退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

3連休その2

2018-05-31 02:13:22 | Weblog
雨。午後から夕方以降に止む。

「早起き」して母親の病院へ行く。

案外荷物が多いものの持ち運べない量ではなく。
「近所の人」を気にするのがいささか謎。

一階のカフェでコーヒーを飲んだ後タクシーを呼ぶ。
ただしこのカフェ、病人にはあまり「親切」でないような。

何しろ全部スツールだもの。
「長居」してほしくない理由などあるのだろうか。

とりあえずこれにて「退院完了」。

その後ちょいと出かける。

あまり降りたことのない地下鉄の駅で喫茶店を探すが結局「コメダ」に。
かなり盛況でカウンターに座らされる。

佐藤克文「巨大翼竜は飛べたのか」を読む。

「生き物に直接装置を付ける」バイオロギングの結果。
物理と数学でデータからかなりの「新たな発見」が出来ることを知る。

著者は「情熱大陸」にも出た模様。
「震災前」の著作なのでその後研究所はどうなったのか気になる一方。

なかなかのキャラクターの持ち主。
「楽しく研究している」さまが素敵。

早く帰宅しても仕方がないと思ったのでいつもの古本屋に寄る。

久世光彦「ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング」を100円で買って読む。
「歌謡曲の歴史」をたどるにはここまで来ないといけない模様。

「昭和のセンチメンタル」をどう受け取るかがポイントか。
知っている曲の数々はもちろんのこと知らない曲をあれこれ教えてもらった感じ。

「いつもの時間」に帰宅したら母親の友人が来ていて。
今宵の夕食は彼女が持ってきてくれたもので済ます。

久方ぶりに「空腹感」を覚えコメダでタマゴサンドを食べた後ゆえ
ゴーヤやゼンマイの煮物などで「ちょうどいい感じ」になる。

洗い物や干し物をした後で二階へ。

しばしゴソゴソして飲み始める。
そう言えばここ数十年毎日飲んでいるのか。

もっとも身体の反応に任せた飲み方なので今のところ「健康被害」はなく。
量もそれほどではないつもり。

このところ飲み会もないのでむしろ「おだやか」だと言っていいほど。
ちょうどボトルがなくなるところなのでそこまでは飲む予定。

明日はまた映画でも観にいくか。
何とも「呑気な暮らし」ではある。
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3連休その1

2018-05-30 02:27:29 | Weblog
くもり。だったような。

昼過ぎに入院中の母親から電話。

「明日退院するから」と。
当初は明後日のはずだったのだがいやはや。

傷口の絆創膏の貼り換えについて医者からレクチャーがあるとのこと。
やや「早起き」することに。

その後とりあえず出かける。

丸善でしばし新刊本を見るもののあまりピンと来ず買わずじまい。
持って出た海野和男「虫の目になってみた」をコメダで読む。

わざわざ喫煙席に入ったのに肝心の煙草を買い忘れる始末。
少々の「禁煙」には慣れているのでそのまま読了。

カラー写真がたくさんあるのがありがたい。
カマキリが獲物を捕らえる瞬間などが素敵。

「仲間とかけ離れた」ベーツ型擬態と「毒虫として似た」ミューラー型擬態ふたたび。
「ナナフシ」が英語で「ウォーキングスティック」と呼ばれるのにふむふむ。

しばし時間を忘れて楽しむ。

帰宅後近所のシネコンに出かけるため自転車の空気を入れ直す。
「カチンカチン」にしてOK。

チケットを買ってまた喫茶店で時間をつぶし上映時間が迫る頃。

母親から再び電話が。
「治療費の在り処」についてのあれこれ。

あわてて支払うこともないだろうにと思いつつ彼女の「性格」を思い出す。
「はいはい」と受け入れてスクリーンへ。

ウェス・アンダーソン「犬ヶ島」(’18)を観る。

かつて「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(’01)を観たことがあり
深夜のTVで「ダージリン急行」(’07)を垣間見て心惹かれた監督の作品。

