退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「スコール」について

2011-07-31 01:54:06 | Weblog
くもり。一日のうちにスコール二回。

吉川潮「流行歌(はやりうた) 西條八十物語」を読む。

仏文学者にして童謡・流行歌の作詞家でもあった人を
「ゴッドファーザー=名付け親」として持った作者が描いた生涯。

東京行進曲」「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「青い山脈
蘇州夜曲」「越後獅子の歌」「ゲイシャ・ワルツ」「この世の花」「王将」など。

かつての男は「妻」を「母」にして好きに生きられた模様。
もちろん今でもそういう男はいるのだろうけれど。

経済的に苦境に陥った友人柳沢の愛人である芸者小艶が
「旦那」の困窮を東京芸者の意気地で粋に助けるあたりの描写も素敵。

幼子を亡くしやがて妻にも先立たれる場面では目がうるうる。
個人的には妻も子もないものの。

女優・香川京子と縁があったことは初めて知った。
冒頭に出てくる古川緑波とのことも同様に。

八十をしつこく批判する「悪役」っぽい花村とも後に和解してしまうのだから
いささか「いい人」ばかりの「物語」に感じられるきらいはなくもないが。

何しろ著者の父親は西條八十の妻はるの三味線の師匠という関係で
「尊敬する先生」の後を追うように亡くなってしまうほどだから仕方のないこと。

著者も自覚している「惚れた弱味」がなせる業ということで納得。
あっという間に読めて読後感が爽やかなのはまるで「スコール」。
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「独我論」について

2011-07-30 01:50:43 | Weblog
晴れ。ちょいとだるいまま仕事へ。

ウィトゲンシュタイン「青色本」を読む。

訳が昔読んで面白かった大森荘蔵だったので借りてきたもの。
「家族的類似性」以外はこちらの体調のせいもあって今ひとつ。

「茶色本」というのもあるらしいけれど
今のところどうやら読まずに終わる気がする。

「自分が見ているものだけが存在する」というのが「独我論」だとして
その種の「罠」にはまり込んで抜け出せない人々が多いように思われる。

常に「自分は正しい」模様。
少なくとも「他人の意見」に耳をかたむけようとする態度は見られない。

それで「お気楽」ならそれはそれで結構なのだが
やたらに「苦しい」のだと訴えたりするからややこしい。

とりあえず「苦しい理由」と「現在の状況」などを説明してはみるものの
そこでも「自分に都合のいい解釈」しかしなかったりして。

どこまで行っても「自分という壁」が立ちはだかる。
そのことに気付いてくれればどうにかなるかもしれないけれど。

「自分が正しい」とばかり言いたがるのは
実は「自分が間違っている」ことに無意識のうちに気付いているから。

その「単純」にどこかで出会ってくれることを祈るのみ。
もっともそれが「来世」でしかないことも少なくなく。

人はただでさえ間違いやすい存在なのだから
常に「自分を疑う」というのが基本だと思いつつ。

それで崩れるような「自分」なら崩れてしまえばいいだけのこと。
「崩れた」経験を持たないといたずらに「怯える」だけに終わるのもよくあることで。

「出口のない迷宮」から抜け出すためには
「出口を探す」のではなく「迷宮」そのものを壊すのが早いことを知ろう。
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「お付き合い」について

2011-07-29 01:06:05 | Weblog
くもり。お通夜に行く。

めんどくさいのでほぼ沈黙を守る。
どうにかやり過ごせたのでとりあえずセーフ。

伯母の顔はキレイだった。
生前通りいたずらに。

今回出席して学んだのは
いまだに「戒名ビジネス」が通用していること。

「院」を付けると値段が上がる模様(8万とか)。
バカバカしいけれどそういう「現実」があるらしい。

自分のときはどうするのかというと
とりあえず「葬式」はしないつもり。

死んだ後で楽しそうなのは「わたし」を巡るさまざまな関連。
パーティーなどして出来ればそこで新しい「出会い」などがあったらよかろうと思う。

本来はおそらく生きている間にそうしたネットワークを作った方がいいのだが
その種のことは「後輩」におまかせする。

久方ぶりに「水戸黄門」の再放送を観る。
脚本は加藤泰。

ゲストのフランキー堺は「幕末太陽伝」(’57)を浅くなぞっている感じ。
黄門・東野英次郎が「教訓」を垂れる。

「助さん」里美浩太朗がちょいと由美かおるに色気を感じる趣向も。
彼女は「しょんがいな」と何度も歌って。

お新・宮園純子はすべてを承知しているようで
肝心な時にちょいと慌てたりするのが「玄人」の「素人ぶり」を思わせてグッド。

中学の同級生の女子に「お新」と呼ばれていた子もいたことを思い出す。
そんな時代もあったねと。

当時は「野蛮人」としてそこそこ「人気」はあったが
今はただ片隅で静かに暮らすのみ。
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「追いかけてくる昭和」について

