退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「めんどくささ」について

2012-05-30 03:42:33 | Weblog
晴れのちくもりときどき雨。最近の雨は粒が大きい。

「ised 情報社会の倫理と設計 設計篇」読了。

こちらの調子が読解に影響するのはよくあることで
とりあえずアンテナに引っかかるところだけに反応して終わる。

それにしても「肝心なのは飲み会」だというコミュニケーションの在り方よ。
このスタイルはどうやらどこでも同じことらしい。

アルコールによる「意識変成」が「境界」を溶かすのに便利なのは毎日経験済み。
ただしそこに溺れると「中毒」になるので「適度なところ」で収めるのがよさそう。

要は今どき誰しもが「鎧」を身に付けていることからすると
「偏見」なく「付き合う」ためにはそれを「脱ぐ」必要があるのも確かということか。

いずれにせよ「思いがけない補助線」を引くことは
図形問題を解くためだけのものではない模様。

そこでのコミュニケーションがどういう形で行われようとも
「火花が散る」ことで新たな「エネルギー」が生まれることにもなるという仕組み。

「よりよい社会」のイメージは細かい点を除けばだいたい「同じ」になる。
いたずらに「消耗」することなく互いの「アイデア」を生かせれば幸せ。

とはいえ繰り返すが「未来の大人たち」のことを思うと
そもそも「まともなコミュニケーションが不可能になるかも」という思いがなくもない。

いやすでにそうなっているのか。
おそらくそうだろう。

できるだけ「チャンネル」は開いているつもりではいるものの
ついつい「限られた世界」に「安住」しがち。

元々「人見知り」なのだと役に立たない言い訳をしておく。
というより「めんどくさがり」と言う方が実情には合っているということで。

互いに「魅力のある人」でいたいものだなどと
お茶を濁して終わる。


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「名付け」について

2012-05-29 03:30:14 | Weblog
晴れ。なぜか時折雨粒もポツリ。

「ised 情報社会の倫理と設計 設計篇」もあと少し。

「固有名」がないと想像力を働かせにくいというのは
サル研究者がそれぞれの個体に名前を付けることからもわかる。

ただし「名付け」はわれわれの「認識の基本」であるはずなので
そのことを「特筆」する理由はないようにも思われるのだが。

ある「固有名」に何らかの「責任」を負わせてまとめることで
「そうでなかったらという可能性を見出す」というのは面白いけれど。

ところで。

ある時期以降子どもの名前に「親の趣味」を乗せすぎる傾向がうかがえる。
もっとシンプルな名前の方が個人的には好ましい。

「子どもには子どもの人生がある」のだから
いたずらに「親の勝手な思い」を「背負わせる」のはいかがなものか。

「子どもの幸福」を願って字画を調べたりするあたりはまだかわいいとして。

もっとも子どもに名前を付けるのは結局親なので
考えてみれば「親の思い」を「削除」することは不可能だったりもする。

結果としてその「思い」が子どもから好意的に受け止められ
「自分の名前」に「歴史」など感じてもらえるようであればオーケー。
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「勝手な思い」について

2012-05-28 02:36:37 | Weblog
晴れ。今日も日差しが熱い。

一昨日は飲み疲れ、昨日は仕事疲れで寝てしまう。
順当な「体力の衰え」か。

目覚めると下の妹の子どもたちがいて
なぜか少林寺拳法の大会を見に行くことになる。

全体にほのぼのとダラダラする雰囲気で
朝からこれに付き合ったらさぞめんどくさいだろうと思う。

コメダでコーヒーを飲んで帰宅。
子ども相手に疲れた母親のために夕食用の寿司を買う。

これまたTVで全日本女子のバレーが見たいという彼女に付き合い
早めの夕食をすませて観戦。

エース木村の「弱気」とセッター竹下の「限界」を感じる。
とりわけ後者についてあれこれ。

かつて「身長のなさ」を批判されもした彼女は「世界レベルのトス」を維持してきたのだが
今回はそこにやや「翳り」が見えた気がする。

サーブレシーブを崩されるせいで「速攻」がしにくいのはわかるとして
「体勢十分」の時の「攻撃のバリエーション」がいささか少ないという印象。

今日の試合はセンター荒木の調子が前半相当よかったにもかかわらず
その後なぜか調子の悪いエース木村にボールを集めての「失敗」が目立った。

自身のサーブミスの多さも含めて
「連戦の疲れ」による「感覚のずれ」のせいではないかと思う。

彼女にとって「最後の機会」でもあるので
「らしいトスさばき」を見たい者として敢えて言っておく。

もっとも彼女を生かすためには「控えのセッター」をうまく使うことが監督の務めだと思うのだが如何。
その「存在」がどこにも感じられないのは疑問で。

とはいえ選手全体に「心が弱そうな」印象も強い。
いたずらに過去を持ち上げるつもりはないけれどモントリオールのエース白井の「無表情ぶり」を忘れずに。

その意味で「今風」なのは新鍋の「とぼけた表情」。
彼女が得点を重ねたら「いつもと違うもの」が出そうな気もする。

いずれ「無責任な素人の感想」であり「勝手な願望」なので
「プロによる解説」を望みたいところ。

逆に言うなら「素人」でもこの程度のことは「わかるつもり」。
その上でなるほど「プロ」だと思わせてもらえれば幸い。

むしろ「ド素人が」と言われてみたかったり。
「詳細」を知る向きには是非お願いしたい。
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「あいまいな境界」について

