退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「目標」について

2011-11-30 02:12:10 | Weblog
くもりときどき晴れ。コートだと暑いほど。

野地秩嘉「昭和のスター王国を築いた男 渡辺晋物語」を読む。

学費を稼ぐため遅くに始めた自らのベースの腕前を冷静に判断し
プロデューサーとして「芸能事務所」を「企業」にしようとした男の物語。

「ビジネスマン」としての「思慮深さ」と「目の確かさ」を描いた格好。
「自分のツボ」で笑うのが好きで滅多に怒りをあらわにしない物静かなキャラクター。

TV業界では有名な「月曜戦争」は
当時の日本テレビプロデューサー井原高忠の「宣伝勝ち」だとしている。

そもそも本書は主人公の娘渡辺ミキに執筆依頼されたものなので
そのあたりの「差し引き」は勘定に入れるべきなのか。

もっとも当事者ふたりは「友人」としてその後も仲良く付き合ったらしく
「社史」にもその「揉め事」の記述は載せるだけの「器量の持ち主」であったことは確かで。

熊沢誠「格差社会ニッポンで働くということ」を読む。

「競争」を勝ち抜いて正社員になった者たちは
「ノルマ」をクリアするために「サービス残業」に追われさらなる「競争」を強いられる。

一方「競争」からはずれた者たちは
「ひとりで暮らすための収入」も十分に得られずその境遇からも抜け出しにくい。

いずれも「のんびり」とは暮らせない「事実」だけが残る。
前者の働きぶりがいたずらに「基準」となってしまうこともあり。

「理想」だと思われるかもしれないがと断りを入れつつ
著者はヨーロッパの「同一労働同一賃金」の「実現」を目指そうと。

あらためて「労働組合」の重要性についても説いている。
個別に切り離された労働者たちはむしろ「同じ境遇の人々」の存在を知ることが重要だとも。

「貧乏でも楽しく暮らせる社会」を「理想」とする身としては
従来の企業のあり方に関係なく暮らせる「選択肢」を見出してもらいたいところ。

先頃来日したブータン国王があれほどもてはやされたことを思えば
そろそろ本気でその種の「生活」を誰もが「現実」にすべき時ではないのか。
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「心霊写真」と「認識」について

2011-11-28 01:21:54 | Weblog
晴れ。だったと思う。

一柳廣孝編著「心霊写真は語る」を読む。

小学生の頃に中岡俊哉「恐怖の心霊写真集シリーズ」を読んだ(見た)者として
ついつい図書館から借りてきたもの。

「心霊写真」をどう受け止めるのかが時代によって異なるのが面白い。
そもそも「写真はすべて心霊写真のようなものだ」という考え方についても同様。

常に動いているはずの被写体の一瞬を固定することは
たとえば「死」を写しているに等しいという解釈。

二重露出などのテクニックよる昔の写真は
いかにも「インチキ」臭くなぜそのようなものが受け入れられたのかと疑問に思うものの。

「信じたいものを信じる」という人の姿勢そのものは変わらないらしい。
「死者と通じたい」という気持ちで「心霊写真」を評価することもあったりして。

人間の目とカメラの目の機能が異なるのは当然で
そうして出来上がった「心霊写真」に対する「意味付け」が「物語」を生む。

あるいは一度「心霊写真」という「認識パターン」が出来上がると
そうした目はあらゆるところに「顔」を見つけやすくなったりもすると。

なるほど物事を「客観的に見ること」は難しい(いや不可能か)。
われわれの目はあらゆる文脈や体調、精神状態の影響を受けるものだから。

おそらくその「事実」は「好ましい他人の視点」を知ることから明らかになるはず。
もちろんそこにさえ「好ましい」というバイアスがかかっているわけで。

「わたしの見ているものとあなたの見ているものは違う」と言うのはたやすいこと。
ただしそのことを「実感」できるかとなるとかなり疑わしい。

いやはや。

いずれにせよそれぞれに「めんどくさい」のが人生。
お互いに何とか乗り切りたいものではあるけれど。

今後ともよろしくと各方面に言っておく。
今後出会うことになる人々に対しても同じく。
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「食べること」と「吐き出すこと」について