何とも「不思議な世界」を見せてくれてありがとうといった感じ。
もっともそれが「わが国」であったりもするのだけれど。

淡々とした絵の中で展開する物語の「豊富さ」に注目。
「養子」「悪玉による支配と陰謀」「反体制運動」「兄弟」あるいは「逆転」など。

各分野に渉る豪華なキャストがこの種の「日米関係の豊かさ」を示しているような。
映像としては「後姿の犬の毛」を黒と紫で光るように描いたシーンが印象に残った次第。

英語と日本語が同時に出るのもよく考えれば珍しいこと。
それはエンドロールに至るまで続き。

音楽については「七人の侍のテーマ」と暁テル子の「東京シューシャインボーイ」を確認。
もっとしっかり見たかったがこれだけ。

「飼われること」の意味をあらためて考えたいもの。
かつて「夢の島」と呼ばれた「ゴミの島」があったことも思い出そう。

「黒澤印」があちこちにあり。
この「好ましい日米関係」は大事にしたいと思うことしきり。

そうかクリント・イーストウッドに続く「理解者」はウェス・アンダーソンか。
できればわれわれも「不思議なアメリカ」を描いて評価されたいところ。

あっちがこんなに知っていてくれるのに
こっちが何も知らないのでは申し訳ないだろう。

つまり。

「圧倒的な贈与」はこうした「素敵な関係」を生み出す元であること。
こうした「交換もしくは交歓」こそが「コミュニケーションの成果」のはず。

何やら勝手に「希望」を見出して興奮している次第。
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「3連休前日」について

2018-05-29 02:08:49 | Weblog
『晴れ。だったはず。

マーク・ピーターセン「実践 日本人の英語」を読む。

母国語を「そのまま英語にすること」の失敗例があれこれ。
「言語の背後にある違い」を意識しないままに。

ここでも「他者をそのまま受け入れること」ができない事実が。
具体的な例文をもっと参考にすべきか。

要は「そういう風には言わない」ということ。
そしてその種の「まちがい」を行う者たちは常に母国語の発想に基づいていて。

知り合いの帰国子女は「漢字は全然わからない」と言った。

彼女が「どれほど英語を理解しているのか」は不明だけれど
おそらくは「日常会話程度」に過ぎず。

その上今後は日本で暮らすのだから漢字を知らないことはマイナスなはず。
残念ながら相当に苦労するだろう。

よくも悪くも「現実」にぶつかって知るしかない。
それでも彼女は「現実の方が間違っている」と言うかもしれず。

できれば楽しく暮らしてくれと思うのみ。
「余計なお世話」であれば幸い。

いっそ「外国人」になってしまえばむしろ「治外法権」でOK。
そうした存在を「許容」してくれる場所を見つけていただきたいもの。

「わが国という特殊な磁場」に負けないように。
もっともそのために必要なのは「魅力」であることも忘れずに。

さて。

欧米で「論理」が重視されるのは「神の視線」を意識するから。
それがないわが国では「職人の意識」がそれに代わるものだと思いたい。

「素晴らしいものの圧倒的な力」を知れば「いい加減なこと」は出来なくなる仕組み。
その域に近づくもしくはそれに対して恥ずかしくないことをするのが「基本」だとなれば。

がしかし。

この種の「倫理」は失われて久しいのも確かで。
「どうしようもない貧しさにあふれる現実」よ。

日々の生活に追われるだけでは「素晴らしいもの」に触れようもなく。
とはいえいたずらな「視野狭窄」に陥る愚は避けたいもの。』でまたまた寝る。
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「ジンのせいと『旨味』の抜けた宇宙論あるいは冷房に左右される現実と『劣化』がもたらす現実」について