2012-05-25 03:12:41 | Weblog
くもりときどき晴れ。日差しが背中に熱い。

「ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇」読了。

津田大介の感想にもあるように現在の問題がほぼ全部出されている印象。
いよいよ「設計篇」が楽しみな内容で満腹。

それにしてもこの「討議」が本になってよかった。
ネットでは長い文章を読む気にはなりにくいので。

個人的には図書館から借りてくるものが多く
著者もしくは編者に「貢献」できていないのがいささか申し訳ないところ。

「いいもの」にお金を払うことはある種の「投票」でも「寄付」でもあるのだから
その程度の「経済的ゆとり」は持ちたいもの。

とはいえAKB48の「商品」のように
「貨幣」で「票数」が買えるのはどうかと思う。

基本は「一人一票」でないと「平等」が確保できない。
まるで「免罪符」の「逆バージョン」のようで到底容認しがたいのだが如何。

最近では「コンプガチャ」が禁止されることになったけれど
「ケータイの使い過ぎ」同様「子ども相手」と知りつつ「利益」を得ようとするのもどうか。

たとえば「リアル」で不全感に満ちた子どもが
「ゲームの世界」で「地位=承認」を得ることによって手に入れる「自尊心」もある。

そこに付け込むのはいかにも「あこぎ」。
昔懐かしい「仮面ライダースナックに入っていたカード」も「原理」は同じ。

あるいは「ガチャガチャ」で「レアアイテム」を手に入れようとすれば
一定の金額を使うよりなく。

がしかし。

ここで「キャバクラ通い」や「ホストクラブ通い」を思い出すと
結局何の変りもないことをしていることに気付く。

それが「商売」として成立するならば
問題は「対象が子どもであること」になるのか。

うーむ、ここで「ルール」を決めるのはやはり「法」になるかも。
少なくとも「子ども」に「愚行権」を認めるのは無理がありそう。

いたずらに年齢を重ねただけの「子ども」も「法律上」は「大人」であり
いまだに「オレオレ詐欺」に引っかかる「大人」もいる。

「弱者」というかたちでまとめた彼ら彼女らを「搾取」するなという「倫理」を「法」にする一方
実は「被害者にも非がある」という考えもなきにしもあらず。

ややこしいこと夥しいので
誰もが好む「白黒」は付けられそうにない。
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「『間』で思うことについて

2012-05-24 03:39:33 | Weblog
晴れのちくもり。おだやか。

「ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇」を読み進める。

東浩紀の「司会ぶり」が圧倒的。
今さらながら「頭のよさ」を再認識する。

なるほどこれだと「朝生」の「レベル」はツライ。
「メンバーの人選」も従来のものとは違って新鮮。

「ルール=コード」の在り方を見極めるためと
「工学的処置」の「可能性」を同じく見極めるための「配慮」がなかなか。

そろそろ終わりに近づいてきたので
「とりあえずの結論」がどのようなものかが非常に気になるところであり楽しみでもある。

その一方で。

何度も繰り返し書いていることだけれど
「日本語読解能力」に欠ける人々のことを思う。

彼ら彼女らの「基準」を「普通」だとすれば
こちらはむしろ「異常」とされることになり。

「自分の理解のスピード以上の速さ」で活字を読んでいる人々も少なくなく
「視界」も「全体」をとらえられず「一部が欠落している」というのがもはや「常識」だったり。

「アイデンティティー=自分らしさ」を過剰に「非難」された人々は
それだからこそさらにいっそう「自分らしさ」にすがる。

もっとも問答無用に「アイデンティティー」が重要なかと言われればそうでもなく
とはいえ「アインデンティティーの使い分け」を器用にこなすだけの「体力」もなく。

そこで浮かび上がるのが「自分より下だと思われる存在」と
本来は「広い」はずの「世界」に対する「視野狭窄」。

個人的に語りたいのは「理想」なのだが
「身近な現実の貧しさ」についつい引きずられることになりがち。

要は「上を向いて歩こう」。

「めんどくさいから今のままでいい」という態度もわからなくはないけれど
「世界の広さ」を知ることのできる「身体づくり」が可能な間になんとかしてもらいたい気持ちもある。