2011-07-28 01:42:19 | Weblog
くもり。夕方に激しいスコール。

「涅槃への道」読了。

内容よりむしろ徹底的に本文確認をする筆者の情熱に打たれる。
その方が逆に「宗教」を感じさせるあたりの「矛盾」が面白い。

今宵はゆっくり飲もうと思っていたら
昭和元年生まれの伯母が亡くなったとの知らせが入る。

いわゆるやり手の母(こちらからすると祖母)に蝶よ花よと育てられ
各方面に迷惑をかけつつ好きに生きたのだから十分な寿命だろう。

叔父の葬儀のときだったか。
「いい顔してるねぇ」といかにも蓮っ葉な調子で言われたのを覚えている。

とりあえずお通夜に出ることになり
明日は昼から実家に行かねばならない。

元々家族関係にはあまりご縁がないはずなのだが
ここに来て立て続けにあれこれ。

正直な感想を言うなら「めんどくせー」。
わざわざ父親の葬儀のときの香典代を調べて通夜への出席を促す母親にもウンザリ。

この21世紀に「昭和」が追いかけてくる。
気分はほとんど成瀬巳喜男作品の主人公のよう。

無邪気に没落の道をたどる「流れる」(’56)の山田五十鈴がいっそうらやましい一方で
「稲妻」(’52)の高峰秀子に大いに共感する。

眉をひそめて「もォ、ヤんなっちゃうなァ」と言いたいところ。
本が読めて映画を観られれば幸せなのに。

もっとも大した稼ぎもないまま気ままに暮らしてきたツケだと思えば致し方ない。
できればめんどくさいことはしたくないと思いながら。

他人から見れば「いい気なもの」に違いないので
そのあたりは適当にうっちゃっておいていただければ結構。

本来は「酒場の隅」にでも置いていけばいいもの。
「おやかましゅう=やかましくってすみません」ということでよろしく。
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「信じるという装置=宗教」の「有効性」について

2011-07-27 02:16:09 | Weblog
くもりときどき晴れ。暑さはそれほどでもなく。

渡辺照宏「涅槃への道」を途中まで読む。

八十歳で入滅したという仏陀のお話を
パーリ語の「涅槃教」を元に英語・ドイツ語・スペイン語訳も参考にして語る内容。

「人間」が「動物化」しつつあるのなら
「宗教」がもう一度役に立つのかもしれないと思って参考までに読んでいる次第。

本来望ましいのは「宗教」を「過去のもの」にすることだけれど
如何せん人々の「理性」や「言語能力」には期待できそうもない。

むしろ「読解能力」は下がる一方だと思われもするので
それならいっそどこかに「絶対者」を置いて「信仰」という形式を生かすのもアリかと。

今のところ興味深いのはキリスト教・イスラム教同様
仏教においても「地獄に堕ちる」という共通点があること。

現代のわれわれにとって「地獄に堕ちる」ことの「リアル」はさほどでもない。
それに代わる「リアルな恐怖」を生み出す「設定」はどんなものなのだろう。

「来世で救われたい気持ち」はもちろん「現世の辛さ」による。
せめて「生まれ変わったら」という思いを抱かせるほどの「辛さ」が当時は平気で身近にあったはず。

とりあえず何とか生きられてしまう環境を手に入れているはずのわれわれは
その「幸福」も知らずいたずらにあれこれ悩んだりして。

もちろん人は「現在の悩み」の「取るに足りなさ」を自覚することなく
ひたすら「現在の悩み」を悩む存在ではある。

少しだけ他人に望むことがあるとするなら
「素敵な笑顔の持ち主」であってくれさえすればということ。

「笑顔教」などというものはあるはずもないけれど
「屈託の無さ」を感じさせる瞬間を「力」に変えることは出来る。

実は「笑顔が似合う」ということも
おそらくは「ひとつの才能」と呼んでいいほど貴重なもの。

自分にできないことを他人に望むのが人の「基本」だと知りつつ。
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「おしゃべり」のように

