退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『もっとも贅沢な生活』と素敵なジャーナリストたちあるいは好ましいお金の使い方」について

2020-03-31 01:12:43 | Weblog
雨のちくもり。夜に止む。

山本七平「小林秀雄の流儀」を途中まで再読。

「空気の研究」で有名な著者が「小林秀雄好き」だったことを知ろう。
彼曰く。

「人がもし、自分に関心のあることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、
書きたいことだけ書いて現実に生活していけたら、それはもっとも贅沢な生活だ。」

それをしていたのが小林秀雄だと。
そしてその「流儀」を真似てみたのが本書の内容だとのこと。

何やら「一流のフリージャーナリスト」に似ているような。
いちおう明日読了予定。

フレッド・ピーボディ「すべての政府は嘘をつく」(’16)を観る。

1920年代から80年代にかけて活躍したアメリカのジャーナリストI.F.ストーン。
その志を受け継いだ現代の独立系ジャーナリストたちのドキュメンタリー。

チョムスキー、「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマン、
「ジ・インターセプト」のグレン・グリーンウォルド。

昔懐かしい「大統領の陰謀」のカール・バーンスタイン(映画ではダスティン・ホフマンの方)。
元ニューヨーク・タイムズのクリス・ヘッジス、「華氏911」(’04)のマイケル・ムーアなど。

かの国にはこうした素敵な人々がいるのねとあらためて。
若者たちには是非「感染」していただきたいもの。

「ポスト・トゥルース」という「時代の流れ」など関係ない「真実の追究ぶり」よ。
これですよ、これ。

前澤友作とやらも「100万円のお年玉」などという「バカ」はよして
こうした人々のための資金を提供していただきたいものではある。

「イベント」は所詮「イベント」に過ぎない。
「好ましいものの継続のため」にお金を使わないとね。
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「立場に関わらず『会話』が成立した時代と多国籍企業の『奴隷』になることを推奨する者たち」について

2020-03-30 01:27:26 | Weblog
くもりのち晴れ。まだ少し風が冷たい。

豊島圭介「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観る。

立場に関わらず「会話」が成立する時代があったことをあらためて思った次第。
三島由紀夫の誠実な態度とユーモアあふれる姿が印象的。

芥正彦という強烈なキャラクターがなかなか。
相手の話を理解した上で「退屈だ」と言いつつ。

本作の中では自決を知った時の感想として
「よかったな。一世一代の大芝居が出来たんだから」といった内容を話して。

「敵ながらあっぱれ」というこの交歓ぶりが好ましい。
今となっては夢のような話だけれど。

橋爪大三郎がこうした経緯の上で「残された課題をやっている」と言うのにふむふむ。
「全共闘世代」はこの「落とし前」をどう付けたのかは明らかにならぬまま。

ひとつ指摘しておきたいのは幼い娘を抱いたまま煙草を呑む芥正彦を代表に
三島もそれ以外の人々の紫煙もフィルムに写っていること。

今日もちょっと前までは喫煙室があった喫茶店にそれがなくなっていて。
こうした「会話」が出来ることと「煙草の害」を比べてみてはいかが。

「無暗に健康であることの不健康さ」も知っておきたいところ。

マル激を観る。

今回はコロナ騒動の背後で成立しようとしている「種苗法改正」について。
これには前段階として17年に成立した「種子法廃止」と「農業競争力強化支援法」があり。

前者によってF1という翌年に種をつけない品種を売る多国籍企業に種が「独占」され。
「自家採取=自分で種を採ること」が出来なくなった農家はそれを毎年買わざるを得なくなり。