2011-11-27 02:26:16 | Weblog
晴れ。風もさほどなくおだやか。

久方ぶりに仕事帰りに同僚たちと食事。
といってもゆず風味のラーメンのみ。

替え玉三つまで行った若者の食べっぷりのよさに感服。
これならきっと「作りがいがある」と将来のパートナーは思うだろう。

いかにも「うまそうに食べる」ことは
それを見ている人を幸せにするという「オマケ」もあり。

味そのものは特にクセもなく
あっさりした食べごたえがカロリーを忘れさせるのだと推察する。

個人的にはもう一度食べたいかと言われるとそれほどでもなく。
そもそも自らラーメンを食べることはマレだし。

帰宅後週末恒例のマル激のNコメを観る。

「委員会」あるいは「審査会」の人選は官僚の「お手盛り」で
実質的な「政策」はここで決まるにもかかわらずマスコミはほぼ報道せず。

その配分はどうやら「3:2」でもちろん「反対派」が「2」になる仕組み。
「味付け」は端から決まっていて「反対派」という「具」を言い訳にできる模様。

そもそもの人事権は大臣にあるものの
よくあることながら大臣たちは「使えない人たち」あるいは「既得権益保持者」で。

このあたりの事情が多くの国民に知られることになれば「現実」も変わるだろうに。
「メディア」が「媒介」であることの意味があらためて問われる。

その一方「オール福島のガイガーカウンター」が
海外も含むボランティア三千人をバックにお手ごろな値段で作られたことを知る。

予想外の注文に生産が追いついていないそう。
誰も頼りにならないなら自分たちで始めるしかないという「好ましい現実」がここに。

うれしいのは「利益追求」と関係ない値段であること。
いかがわしい「市場」とは無縁のまま「みんなのために」作られたものであること。

今日読了した「田中清玄自伝」にもあったけれど
「金儲けが悪いことなんですか」と問うような者にロクな者はいない。

もちろん儲けた金の「使い道」を心得た者が儲けることは望ましく。
今回の「未曾有の事態」にポンと吐き出すことができるのが「王道」。

いたずらに「貨幣を持っている者たち」に告ぐ。

今こそ君たちの出番だと知れ。
そして「有効な使い道」を知れ。
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「シンプルであること」について

2011-11-26 01:59:06 | Weblog
くもりのち晴れ。今日も少し冷える。

本切れで「田中清玄自伝」を途中まで再読。

もちろんひとりだけの「証言」なので
それがどれほど「本当」なのかはわからないが。

この「快男児ぶり」はまさに痛快。
現代の人間たちと比べると「スケールの違い」を感じざるをえない。

幼い頃に読んだ押川春浪「海底軍艦」のワクワク感を思い出したり。
こと「アジア」となるとこの種の「展開」が好ましい。

「武家の教育」がこうした「キャラクター」を生んだことは事実。
だとするなら現代でも一定の場所では行なってもいいかもしれないけれど。

ただしそれだけの「剛直」を持った人物がいるかといえば心もとなく
それについていけるだけの「素質」ある子どももいるのかどうか。

右だの左だの言う前に知っておきたい人であることは確か。

ひとつだけハッキリしているのは
「たいていの人は自らの原理原則では動かない」ということ。

たとえば権力たとえば金。

それも「原理原則」だといえばその通り。
できればそういうものとは無縁でいたいもの。

とはいえ「必要な時」にはそれらも「利用」できる「器」もあった方がいい。
繰り返すが「信念のあるマキャベリスト」はその「不自然なまっすぐさ」ゆえに強い印象を残す。

「手段」が「目的」のためにあるべきだというのは誰しも認めることだろう。
その「シンプル」を貫けるかどうかは大いにあやしく難しい。
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「不健康さ」について

