退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「描写に勝る漢詩と『出世』にこだわる謎あるいは『間違ったベクトル』と被災者に寄り添わない『報道』」について

2019-03-12 02:10:57 | Weblog
晴れ。今日もやや風が吹く。

違う本を持って出かけたつもりが下定雅弘編訳「柳宗元詩選」を読むことに。

いつもとムードが違うので困ったなと思いつつ読み進めるうち
知らぬ間に漢詩の世界に没入する。

全体に難しい漢語が多くそのままでは読めず。
ついつい訳を先に読んでしまうことに。

「漁翁」の描写はまるで「泰西名画」の趣き。
「江雪」では「ズームの魅力」など。

「アフォリズム」としてはあまりこれといったものがない代わりに
「描写の妙」がいい感じ。

「陶淵明」を思いながらそれでも収まらない「都への気持ち」よ。
その揺れ具合がわずかな行間にあふれ。

いったんは都に戻るものの「夷狄の地」へ。
人生の終わりにようやく落ち着く心が。

「ほぼ隠居の身」として不思議なのは「都への情熱の源」。
「出世の道」を降りることはかくも難しいことなのかどうか。

それとは別に。

今の仕事場に来てからずっと続いていたイベントがどうやらなくなりそう。
上司は人の集まりの悪さを理由にしていたものの。

彼の「設定する日時」に実は問題がありそうな。
飲み会の場の選び方にも同じものを感じる。

どうやら「出来るだけ多くの人が集まること」を最優先にしていない模様。
ならば「人が集まらない」のも当然の事に過ぎず。

「間違ったベクトル」を基準にするとすべてがうまくいかなくなるいい実例。
経営者諸氏にも考えていただきたい問題。

「震災報道」を少しだけ見る。

「復興」がうまくいっている場所とそうでない場所の違いが一向に報じられず。
被災者でない者たちの「忘れないでいることの倫理」のみが優先され。

繰り返すが「誰のための報道」なのか。
もっと「被災地の現実」を伝えていただきたいもの。

そして「復興」を妨げるのは何なのかについても。
さらに「復興」を進めるにはどうしたらいいのかについても。

いまだに仮設住宅に住んでいる人々とその未来はどうなるのか。
どういった人々がそこに留まらざるを得ないのか。

彼らが「祈る映像」より「現実」をもっと。
その単純がなぜマスコミにはわからないのだろう。
コメント
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