2018-05-28 01:57:08 | Weblog
晴れ。起きてすぐに洗濯する。

夕べの記憶がかなり曖昧。

久方ぶりに帰宅後シャワーを浴びたことまでは明確なのだが。
二階に上がって飲み直した以降はいささか空白がある。

もちろんブログを書いたのは覚えている。
ただしいつ眠ったのかは微妙。

ほぼひと月ぶりのジンが沁みたせいか。
老舗バーのマスターがニューボトルの代金を取るのを忘れメールなども。

松原隆彦「宇宙はどうして始まったのか」を読む。

敢えて数式や複雑な部分を取り除いた上での内容。
それが面白いかと言われるとそうでもなかったり。

タイトルに関する科学者の現状はわかったものの。
「センス・オブ・ワンダー」はあまり感じずに終わる。

それより気になったのは喫茶店の冷房。

暑そうだったので長袖シャツのみで出かけたら冷えること夥しく。
本書を読み終えるまで結局二軒ハシゴすることに。

現在の自分の身体だと30分が限界な模様。
鼻をすすりながら帰宅。

その後上の妹夫婦と近所の一刻堂に行く。

味噌ラーメンとチャーハンに餃子。
高校時代の部活帰りに「チャーラー」を食べていたことを思い出す。

今となってはかなりへヴィー。
たまのことだからいいけれど。

マル激を観る。

今回は来月から始まる「司法取引」について。

「推定無罪の原則」など「夢のまた夢」。
むしろわが国の民度は「推定有罪」を支持していたり。

ゲストの弁護士森炎の「現状認識」に神保宮台ともに撃沈の図。
「自らの利益」のために「嘘をつくこと」が「合法」になるパラダイムシフトよ。

「死刑を伴わない軽い事例だったら冤罪が増えても仕方ないじゃないの」
検察は過去の失敗も顧みずそう思っているらしい。

もはや「正義」は「マニアックな好み」でしかないと。
そして「権力の介入」がないとむしろ「生きられない」と。

なるほど西部邁が死にたくなる理由がわかろうというもの。
「ひき逃げ野郎」が実は「平均的な国民」だと思えばいいか。

かくして「劣化」はさらに進むのだろう。
「自分が巻き込まれないと気付かない現実」にぶつかるまで。

元々「趣味」で生きていれば好きにするのみ。
他人の動向に左右されるつもりはないだけ。
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「久方ぶりの老舗バーあるいは四半世紀たっても『世界』と戦えないサッカー」について

2018-05-27 00:57:11 | Weblog
晴れ。やや蒸す。

ひと月ぶりの老舗バー。

今宵も客は少なく宝塚雪組公演を観る。
トップの望海風斗と娘役の真彩希帆にはいささか魅力を感じたものの。

全体に歌の上手いキャストが少なく踊りも一定のレベルを超えていない印象。
音楽の使い方も微妙で歌舞伎同様に「新たな客層」を採り入れるための方策か。

「幕末太陽伝」をミュージカル仕立てにした着想はグッド。
とはいえそれぞれのシークエンスに問答無用の魅力はなく。

唯一「新入生のフレンチカンカンぶり」がフレッシュ。
オリジナルと比べて数が多いだけに迫力を増すことに。

「完訳 ファーブル昆虫記10」読了。

読み終わるのがもったいない感じ。
やはり再読することになるのだと思うことしきり。

何気なく読み進めて気持ちのいい文章。
あらためてその「希少さ」を思い出す。

それとは別に。

Jリーグ発足は93年で四半世紀が過ぎたけれど。
その他のスポーツでは「世界レベル」に達しているのになぜサッカーは。

個人として素晴らしいのはおそらくセルティック時代の中村俊輔。
それ以外にはみんなそこそこの活躍しかしていず。

一時期レベルアップしたように見えたがその後は「逆戻り」。
「後ろ向きのパス回し」のどうしようもなさは素人が見てもわかる。

「戦術を共有できない」のも謎。
監督が誰になろうと同じことのはず。

このザマで「世界と戦うこと」が可能になるはずもなく。
何がそれを「妨げている」のかを明らかにする必要がある模様。

「現実」に対応できないのは何故かといえば
どうでもいい「国内事情」を優先しているからではないのか。

サッカーの世界でも「外務省並み」の「使い分け」があるのだとしたら残念。
本気で「世界と向き合うこと」が出来れば自動的に結果は出るのだから。
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「『洗濯日和』と母親の退院予定あるいは『残念なこと』」について