2011-11-24 01:59:50 | Weblog
くもりときどき雨。湿気多し。

久方ぶりに地下鉄で赤ん坊と見つめ合う。
あまりにじっと見られるので思わずこちらが視線をはずすほど。

子どもには人気があるのだけれど
肝心なところにそうでないのは相変わらず。

本を持っては出たものの
ドトールではしばしボーッとして読まずに終わる。

風邪のせいかやや疲れを感じたため。
少なくとも一年ぶりになるから身体に従っておく。

とはいえタバコは吸うし酒も飲んでいる。
今後も「普通に不健康な暮らし」をするつもり。

いたずらな「健康さあるいは健全さ」は心に悪い。
意地悪に言えば「お前は長生きして何をするつもりなのか」とか。

もちろん個人的に長生きしてもらいたい人々はいるので
その方面に関しては勝手ながらよろしくお願いしたい。

たとえば「老害」の最たるものは「ナベツネ」。
己を知らない者がいつまでものさばる姿は見苦しいのみ。

会見で泣いたりする清武元代表が文句なしにいいとは思えない。
ただ「引き際」を知ってもらいたいだけ。

あれこれの肩書きを取ってしまえば「ただのジジイ」。
多少政治に関わったからといってその「基本」がわからないようでは器が知れる。

その一方で彼を引退に追い込めない「読売」も情けない限り。
要は「組織」として「すでに死んでいる」ということ。

ここに残る「昭和」はむしろ消えた方がいい。
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「映画ネタ」ふたつ

2011-11-23 02:56:52 | Weblog
晴れ。昨日ほどの寒さはなく。

川本三郎「ハリウッドの黄金時代」を読む。

アラン・ラッド、エヴァ・ガードナー、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ベティ・デイヴィス
ラナ・ターナー、メイ・ウエスト、ケーリー・グラント、グロリア・スワンソン、リタ・ヘイワース

そしてゲーリー・クーパー。

「シェーン」のアラン・ラッドを冒頭に持ってきたあたりがポイント。
「背が低い=172センチだった」ことがコンプレックスでもあったスターの苦悩も描きつつ。

シュトロハイムの「贅沢」、ケーリー・グラントの「瀟洒」、クーパーの「素朴」という並びには
ある種の「洗練」を重視しながら「理想」を抱く著者の「姿勢」がうかがえる。