農薬と化学肥料もセットで売る多国籍企業の利益だけがいたずらに確保され。
農産物の値段も自動的に上がる結果に。

後者は各地域が苦労の末開発した米の育成などの「ノウハウ」を
多国籍企業が教えろと言ったらそれに答えなければならないのがポイント。

「地域の公共の財産」を「グローバリズムという敵」に渡すという「新自由主義の愚」たるや。
昔なら当然「売国奴」と呼ばれるにふさわしい内容で。

さらに今回の「種苗法改正」では。

「種苗の知的財産権」がまたまた「資金が潤沢な多国籍企業」に独占され。
農家は「自家採取」が出来なくなるどころか登録されたものを育てるのに金を払う必要が生まれ。

おまけにそれに違反したら結構な額の「罰金」が課せられるとのこと。
何じゃこりゃ。

わが国の政府や官僚は農家を潰そうとしているとしか思えず。
コロナ騒ぎで輸入が出来ず「食糧安全保障」も問題になっているというのに。

ただしゲストの山田正彦によれば各都道府県の「条例制定」で対抗できるとも。
これが唯一の「救い」か。

アメリカでは「ラウンド・アップ」を売るモンサントが
発がん性をめぐる訴訟によって莫大な補償金を払う現実がある一方。

わが国ではちょっと前まで普通にTVのCMで宣伝されていたりした過去があり。
アメリカ農務省副長官が「遺伝子組み換え作物を一番食べているのは日本人」だと言っていたり。

にもかかわらずマスコミはこうした事実を採り上げたことはなく。
このようなことを平然と行う人々の群れが現在の「権力機構」なのだと知っておこう。

繰り返すがいいかげんに怒らないと。
「奴隷」にされるのを待っていていいのか。
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「『知性の極致』とショービズの裏側」について

2020-03-29 02:11:00 | Weblog
晴れのち雨。橋の上だけほぼ台風。

木田元「反哲学入門」を再読。

「哲学」にハマるのはある種の「病気」だという姿勢が素敵。
その視線は「西洋哲学の異様さ」も明らかにして。

歴史と語源の解説はありがたい限り。
著者は自らの探求の結果を惜しみなく与えてくれて。

明治時代の翻訳の微妙さも。
要点をわからないままに日本語にした罪など。

「何事かを理解する」というのはこういうことなのだとあらためて。
「知性の極致」を知っておこう。

ビル・コンドン「ドリーム・ガールズ」(’06)を観る。

ザ・シュープリームスをモデルに業界のあれこれを描いたミュージカル。
もう14年前になるのか。

若いビヨンセはダイアナ・ロスそっくりなところも。
キュートなジェニファー・ハドソンの圧倒的な歌声が素晴らしい。

アニカ・ノニ・ローズは高音部を担当。
彼女のモデルであるメアリー・ウィルソンの原作を元に。

ジェイミー・フォックスが「モータウンの創始者」ベリー・ゴーディ・ジュニア。
キース・ロビンソンはスモーキー・ロビンソン。

エディ・マーフィーとダニー・グローヴァーが脇を支え。
ビジネスが音楽を犯すという描写がありつつ。

いろいろあった挙句のラストは何とも。
ここでも男の「ありのままの女」を受け入れられない姿を忘れずに。
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「『映画が目にしみる』ことの至福」について