2011-07-26 00:49:56 | Weblog
くもり。雷鳴や激しい雨も。

「イスラーム世界の基礎知識」読了。

一通りの言葉と意味には馴染みが出来たので
井筒俊彦訳「コーラン」にでもチャレンジしてみるか。

どこから読んでもいい形で作られているらしいので
覚えていたら今度図書館で借りることにする。

昨日(24日)は「アナログ放送最後の日」で
いちおう正午にはTVをつけていたのだけれど実にあっさりとした終わり方だった。

これでアナログテレビがすべて「ゴミ」になるのなら
いっそ海外へ持っていって売ったらどうかなどとバカなことを考える。

いや、売らずともあげればいいか。
もちろんもらってくれるところがあればの話。

目先の利益のために資源がムダになるのはどう考えてもよろしくなく
それでもまだ人々は身近にTVを置いておきたいらしい。

どうせ映像を流すのなら
むしろ昔のMTVを復活させていただきたいもの。

著作権の関係が今だとどうなるかは不明だけれど
80年代にはちょいとしゃれたフリをした飲み屋ではどこでも流れていた。

余計なおしゃべりもなく
さまざまなアーティストのPVが淡々と流れるのが好ましかったものだけれど。

ちなみに「音楽としてのコーラン」を参考までに。
日本人としては「エキゾチックな読経」として理解しやすいだろう。

「歌のはじまり」はおそらくこのあたりにあると思われる。
現代では「歌」といえば「恋愛」だがその実いくらでも歌えるテーマはあるのだ。

素敵な歌声には心惹かれることも少なくない。
ただしそれに見合った内容=詞がないとガッカリすることにもなったり。

とはいえ海外の曲についてはついつい内容確認を怠ったりするのがおそらくは日常。
ちょいと疲れ気味なので思いつくままに。
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「素人考え」について

2011-07-25 00:34:10 | Weblog
晴れ。日陰は涼しい。

一昨日・昨日とついつい寝てしまう。
気付かないうちだからどうしようもなく。

ウォレス・ブロッカー&ロバート・クンジク「CO2と温暖化の正体」を読む。

温暖化を抑えるために大気中から二酸化炭素を取り出し
海洋深くに埋めてしまおうということらしい。

もちろん素人考えではあるけれど
気候変動に大きな影響を与える海洋にそんなことをして大丈夫かという疑問は残る。

どうやら気候が「豹変するもの」であることは確かなようなので
それに備えてあれこれ準備しておく必要はあるだろう。

ジョン・L・エスポジト「イスラーム世界の基礎知識」を途中まで読む。

オリジナルは「9・11」の一年後である02年に出た模様。
アメリカ人の間に生まれたイスラムに対する疑問に答える内容。

クルアーン(コーラン)の中には旧約聖書より頻繁にマリアが登場すること(イエスももちろん登場)。
サウジアラビアは「ワッハーブ派」の「サウード家」によって出来た王国であること。

大きくは「スンナ(=慣習・慣行)派(全イスラムの85%)」「シーア(=党派)派(残りの15%)」に分かれ
その中でもさらにいろいろな分派があること。

分派のポイントは「正統な後継者が誰であるか」と「近代化に対する態度」。
クルアーン(コーラン)はあらゆる場面における「行動指南の書」としての側面もあると。

「自らの正当性」を主張しすぎなければ
「宗教」は今でも役に立つものなのかもしれないと最近は思うようになったところも。

イスラム教もキリスト教も元々は「寛容の精神」を持っているようだし
「戒律」に反すれば「地獄に堕ちる」という点でも共通するものがある。

ただしそこに政治や経済問題が絡んでくると
途端に「生臭く」なるのは時代を問わず。

個人はそれぞれの「背景」を持っているけれど
「互いに望ましいと思うこと」について「共同作業」をすると違う一面が見えてくるもの。

それは出来れば「スポーツ」のように
大きくは「同じルール」の中で互いに「知恵と体力を競い合う」ようなものであれば。

はっきり言えることがあるとすれば
単純な評価を下す前に「お互いを知ること」こそが重要なことだろう。
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「リテラシー」について