女優陣について「型にはまらないタイプ」ばかりを選んでいることにも注目しよう。
リズ・テイラーやバーグマン、グレース・ケリーなど「万人受けする」美女とは一味違う。

それぞれに割かれたページ数は文庫で基本的に24ページ。
クーパーとケーリー・グラントの二人だけはそれぞれ23ページと22ページ。

そこに敢えて意味を読み取るのも面白いかも。
もっとも後者については執筆当時に訃報が知らされたこともあるのかもしれないけれど。

四半世紀前まではこうしたスターたちの名前がまだまだ知られていて
そのうちの何人かは健在だったのだ。

本書は本来の意味で楽しいゴシップについてあらためて考えさせられる。

小津安二郎「小早川家の秋」(’61)をようやく観る。

「小早川」を「こはやがわ」と読むとは知らずずっと「こばやかわ」だと思っていた「不勉強」。
案外いろんな本にそうした注釈はなかったような気がするのだが。

中村鴈治郎の「オヤジぶり」は孫との「かくれんぼ」のシーンで笑わせる。
娘・新珠三千代の「いけずぶり」は夫・小林桂樹に押さえられ結局は「親子の愛情」におさまり。

長男の嫁・原節子は「紀子」つながりのせいか司葉子と常に行動を共にする。
藤木悠に対する山茶花究の「ちゃうちゃう」も楽しく。

浪花千栄子と団令子の「水商売母子」のたくましさよ。
加東大介が森繁を原節子の見合い相手にしたりするあたりがいかにも「東宝」。

司葉子の恋人に宝田明、同僚に白川由美。
医者の内田朝雄にはまだちょいと毛があり。

杉村春子と遠藤辰雄の「オバオジ」に東郷晴子。
農民の笠智衆と望月優子の夫婦は火葬場のそばでカラスの数や煙で「死人の有無」を確かめたりもする。

当時も今思っても豪華キャスト。
ただしその豪華さに比べると映画の内容はそれほどでもなく。

食事のシーンで珍しくキャビアが出たりするあたり
小津作品としては「本調子」でない感じが濃厚。
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「貧しさ」について

2011-11-21 02:40:15 | Weblog
快晴。風強し。

ほぼ引きこもりな生活を送る。
自転車でイオンに買い物に行っただけでそれ以外は外に出ず。

レジ前でひとり買い物カゴをカートに乗せていない自分に気付く、
それで不便を感じたわけではないのだけれど。

なぜか借りたDVDは観る気にならず
ダラダラとTVをハシゴする。

「ラッシュアワー3」には工藤由貴と真田広之が出ていた。
ジャッキー・チェンのアクションの衰えと笑えないギャグの数々を確認する。

普段の放送時間より少しだけ延長していた模様。
それなら恒例のNGシーンを放映するべきだと思うのだけれどそれもなく。

気分は「廃人」でひたすらダラダラする。
もっとも普段はそれほど忙しい毎日を送ってはいない。

おそらく「休日」というのが苦手なのだろう。
身に付いた「貧乏性」のせいだとしておく。

マル激のNコメを観る。

「予防原則」というものを理解しない裁判官がいることを知る。
原発推進派の東大の田中という教授の無茶苦茶さも。

「莫迦」であることが「罪」を作る格好の事例か。
「信じられない現実」を受け入れるよりなく。

やはり「いいもの」に触れていないと
生きる気力が失われる。

明日からまたそうすることにしよう。
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「好ましい関係」について

2011-11-20 01:45:21 | Weblog
雨。夜になって止む。

仕事場の同僚と飲む。

見栄えは悪くないけれど中身はほぼオヤジな若者が盛り上げてくれる。
いちおう「卒業」する女子の同僚が主賓の会。

同僚のお尻が魅力的だという彼に一同爆笑。
「見てるだけだから大丈夫」とのたまうのだけれど。

要はいわゆる「男の本音」を代表して発言したような格好。
顔にも乳にも同様のリアクションをするのが面白くあけっぴろげなのがいいところ。

その一方で別の女子の「タレコミ」から上司がよからぬことをあれこれ仕掛けていたことが発覚する。
個人的には初対面からあやしい雰囲気が濃厚だったのでなるほどそうきたかという感じ。

元々人とコミュニケーションがまともに取れないタイプなので
さもあらんとうなずくばかり。

とりあえず主賓が「久しぶりに大笑いした」と言ってくれてホッとする。
今後も楽しく飲みたいもの。

本が切れたので古本屋で小林信彦「私説東京放浪記」を買って再読。

「東京原人」にとっては「田舎」からやってきて
やたら「一旗上げよう」とあれこれ「町殺し」をする輩は迷惑なだけだと。

「地元」の「どうしようもなさ」に懲りて
ついつい「手軽」に「都会」で楽しみたい気持ちもわからないではない。

がしかし。

彼ら彼女らはわかっていない。
「同じ土地に暮らすからこそ通じ合う喜び」を。

良くも悪くも「長いお付き合い」をすることによって
まるで「理想的な夫婦」のように「痒いところに手が届く」ことに。

そういった場所があるからこそ
互いに本気で「ありがとう」と思える暮らしが出来ることを。

その「当たり前」が失われて久しい現在
それぞれが「地元」を「活性化」する「ゲーム」をしたら楽しそうだと思われるが如何。

おそらくはそこで耕された「土壌」なら
少々の「半端者」を受け入れられる余裕も出来る気がするから。
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「ある種の不幸」について