2020-03-28 02:29:06 | Weblog
雨。夜になって止む。

「映画が目にしみる」読了。

もちろんタイトルは「煙が目にしみる」から。
いちおう載せておく。

「彼らはぼくにたずねる。どうしてぼくの真実の愛が真実なのだとわかったのかと。
 もちろんぼくは答える。この心の中にあるものを否定できるはずもないのだと。

 彼らは言った。いつの日か君は愛する者がみな盲目であることを知るだろうと。
 嗚呼。君たちの心が燃え上がった時君たちにはわかるだろう、煙が目にしみることを。」

歌詞の内容をちょいと。
著者の「映画に対する愛情」が表現されているのだと解釈しておこう。

それにしても中日新聞のコラムが担当記者の死と紙面の変更で終わったのは勿体ない限り。
こういう文章を読んでいる時こそ「至福の時」だというのに。

きっと著者はドラマ「透明なゆりかご」のモトーラ世理奈も「発見」しているのだろう。
それにしても「女優陣の豊かさ」に対して「男優陣」や如何に。

この理由はおそらく若き男子たちが「乳母日傘」で育つからではないか。
要は「味が出るまでに時間がかかりすぎる」ということ。

女子に比べて男子は「のほほん」と暮らし過ぎていて。
例えば佐分利信のような「大人の魅力」を感じさせる存在が少なすぎる。

三船敏郎の「野性味」もなく。
志村喬の「渋み」もない。

「時代が人を作る」のは確かなので「ないものねだり」と言えばそれまで。
ただし如何せんみんな「軽すぎる」のも事実。

そこにいるだけで何事かを感じさせる存在。
わが国ではそうした男子が老若を問わず減っているのが残念至極。

小津作品で「演じることを禁じられた笠智衆の無念さ」を思いたいもの。
もっとも「長屋紳士録」(’47)で歌う姿はそうでもなかったのか(記憶違いだったらすまん)。

成瀬巳喜男「稲妻」(’52)の浦辺粂子の姿を久方ぶりに思い出させてもらった。
ちなみにずいぶん前から「二食(にじき)」の生活をしている。

昼夜逆転のそれも同様に。
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「映画に関する素敵な話といたずらに『自分の思い』を優先させるだけではダメなことあるいはそれでも銃なのか」ということについて

2020-03-27 02:17:52 | Weblog
快晴。20度超え。

小林信彦「映画が目にしみる」を半分くらい再読。

著者の作品を読むたびにいつも思うのは「新たな発見」があること。
おそらくこちらもあれこれ観ているせいか。

なるほど「時代観察者」だと思うことしきり。
とりあえずこちらが知っている「時代」に関しては実に確かで。

同時代を生きていれば簡単にわかることが「後追い」ではわからないこと。
その「歴史の法則」を覚えておきたいもの。

つまり。

現在を生きるわれわれは「現在の映画」について語るべきだと。
今どき「まともな映画批評」があるのかどうか。

もっとも詳細は確認していないので不明。
ただわが国の映画が「異様な心理主義」に囚われがちだということはわかる。

いたずらに「わたしの思い」が優先される「貧しさ」よ。
そこにそもそも「わたしの思い」は「まとも」なのかという問いはなく。

コロナ騒動についても同様に。
そこに「科学」はあるのか。

イーライ・ロス「デス・ウィッシュ」(’18)を観る。

マイケル・ウィナー「狼よさらば」(’74)のリメイク。
ブルース・ウィリスはチャールズ・ブロンソンと同じ「カージー」という名前で登場。

「リービング・ラスベガス」(’95)のエリザベス・シューの現在が観たかっただけ。
その健在ぶりを確認して納得。

ラジオが犯罪都市シカゴを煽る姿にふむふむ。
いちおう「アクセル」と「ブレーキ」の両方が描かれる「バランス」はあり。

アクの強いレインズ刑事にディーン・ノリス。
彼を意識し始めたのはTVドラマ「アンダー・ザ・ドーム」(’15)からという「遅れ馳せ」。

物語はいかにもアメリカらしく「自分の身は自分で守るよりない」と。
とはいえここでも銃ですかという思いはなきにしもあらず。

「復讐のカタルシス」をそのままにしていいのかどうか。
かの国が「正義」を旗印に諸外国に介入した「歴史」を見れば明らかだろうに。

普段は「ダメダメ」なヴィンセント・ドノフリオが
「緊急時」に案外役に立つ姿はむしろ「コワイ」。

「戦争」に目覚める前にもっと出来ることをしないと。
「平和維持活動」はPKOのみではないことを是非。

もちろんそれは「自警団の横行」を望むものではなく。
「関東大震災」を思えば相当に「危険なこと」ではあるので。
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「アメリカの喜劇映画の歴史あるいはそれで思い出した昔の映画」について