さらにはそれが「自分のこと」だと思えれば幸い。
同じ「ダシ」にするなら「他人の味」を生かさなくては意味がないのも同様に。

そうした後でこそ「自分の旨味」も出ようというもの。
「美男美女」より「味のある顔」に魅力を感じがちな自分の「思い込み」やいかに。

それぞれの「評価」についてはきちんと対応したい。
ただしその「評価」そのものがあまりなかったりするのでいささか残念ではある。
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「『さげぽよ=倫理』と『あげぽよ=設計』」について

2012-05-23 02:49:42 | Weblog
くもり一時雨。傘はなしで済ます。

東浩紀・濱中智史編「ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇」を途中まで読む。

今から7、8年前の「議論」はこれまでのところあれこれ興味深い内容。
「設計篇」も一緒に借りてきたので味わえるだけじっくり味わいたい。

とりあえず返却期限までの2週間は「刺激」がもらえそう。
もっともこちらがそのすべてに「歯が立つ」かどうかは微妙だけれど。

ある種の「理想的な話し合いの場」を見るようで
いくぶんうらやましい気もしないではなく。

スーツ姿でショッキングピンクの大きな本を抱えた男を見たらご注意あれ。
おそらく彼は周囲を全く気にしていないはずなので「粗相」があったらすまんということで。

さて。

職場で「春はあげぽよ」と若い男の同僚が話題に合わせて言ったところ
「ツボ」にはまったらしくひとりの若い女の同僚が笑いこける。

その姿を見て自分を含む周囲も笑うことしきり。
むしろ彼女の姿の方がよほど面白く。

本人曰く「清少納言があげぽよだなんて」という「ギャップ」が響いた模様。
橋本治による「枕草子」を知っていれば案外それが「実体に近い」とも思えるはずだが。

彼女の「想像力の方向」は特に「おかしい」わけではないものの
それが「リア充」でなく「ソラ充=非リア充ぶり」を思わせて。

ちょいと「哀しさ」も感じさせるという感想は古いのだろう。
「幸せ」に「次元」は関係ないことではある。

いずれ楽しく生きてもらいたいところ。
それを支える「経済基盤」も含めて。
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「よからぬこと」について

2012-05-22 03:16:44 | Weblog
晴れときどきくもり。金環日食は見ない。

宇野常寛・更科修一郎「批評のジェノサイズ サブカルチャー最終審判」を読む。

各分野の「劣化の現状」についてのあれこれ。
具体的な詳細については何も知らないものの「おそらくそうだろう」と思っておく。

身近にいる若者をスケッチしてみることにしよう。

とりあえず彼は「意味不明なルール」に従い
それは「決して変えることができない」という「前提」の下にいる。

何事かを指摘すると「その通り」と言葉では受け入れるものの
「行動」は一切変わらない。

さらにその事実を指摘すると「開き直る」もしくは一時的に「噴き上がる」。
繰り返すがその後も「行動」は変わらないまま。

そして必ず「自分より下にいる者」を持ち出して「あいつよりはマシだ」とのたまう。
その「あいつ」とは普段じゃれ合っている仲で。

面白いのは「行動」は全く変わらないのに毎回のように「変わる」という「宣言」をすること。

「それなりのことはしている」という無根拠な「自負」もある模様。
たとえば「ジャニーズ系やAKB48は好きじゃない」といった発言で何事かを言ったつもりになってもいたり。

彼が「平均的な現代の若者」だとすると
あとは「推して知るべし」ということになる。

もちろん相当に「大雑把」であることは承知の上。
「平均的な人物」など存在しないことも同様に。

要はこちらからすれば「圧倒的に貧しい人々」が「普通」なのかもしれないという次第。
彼にはまだ「未来」があるとはいえ「明るさ」より「暗さ」をついつい感じてしまったりもする。
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「ひとり上手」について