2011-11-19 02:29:30 | Weblog
くもり。深夜にポツポツ降る。

仮に「正解」のある課題をクリアしなければならない立場に置かれたとしよう。

「原理」を理解してから対処するタイプと
理解は横に置いてとりあえずクリアすべき量をこなすタイプがある。

前者はある程度「応用」がきく。
なぜなら「原理」という「不動のルール」に従えばパターン認識ができるから。

その結果「量」そのものはさほどこなさなくても
いろんな場合に対応できる。

一方後者は前者がやったことを
あくまで量をこなすことで達成しようとする。

「原理」が見えないまま
新しい問題に出会うたびにさらにクリアしなければならない問題が増えることに。

前者は課題を「縮めている」のに対し
後者はむしろ課題を「広げている」ことになるわけで。

要は「ゴール」が見えやすい前者と見えにくい後者の違い。

「正解」のある問題を解くためには前者が有利になるのだけれど
どうしても後者のようにしか対処できない人々がいる。

彼ら彼女らは終わらせるべき量の多さにうんざりすることになり
「体力次第」で結果は変わる。

もちろん「正解のない」場合は
いずれの方法も採用するしかなくなるのだが。

興味深いのは後者のタイプが
どれほど疲れようともあくまで「自分の方法」にこだわること。

その方法によってある程度「成功」した過去をもつと
いっそうそれにすがりついてしまう「悪循環」がなせる業。

「ゴール」が見えないゆえの不安は高まり
かといって今までとは違う方法を採り入れることも出来ずに。

やがて「自明なこと」の「自明さ」までがいたずらに疑われもしてきて
彼ら彼女らは絶望の果てに「幽体離脱=魂を飛ばす」ことを身に付ける。

あなたの身近な人々の中にも
そのような性質を持っている人が少なくないはずなので確認していただきたい。

ちなみに彼ら彼女らの特徴は「常に疲れていること」。

個人的にはそうした人々のことを
「別の星から地球にやってきた人」だと言うことにしている。

とはいえ実はすでに「地球は乗っ取られている」。
とりわけ「郊外」と呼ばれる地域に住んでいることが多いことも覚えておこう。
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「ロシアつながり」について

2011-11-18 02:24:04 | Weblog
晴れ。快晴。

後藤明生「小説―いかに読み、いかに書くか」を久方ぶりに再読。

「小説を書くことは読むことからはじまる」というのがいかにも著者らしく
大半の小説家に当てはまることだろう。

田山花袋の「蒲団」に対する「新しい読み方」が印象的で
その作品の評価を決定づけた中村光夫には「思い込み」があったのではと。

志賀直哉が「中学生の感想文」のようだというのも興味深い。
ここでも従来の小林秀雄の評価を「信仰」だと批判している。

小説全般については「同じように書く」ことは出来ないけれど
「方法」を見出して採り入れることはできるのだとも。

昭和五十八年(1983)に出た講談社現代新書はおそらく今では絶版なのだろう。
わが国においてはとりわけ大切にしたいタイプの「知性」を是非。

ロシア文学に親しんだ著者が
トルストイでもドストエフスキーでもなくゴーゴリだというあたりがポイント。

「外套」「鼻」「検察官」「死せる魂」「ディカーニカ近郊夜話」
「狂人日記」「タラス・ブーリバ」「ヴィイ」などあれこれ楽しめるはず。

「ヴィイ」は「妖婆 死棺の呪い」(’67)
「タラス・ブーリバ」は「隊長ブーリバ」(’62)という映画にもなっている。

以前は岩波文庫にあれこれあったはず。
現物に当たってみたい向きは古本屋巡りをするべきかそれとも別な文庫で出ているのか。

唐突に思い出したのは中村白葉訳「ロシア民話集」。
ゴーゴリとは関係ないけれどほのぼのとした楽しさがあったことだけを覚えている。
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