2020-03-26 02:12:08 | Weblog
晴れ。あたたかい。

小林信彦「映画を夢みて」を何度目かの再読。

フランク・キャプラ「或る夜の出来事」(’34)に始まり
レオ・マッケリー、ジョージ・キューカー、ハワード・ホークス。

あるいはプレストン・スタージェス。
エルンスト・ルビッチやビリー・ワイルダーなど。

「アメリカ喜劇映画の歴史」をあらためて。

キャプラといえば「一日だけの淑女」(’33)は後にジャッキー・チェンがリメイク。
「わが家の楽園」(’38)ではジェームズ・スチュアートがデビュー。

「スミス都へ行く」(’39)は「民主主義の基本」など。
「群衆」(’41)では「ジョン・ドウ」が「虚像」を描かれ(ほぼ現代と同じ)。

「毒薬と老嬢」(’44)は一転「ブラック・コメディ」。
その後に「素晴らしき哉、人生」(’46)もある「豊かさ」よ。

マルクス兄弟の肝心な作品を観ていないのが何とも残念。
ビデオ屋で借りられるのかどうかも確かめていなく。

嗚呼。

やはり自分にとって映画は「愛人」らしい。
それも「都合のいい時にだけ思い出すもの」だったり。

ビリー・ワイルダー「麗しのサブリナ」(’54)を久方ぶりに再見。

「ローマの休日」(’53)の翌年のオードリー・ヘップバーンはやはり「子鹿」。
ハンフリー・ボガートの「やさしさ」が沁みる。

もちろんそれは彼と対照的な弟ウィリアム・ホールデンがいるからこそ。
マティーニを飲んでばかりいる父親ウォルター・ハンデンも同様に。

フランス語を習うフリをして自分の気持ちを伝える「洗練」が素敵。
「実業家=数字を評価する人」としてか生きてこなかった男が「愛」を知ることに。

ポケットに入れたワイングラスとオリーブのガラス瓶の「結果」が小気味いい。
テニスコートのネットが「一線を超えること」を意味するのも忘れずに。

今回納得したのはグレッチェンの声の「醜さ」。
オリーブを取り出せない父親に対してボギーがガラス瓶を割る描写も同様に。

この「恋」の基本も「身分違い」だったり。
それゆえオードリーを「見守る人々」の在り様が好ましい(彼女は『使用人の娘』)。

なるほど「恋」が燃え上がるためには「障害」が必要なことをあらためて。
「昔のレコードをかける」しかないという「年齢差」も。

ただしこの物語は「おじさん」にとって都合が良すぎるかも。
裏を返せば「おじさんの欲望」に従った物語だということか。
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「2年前に買ったカタログを初めて観ることと『明るさ』の違いによる見え方の違いあるいはロボットと人間が『融合』する映画」について

2020-03-25 02:27:10 | Weblog
晴れ。風強く夜に冷える。

「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」を観る。

今は無き老舗バーのマスターからもらった券で
初めての美術館に行きカタログを買ったのは2年前の夏のこと。

場所がよくわからず大回りをして歩いてようやく到着。
帰りに「何だ、あそこを行けば早かったのか」と思ったもの。

ピーテル・ブリューゲル1世の作品が一番興味深い。
「バベルの塔」やその他の作品も悪くはないけれど。

深夜にちょいと観直してみたら
「普通の明るさ」ではなく「暗い場所」で観た方が魅力的なのを知る。

当時の環境を思えば今ほど明るくなかったのは確かで。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」などを思い出したり。

キケ・マイーリュ「EVA〈エヴァ〉」(’11)を観る。

エヴァのクラウディア・ベガの何とも素敵な少女ぶりよ。
薄赤い透明なガラスで描かれるロボットの構成要素=シナプスも同様に。

キュートなロボットネコも登場する中
兄弟によるひとりの女子に対するいかにも「人間らしい争い」があったりして。

「目を閉じたら何が見える?」という台詞がポイント。
開発中の少年ロボットはそれによってシステムダウンされ「初期化」される仕組み。

「初期化=あらゆる記憶が失われること」は哀しい。
エヴァが自分の子であるかもしれないと思う主人公の結末を是非。

家事その他をそつなくこなす「万能ロボット」マックスのルイス・オマールも。
その「忠実な執事ぶり」は実に好ましく。

「豊かなもの」を見せていただきましたという感じ。
唯一文句があるのは冒頭の描写。

この「未来」を最初に描く必要があったのかどうか。
そこがもったいないと思うことしきり。

詳細はそれぞれで確認していただきたい。
要は「是非観てほしい作品」であるということ。
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「『感覚とセンス』による判断とどうにも非科学的なわれわれ」について