2018-05-26 02:07:23 | Weblog
快晴。30度超え。

ちょいと「早起き」して洗濯。

いかにもな「洗濯日和」を逃す手はないと。
干しっぱなしにして帰宅後取り入れる。

今宵は久方ぶりに肉を焼く。
コンビニで買ったサラダとスープを加えての夕食。

ガツガツ食べて洗いものを済ませ乾いた洗濯物を畳む。
明日の朝はパン食の予定。

病院に母親を見舞う。

今月中に退院することになりそう。
内臓その他の器官に問題はないのでまずは順調か。

神経がまだ十分につながりを回復していないのであとは「日にち薬」。
耳の裏の辺りからあごの下まである傷口はスカーフで隠すことに。

「完訳 ファーブル昆虫記10」を読み継ぐ。

何だかもったいないような気がして
図書館から借りてきた本の中の最後を飾ることにした次第。

相変わらずの実験三昧。
明日読了予定。

深夜NHKの「クローズアップ現代」の再放送を観る。

「万引き家族」でカンヌのパルムドールを得た是枝監督を採り上げた回。
リリー・フランキーと「手紙のやりとり」があったことにふむふむ。

ただ残念ながらアナウンサー武田真一の質問は「的外れ」なものが多く。
彼が「映画好き」ではないことが浮き彫りになる結果。

「賞を取ったこと」より作品の具体的な部分について聞かないとどうにも。
この種の「称賛」はむしろ監督を疲れさせるものだと言っておく。

そのことに気付かない「鈍感さ」はわが国ではよくあることだったり。
「インタビュアー」が本来どういう存在かも考えずただ質問するだけではダメ。

その一方。

「柳楽優弥二世」の「美少年」城桧吏とアレルギーのCMにも出ている佐々木みゆが印象に残る。
やはり監督は子どもの選び方がうまい。

もちろん作品は未見なので詳細はまだ不明。
いずれ確認するつもりではある。

さて。

いつもより酒の回りが早く身体が寝たがっている模様。
当然のことながら「身体の要求に従う」。
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「何度でも寝てしまう結果」について

2018-05-25 02:15:28 | Weblog
『快晴。上着を持って出かける。

昨日は急に眠くなって寝る。

途中で一回は起きたものの身体にまかせて。
疲れているつもりはなかったのにそんなことに。

酒井シヅ「病が語る日本史」を読む。

縄文時代の骨や遺物あるいは「日本書紀」などの古文書からわかること。
「病気の原因」がわからなければ「祈るしかなかった」のが当時。

「何も知らないこと」の怖さをあらためて。
もっとも現在でもその種のことがあるのは「世界の複雑さ」ゆえか。

いや、違うな。

おそらくそれはわれわれの「愚かさ」のせい。
「思い通り」にしたい気持ちが「物事を見えなくする」のを忘れずに。

巽好幸「なぜ地球だけに陸と海があるのか」を読む。

きちんと寝たはずなのにドトールで読みながらウトウト。
十分に内容を理解しないまま読了したのは残念。

「対流」が維持される「構造」を持つがゆえに
地球が「安定」しているのだということを知る。

「地学の基礎」はわかっている一方
地球内部がこれほど「うまい具合」に動いているのを知ったのは初めて。

「モホロビチッチ不連続面」とかは懐かしい感じ。』でまた寝る。
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「育児の思いがけない効能もしくは趣き深い分数」について