2012-05-21 03:24:55 | Weblog
くもり。早足で歩くと汗ばむ。

昨夜はソウルバーへ行く。
のんびり飲みたいのだけれど「諸般の事情」によりそうもいかず。

すきっ腹にジンが効くのもひと月ぶり。
激辛ウインナーとあんかけ豆腐をそそくさと食べて帰宅。

ちょいと飲み直してあれこれ片付けている間に爆睡。
朝方PCの電源を切ることになる。

店で始めたランチはそこそこな模様。
来客に女子が多いのは普通か。

大学生によるパーティー予約が入ったのは好ましい。
こちらももっと貢献できればいいのだが今のところショボい限りで情けなく。

これも「子どもと老人」にのみ「人気」があるせいかも。
もっと「外向的な性格」ならよかったのにと思いつつ。

そういえば先日若い知り合いに「表情が変わらない」と言われたのを思い出す。
とりあえず「仮面をかぶっているんだ」と答えておいた。

学生時代にも同様のことを言われた記憶がある。
要は「成長していない」ということだろう。

それなりの「モノ」は持っているつもりではあるものの
それを出すかどうかを「ご縁」にまかせているのがいけないのか。

「何か」を感じさせてくれる相手でないとなんだかめんどくさいというのは
ちょいと「偉そう」でもある。

これも一種の「ひきこもり」と思えばわかりやすい。

各方面から「めんどくせー」という声が聞こえてきそう。
そうです、あたしがめんどくさいオジサンです。

とりあえず仕事はきっちりするタイプなので
そこんとこよろしく。

聞かれてもいないことに答えているようでは
大してない「先」も危ぶまれようというもの。

いやはや。

「自家中毒」には気をつけていきたい。
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「いずれ」ということについて

2012-05-19 03:04:31 | Weblog
晴れ。また風強し。

「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」読了。

後半はたとえばひと口に「女中」と言っても
「お嬢様の訓練」から「飯炊き役」までさまざまな「身分」があったことなどについて。

やがて「百貨店の店員」などの新たな職業の登場によって
「素人同士の開放的な付き合い」が減り「玄人との金銭を伴う付き合い」が増えたのが面白い。

そこには男女の仲が「色事」から「恋愛」へとシフトした影響もあるのだろう。
「土着的おおらかさ」から「近代的情熱」へとでも言ったらいいのか。

「明治生まれの男」にとってそれは「よき時代の喪失」だとみなされたのだけれど
他に「体験した者」がいないので肯定も否定もしにくいところではある。

ますます「窮屈」になりつつある現代からすれば
「そんな時代もあったのか」という意味で興味をそそられることは間違いない。

一種の「浪花節」だと思って読むのが適当か。
「講談・浪曲」がほぼ姿を消した時代に「語りの芸」を知るのも悪くないはず。

かつて「庶民の常識」を支えていたものが今やすっかり「失われたもの」に。
もっとも「文化」に限らず「栄枯盛衰」はあらゆるものを貫く「基本」ではある。

「夏草や つわものどもが 夢の跡」

芭蕉の句でわれわれにはお馴染みの感覚であり
やたら「長大な衰亡」を記録する西洋人に比べ簡潔で的確なのが好ましい。

「肉食系」であろうと「草食系」であろうと
エネルギー消費の膨大さにおいてわれわれは「現代の恐竜」でもある。

いずれ「滅びる」ならせめて「美学」をと言いたいところだが
その種の「ロマンチック」は共有されなくなって久しい。
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「ありえないと思えるような世界」について

2012-05-18 03:09:00 | Weblog
晴れのち雨。帰りにちょいと濡れる。

赤松啓介「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」を少しだけ読む。

著者はそもそも反戦運動をしていたが
誰も「反旗」を揚げないので当時の共産党と関わりを持った模様。

その後行商しながら各地の風俗調査を行ったらしい。
生き生きした会話を挟んだ文章は楽しく読める。

「官僚」柳田國男に対する反発がかなり強く
彼が「下世話な題材」を嫌うあまり「現実」を無視していると主張している。

自身の経験を含めかつての「性体験のおおらかさ」をよしとしていて
「現代の性教育」など「ちゃんちゃら可笑しい」といった風情。

貧しい中厳しい労働を繰り返すよりない生活をしていると
大した「娯楽」もなければ「元手」のかからない「遊び」に走るのは「人の常」。

「産業の近代化」や「倫理」とともにそれらが「商売」にされるのを目撃した著者は
いずれも「虚構=ウソ」にすぎないと憤慨したのだろう。

現在でもたとえば「一夫一婦制」もあれば「一夫多妻制」もあり
どちらかが「無条件にいい」わけではない。

「一妻多夫制」があるかどうかは知らないけれど
それが「無条件に悪い」わけでもなく。

「誰も不幸にならないかたち」があれば一番いいのは誰もが思うところ。
ただし互いの「ルール」は「寛容さ」を失わせやすいものでもあり。

理屈の上で「いい」と思っていたことが実はそうでもなく
振り返れば案外「古い道徳の持ち主」であるのもよくあることで。

おそらくそこに「相手を選ぶ」という「作業」がある以上
なんらかの「基準」による「優劣」はどうしても生まれそう。

「あるルールの優先」はそれを好まない者たちやそれによって「不利益」を被る者たちを
自動的に「隅に追いやる」ことになるし。

いやはや「人間関係」はむずかしい。

「共同体」と同様に「小さい範囲」でそれぞれが好きにして
そのいずれもが「共存」できるようなパターンがいいのか。

いっそ引きこもって「外界」との接触を断つという手段もなくはない。

唐突に思い出すのは映画監督増村保造の「世界」。
興味のある向きは参考までに。
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