値や収集する価値のあるものをさす。
一方、「ブロカント」は、「美しいガラクタ」の意味で、大切に使われてきた古道具類だ。
この点は、ヨーロッパの合理的考えを支持する。
これからは、三代四代と物を大切に受け継ぎ使い続ける行為、「ブロカント」を浸透させてみては如何だろう。

日本には、八百万の神がいるように、汎神論がある。
すなわち、全てのものに神が宿っているということ。
ならば、物を粗末にするのは神を蔑ろにする行為に等しい。
その精神のDNAが、日本人に組み込まれているならば、物を大切にすることは、わけないことだろう。

もう、大量生産、大量消費の風潮を改めなくてなくてはいけないし、そんなカーニバルのような状況は、まもなく終焉を迎えるだろう。
物を大切にし使い継ぎながら、既存のものに手を加えて進化させる、本当の意味での文化的成熟が求められている時代になってきたと、つくづく感じている。