2018-05-23 02:43:39 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

ちょいと「早起き」して洗濯。

明日以降雨らしいので。
なるほど洗濯すると天気が気になる模様。

浜屋祐子・中原淳「育児は仕事の役に立つ」を読む。

副題に「『ワンオペ育児』から『チーム育児』へ」。
「おっしゃる通り」と思っていたところ。

育児の忙しさを経験することがマネージメントや仕事の効率を上げると。
「赤ん坊もしくは幼児」と付き合うことで「現場での対処能力」も同様に。

いたずらな「長時間労働」で仕事をした気になるのはいい加減にして。
むしろ「時間内に仕事を終わらせられないこと」がマズいのだと気付きたいもの。

「生産性向上」のためにこんな「手段」があったのかと思うことしきり。
ここでも結局は「コミュニケーションの重要性」が浮かび上がる次第。

すでに「共働き家庭」が主流になっていることも忘れずに。
「専業主婦」が「贅沢」であることもあらためて。

「昭和幻想」を打ち破るためにも
若い世代には「チーム育児」に励んでいただきたい。

「困ったときには助けを求める素直さ」を大切に。
とにかく「自分ひとりで抱え込む」のがよろしくないのは確か。

その種の「関係」が各地で生まれれば
「貨幣の多寡」とは関係なく楽しく暮らせそう。

やはり「人間関係資本」が一番重要か。

それとは別に。

「割り切れないもの」を表すために発明されたのが分数。
「÷」という記号がそもそも「分数のかたち」をしているのを思い出そう。

「分数のたし算ひき算」が「分母を同じにしないとできないもの」であることは重要。
それは「共有」や「平等」を意味するのだと解釈しよう。

「かけ算わり算」については「約分」が大切にもなり。
「同じ数あるいは約数」があれば「割れる=シンプルにする」という「ルール」もあり。

とりわけ「わり算」は「逆数をかけること」だったりもする。
こうしてみると案外「趣き深いもの」のようにも思われるのだが如何。
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「むしろ『不敬』であることあるいは『不毛な衝突』」について

2018-05-22 03:08:28 | Weblog
晴れ。今日もおだやか。

青木理「日本会議の正体」を読む。

「敵」である「左翼」から手法を学んで「運動」を地道に続けた結果
現在の勢力を築いた模様。

以前と違って「左翼」がすっかり衰えたためでもあり。
「キャラバンによる活動」の成果か。

その根本には「生長の家」がある。
「揺るぎなさ」を支える「実務のプロ」椛島有三がキーマン。

ただし彼の「考え」は相当にアナクロかつ非論理的。
一方で現在の「生長の家」は安倍政権を批判したりもしているとのこと。

神社本庁が資金面を支えているのがポイント。
「一般人の賽銭」がこんな風に使われていることを忘れずに。

著者によれば彼ら彼女らの「テーマ」は以下の通り。

①天皇、皇室、天皇制の維持とその崇敬
②現行憲法とそれに象徴される戦後体制の打破

③「愛国的」な教育の推進
④「伝統的」な家族観の保守

⑤「自虐的」な歴史観の否定

「戦争に負けたことの意味」を敢えて問いたいところ。
「伝統の意味」についても同様。

「かつての左翼」が「ろくでもないもの」だとして
「それと同じ土俵で戦う右翼」も似たようなものではないのか。

いずれにも共通するのは「知性の欠如」。
「イデオロギー」に無関係な判断を下すだけの「力」は持っていたいもの。

少なくとも今上天皇のさまざまな「訪問」についてどう考えているのだろう。
その姿はどう考えても「日本会議が目指すところ」とは違うはず。

せめて「天皇ファン」なら本人の意向を大切に。
その存在を自分たちに都合よく利用するのはむしろ「不敬」だと思われるのだが如何。

さて。

互いに「ダメな者同士の衝突」は不毛。
結局それに尽きるような。

それぞれの「瑕瑾」を突き合うばかりで「本当」に辿り着こうという「意志」もなく。
なぜ「切磋琢磨」できないのかと言えば「貧しい」から。

意見や好き嫌いの違いがあるのは当然。
その上で「敵ながら天晴れ」と思える関係が作れないとどうにも。

まずは自らがもっと「襟を正すこと」。
「他人にかまっているヒマなどない」というのが「本来」。
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「母親から見た子どもと緊張感を維持させてくれる人あるいは『AIと恥ずかしさ』」について

