退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「周辺の視線と若者」について

2014-02-14 02:06:19 | Weblog
晴れ。夜にやや冷える。

山下祐介「東北発の震災論 周辺から広域システムを考える」を読む。

西洋にならって「近代化」をやみくもに目指したのはいいけれど
「神に対する個人」もないまま「システム」だけが育ち。

その結果地域の「共同体」は失われ
「中心」が「周辺」に維持されつつ「支配」することに。

「東北論」を押さえつつ「それぞれの被災者の現実」を細かに挙げるスタンスは
「現実の複雑さ」をそのまま描いていて勉強になった。

「途方もない現実」を前にいたずらに「単純化」に走ることなく
できる限りの「目配り」をする著者の姿勢が好ましい。

「被災者の声」として仮設住宅に暮らす年長世代の要望が大きく伝えられてしまうことや
ボランティアが「システム化」して「独自の支援」をしにくくなっているという指摘になるほど。

ある程度「復興」が進んだ地域であっても
人が戻って来なくては「仕事=商売」も成り立たない「当然」。

それぞれの「希望」によって
必ずしも「一律の高台移転」がいいわけではないということなど。

故郷、家族あるいは友人、そして仕事を同時に奪われてしまうことの「残酷さ」に
われわれはもっと敏感であっていいだろう。

さらにそうした「喪失」の上に「新たな未来」を築くことの「困難」についても。

そこで提案。

全国の学校の修学旅行先をすべて被災地にすべし。
子どもたちの「訪問」は束の間の「慰め」になる上に「教育効果」も抜群ではないか。

それをきっかけにいろんな「交流」も生まれ
少なくとも「中心」による「単純化」は免れること必至。

必要以上に「余計な気遣い」をしがちな「大人たち」と異なる「アプローチ」もあるだろう。
何より「数多くの視点」がそこに生まれることが重要。

さて。

TVでは羽生結弦がショートプログラム初の100点越え。
敢えて彼の姿を元にして「東北の再生」に思いを馳せたい。

若者たちは常に「希望」である。
おそらくわが国全体の「希望」もそこにしかないはず。

まともな「大人たち」なら
彼ら彼女らのための「捨石」になるくらいの「覚悟」を持とう。

少なくとも「迷惑な輩」になることだけは避けたいもの。
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2 コメント

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Unknown (shio)
2014-02-17 22:54:37
若者が希望なら 老さ(?)は なんだと 思いますか?
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Unknown (pxcre2)
2014-02-19 02:35:12
悪い面なら「停滞」ですね。

その一方で「経験と知恵」はあるはずなので
きちんと活かせばかなり貴重なものにもなります。

もちろん「若者」が「バカ者」であることも少なくありません。

それぞれできれば「まとも」でありたいものです。

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