2020-03-24 02:15:52 | Weblog
晴れ。夜にやや冷える。

中野翠「小津ごのみ」を再読。

蓮實重彦「監督 小津安二郎」との違いを楽しもう。
ドンゴロス」のタイトルバックは懐かしく。

「自分の好きなもののみの世界」を映画にした監督よ。
その「不自然さ」は全く気にせずに。

「晩春」(’49)のシーンの「性的解釈」を否定する著者。
ただし監督は「若い娘たち」に「下ネタ」をぶつけていたりもして。

着物や障子の柄の具合が「モンドリアンに見える」というのにふむふむ。
もっとも「ひょうたん柄」はそう見えないはず。

「東京弁」の魅力に関する紹介もあり。
このあたりは落語好きな著者ならではのもの。

「風の中の牝雞」(’48)「宗方姉妹」(’50)「東京暮色」(’57)が「あまり好きではない」と。
前二作は田中絹代が「ミスキャスト」で後者は「暗すぎる」か。

溝口健二作品であれほど魅力を発揮した田中絹代を敢えて使った意味とは。
かの監督にして「迷い」があったのだということにしておく。

戦前の作品を観ていない「不勉強ぶり」の上での判断なので微妙。
「おじさまごっこ」というのには大いにうなずくのだけれど。

それとは別に。

わが国の「コロナ対策の非科学ぶり」は嗤うしかない。
「クラスター」を拡大しないためには「感染者の行動範囲」が重要なのだとして。

すでに感染経路が不明な人々がたくさんいるじゃないの。
そこをどう手当て出来るというのだろう。

今回の事態が収まるためには誰もが感染して「抗体を作る」現実が来ないと。
それには少なくとも数年かかるはずで。

感染者が隔離されず家にいれば家族に感染することにもなり。
「隔離」が最優先されない謎よ。

無意味に「2週間」という「期限」が採用されたり。
政府もマスコミも「信用ならない」なら検査を信じるしかなく。

とはいえ「誰もが検査を受けられる体制」はないまま。
いたずらに不安が煽られることになるだけ。

無症状のうちに他人に感染させるのだから。
「体温測定」など「『安心』のためのアリバイ作り」に過ぎず。

かくも「現実」に対応できないのはなぜか。
われわれの「無能さ」をあらためて知っておこう。
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「参考資料三つ」について