2018-05-21 02:22:47 | Weblog
晴れ。おだやか。

母親の見舞いに行った後で図書館へ。

こちらの私服が年中ジーンズなのを気に入らないのか
ユニクロで綿パンを買えとの「お達し」が出る。

靴下と下着などもついでに買うことに。
当人は全く必要性を感じていないものの。

「石上三登志スクラップブック 日本映画ミステリ劇場」を読む。

著者の名前は以前から知っていたのだけれど著作に接するのは初めて。
幼い頃から「記録魔」だったよう。

「時代の評価」とは関係なく「自らの評価」を貫いた模様。
残念ながらこちらが観ていない作品も少なくなく。

「当時の空気」を知らない者としてはどれだけ理解できるかといえば微妙。
今となっては「こういう人がいると安心できるのになあ」という存在。

誰もが自分だけの判断に甘んじることは出来ず。
その時に「あの人はどう判断したのか」という「基準」があるのが重要なわけで。

要は「緊張感を維持させてくれる人」とでも言えばいいのか。
もちろんそこに「違い」があるのは当然のこと。

そういう存在が身近にあるのはありがたい。
そして他人からそう判断されることも同様に。

マル激を観る。

今回のテーマは「AI=人工知能」。
数学者新井紀子の「AIへの期待はむしろ人間に対する評価を貶めている」という指摘が見事。

「人間そのもの」がよくわかっていないのに
一部の能力を捉えて必要以上に評価するのはいかがなものかと。

何より現在の教育環境において「最適化」を目指すと
人間が「ショボいAI」になってしまうという視点を大切に。

それは中学生高校生らの圧倒的な「読解能力の低下」につながり。
AIには決して「文脈」が理解できない一方その種の人間が増えている怖ろしさよ。

「統計」による処理は「同じ言葉の頻出具合」を「正解」だとする。
「受動態=~される」という言葉の意味さえ理解できず。

そもそも「読解能力」に著しく欠けているのなら
すべての「文字情報」は量の多寡に関係なく意味をなさない。

さて。

このところマル激においては神保哲生の「理解力の偏向」が露わになっている感じ。
もっとも彼の姿を「自分」だと捉えるのが「真っ当」なはず。

誰にも「苦手分野」はあるだけ。
「自分がわかることあるいはわかったつもりでいること」に何の「保証」もなく。

たとえば。

アインシュタインといえば問答無用に「偉い人」だとされるものの
彼の「理論の意味」を本当に分かっているかといえばそうではないだろう。

「真価」もわからないのになぜ評価しているのか。

あるいはマル激でも採り上げられた「食べログの評価」について。
「懐石料理」を食べて「量が少ない」という人の一票も「平等」に評価され。

AIが物凄い数のデータを処理しなければ認識できないことを
われわれ人間が大した量のデータもないままかくもたやすく処理することもあり。

いやはや。

どうやら「自らの不本意」を軸に「世界をリセットする」という考えは昔から。
「黙示録」くらい魅力があればまだしも個人のそれは圧倒的に貧しく。

われわれの基本は「セカイ系」だと知れば
そこから生み出されるものが「大したもの」ではないことを肝に銘じたいところ。

たとえば「ひき逃げ事件」を思い出そう。

車を捨てて逃げてもナンバーから身元は割れるはず。
にもかかわらず逃げるのは「非合理的」でそれ以上に「卑怯」だと思いたいもの。

「恥ずかしいこと」はしたくない。
この種の「倫理」をどこから調達できるのかが課題か。
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