2011-07-22 01:24:57 | Weblog
くもり。怪しい空模様。

飯田泰之「ダメな議論」を読む。

5年前にちょいと売れたと思われる経済学者の本で
文字通り「ダメな議論」をコストをかけずに見抜こうという内容。

以下に5つのチェックポイントを挙げてく。

1.定義の誤解・失敗はないか
2.無内容または反証不可能な言説
3.比喩と例話に支えられた主張
4.単純なデータ観察で否定されないか
5.難解な理論の不安定な結論

さらには「100%正しいこと」などそもそも人には考えられないので
「それですべてがうまくいくわけはない」という反論は「ニヒリズム」だとも。

宗教家や占い師あるいは手品師が使う「コールド・リーディング」にも注意。
「信頼関係」を作り「誰にでも当てはまる質問」をして「過去を当てた」と思わせる技術のこと。

考えてみれば至極当然のことばかりが並べられているのだけれど
その「当然」が「空気」によって歪められるのが逆に「当然」なわが国では知っておいた方がいいはず。

何気なく「当然」という言葉を使ったけれど
本来その種の「抽象的な言葉」はただただ「あいまい」なだけ。

特定の時代の特定の人々にとっての「当然」は時代によって移り変わるもの。
そのことを基本にできればいいのだが。

経済関係の人々は
「分析型」「風見鶏型」「万年強気派」「万年弱気派」の4つに分けられることも覚えておこう。

好ましいのは一番目で、次は「言説」の推移を追えばすぐに底が割れ
三と四は「景気が循環するもの」であることを思えばいつかは「当たる」もの。

「わからないもの」に対しては常に「謙虚」であること。
そして「あいまいな言葉」をいたずらに書き連ねないこと。

こうしたことが「常識」なら何の苦労もないわけで
残念ながら著者の「啓蒙」はすでにそれを「常識」だとしている人にしか届かない悪寒がする。
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休日前のぐだぐだ

2011-07-21 02:27:35 | Weblog
くもりのち晴れ。台風一過。

宮崎哲弥・川端幹人「事件の真相!」を読む。

5年前の本なので気分は「オンリー・イエスタデイ」。
「ホリエモン」「江原」「細木」「村上ファンド」「男系女系天皇」など。

川端幹人は雑誌「噂の真相」の副編集長だった人らしいけれど
彼に対する宮崎哲弥の「反応」や「説得」が面白い。

当時は「バブル再来」のような雰囲気だったのは確か。
もちろんそれらに「ご縁」などなく。

今宵は疲れたので寝る。
何だか気力がない。
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「弔辞」について

2011-07-20 02:18:26 | Weblog
雨。台風の影響。

大島渚「わが封殺せしリリシズム」を読む。

「弔辞大全」と銘打って開高健が出した二冊のタイトルは
いずれもスペイン語を元にした「さらば、友よ」「神とともに行け」(新潮文庫)だったか。

映画監督である著者の弔辞も味わい深く
電車の中で思わず目がうるうるしてしまう。

とりわけ「強くやさしい女たちよ」と「弔辞―川喜多和子」の流れはいけない。
彼女が伊丹十三と結婚していたことは迂闊にも初めて知った。

学生の頃彼女が副社長をしていた「フランス映画社」にはずいぶんお世話になったもの。
ゴダールの「a bout de souffle=breathless=息切れ」を「勝手にしやがれ」とした人でもある。

映画ファンにはこの「リスト」を見てあれこれ思い出していただきたい。
個人的には途中からちょいとご無沙汰してしまったけれど。

この本に「記録」されている豊かな「批判精神」と「人の交わり」こそ
われわれが「継承すべきもの」だとは知りながら。

小林信彦が指摘していた「中平・増村時代」の存在もこれで「補強」できるはず。
彼らを「近代主義」だと言った著者は相当に後者を意識していたはず。

たとえば増村の「赤い天使」(’66)と大島の「愛のコリーダ」(’76)について
互いに細かくチェックしてみたら面白いはずだったり。

「御法度」(’99)はその作風の変化が興味深く
新たな「大島渚」の展開を十二分に予想させた上でラストの幻想的な美しさもあって。

そうしたことすべてが「常識あるいは前提」となるはずもない「現実」を生きるしかないのだから
「いいもの」を何とか伝えるしかない、としておく。
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