2020-03-23 02:57:52 | Weblog
晴れ。おだやか。

エマニュエル・トッド「問題は英国ではないEUなのだ」を古本屋で買って読む。

「宗教」という「共通土台」が失われた場所で
従来とは全く異なる「イデオロギー」が生まれるらしい。

フランスがずいぶん「野蛮な国」になっていること(昔からそうか)。
あるいは「中産階級の行方」が「未来を示すこと」など。

ただし「相関関係」はあらゆる場所で見出されるものだったり。
例えば「スカートが短くなれば景気がよくなる」といった類いもあり。

とはいえ「イトコ婚」が主流な場所と「外婚制」が主流な場所で
「事情が異なる」のだというのは興味深い。

とりわけ「私はシャルリ」だとデモを行った地域が
実は「イスラム教に対するいわれなき恐怖」を抱いた場所であることを忘れずに。

「不安」が「敵」を呼び寄せる仕組みについて敏感でありたいもの。
さらにその仕組みを利用していたずらに「成り上がる人々」についても。

なるほど「ナショナリズム」が世界各地で盛り上がる「時代の流れ」。
「個人の存在」は「国家」が支えているのだというのにふむふむ。

マル激を二週分観る。

トランプがその独特の「嗅覚」によって今回の「コロナ問題」を重視していること。
けれど「コロナ問題」は直接それぞれの「わが身に振りかかること」。

ひょっとして「従来の視点」がかの国で変わるやも知れず。
「一緒に酒を飲みたい相手」が好ましいといった括りで収まるのかどうか。

サンダースとバイデンの政策が全く逆であるのも面白い。

前者は「社会主義」を知らない若者たちに受け。
後者はかつてのそれを知っている大人たちに受け。

かの国の「イノセンティズム=感じのいい人が好ましい感覚」よ。
「インテリとそうでない人々の分離」もあらためて。

今週分は新藤宗幸を迎えて「行政の基本」について。

「官僚の仕事」を定義する法律がないことを初めて知る。
かつて「天皇の臣民」だった時代の名残りが現在まで続き。

いずれにせよ「劣化」の事実の指摘が繰り返される。
この理由を説明してくれる人に会ったことはないのだけれど。

そもそも「理」は誰もが「安楽に暮らせるため」に生まれたはず。
それが「自分の都合を優先させること」に使われるだけでは腐るのみ。

ただここでも問題になるのは。

この番組を観ている層が限られていることと
仮に観たとしてもその内容を十分に理解できる層がどうしても限定されること。

要は「民度」だったり。

もちろんマル激の放送内容が問答無用に「正しい」のではなく。
とりあえずこれくらいの「参考資料」を吟味しないとどうにもというだけ。

すでに「母国語」さえ十分に理解できない人々が増えている現実を思えば。
何より「対話」がすでに不可能になっていて。

われわれが「人間」でいられるのかどうかは実に心許ない限り。
「動物化の進行」は久しいのだとして。

唐突に話は変わるが神保哲生の言いたかった映画の題名は「スノー・ピアサー」。
13年のポン・ジュノ作品。
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「時代と階級がもたらす豊かさとその限界あるいはコロナの流行る今にピッタリな映画と『ルール違反』なスパイ映画」について

2020-03-22 02:09:47 | Weblog
晴れ。室内は暑いほど。

江藤淳・蓮實重彦「オールド・ファッション 普通の会話」を再読。

「東京ステーションホテル」がその良さを残していたのは35年前。
内田百閒が使っていた頃を思えばそれも「新しい」のか。

「東京のブルジョワ家庭に育ったふたり」だからこその「会話」。
わが国にあったかつての「階級の名残り」よ。

以前はわからなかったことがあれこれ。
ただし「巻末のふたり」の「解説」は鬱陶しい。

その後江藤淳は自死して蓮實重彦は4年前にも「騒動」を起こし。
対照的な「人生」に思いを致すのみ。

仕事から帰宅後TVで
ローランド・エメリッヒ「インデペンデンス・デイ リサージェンス」(’16)を観る。

こんなところに「スター・トレック」の「データ」ブレント・スパイナーが。
「NUMBERS 天才数学者の事件ファイル」の「父」ジャド・ハーシュも。

面白いかと言われると微妙。
「大して面白くもない笑い」が次々に出て来るのはむしろ残念。

デヴィッド・リーチ「アトミック・ブロンド」(’17)を観る。

冷戦終結前後のベルリンにおけるスパイ活動が基本設定。
英米仏ソの各国が「スパイの名簿」を争うお話。

ジェームズ・マカヴォイの魅力がなかなか。
シャーリーズ・セロンのそれは今ひとつ。

アクションを頑張っているのはわかるけれど。
裸体の見せ方が微妙なのはそこに「魅力」がないということなのか。

ジョン・グッドマンってこんなに痩せたのね。
トビー・ジョーンズの「異形」はやはり印象に残る。

これまた面白いかと言われると微妙。
プロデュースもしているシャーリーズ・セロンは何がしたかったのだろう。

ちなみに彼女は今年で45。
「南アフリカ共和国」の出身。

「女盛りの年齢」であることは確かだが彼女にはあまり惹かれない。
「同性愛の擁護」で褒められたせいか本作でもちょいと「レズ」など。

ブライアン・シンガー「ユージャル・サスペクツ」(’95)と同じ「過ち」が再び。
敢えてその詳細については述べないので本作で確認していただきたい。

ネーナ「ロックバルーンは99」が懐かしい。
マイナーキーにしたバージョンもあるのでよろしく。
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