晴れ。着ぶくれで寒さをやり過ごす。
昨日はまた身体に従う。
年末だからという意味もない理由も付けて。
台所の換気扇の油汚れを取ったり階段を雑巾がけしたり。
買い物に付き合ったり。
結局本を読まずに終わる。
たまにはいいのかもと思いつつ。
マイケル・ドハティ「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」(’19)を観る。
相変わらずハリウッドの「ゴジラの造形」は今ひとつ。
「モスラのテーマ」の作曲が古関裕而なのを迂闊にも忘れていて。
「マッドサイエンティスト」が「子どもを失った母親」だという設定が「新しい」のか。
「人類が地球にとっての害虫」だという「環境テロリスト」で。
「巨大生物との共存」を望んだ芹沢博士の渡辺謙は「さよなら古き友よ」と言って去る。
本来ならここにもっと段階を踏んだ「感情のカタルシス」があってもいいのだけれど。
「娘が母親を否定する」あたりをどう解釈するのかがポイントだったり。
チャン・ツィーが「神話」からヒントを得る描写にふむふむ。
モスラの「鱗粉」がゴジラに力を与えたり。
「家族の再結合」というドラマは正直つまらなく。
引き続きウィリアム・キーリー「情無用の街」(’48)を観る。
リチャード・ウィドマークの姿が観たくて。
もっとも本作はFBIの「宣伝」のよう。
冒頭にかの長官エドガー・ケイシーの言葉が出るのだからいやはや。
原題は「The Street with No Name」で「名前のない街」。
「赤狩り」の時代だからそういうことになる模様。
「Gメン」(’35)の「コピー」のような。
監督も同じだし。
残念ながらあまり魅力をそそられず。
以上が昨日のあれこれ。
今日はというと。
「柄谷行人蓮實重彦全対話」を半分くらい読む。
当時彼らの本をいろいろ読んだことを思い出し。
「知的に誠実であること=倫理」だということでよさそう。
今では「知的」どころか「倫理」はどこへやらといった趣きで。
「30年=一世代」が過ぎると「現実」も大きく変わることをあらためて。
今日も部屋に掃除機をかけたり風呂を洗ったりなど。
普段は「どうでもいいこと」に案外熱中する自分を確認。
要は「その気になるかどうか」がポイント。
もちろんなかなかそうはならないのが「基本」で。
「具体的な作業」は「無心」になれるから案外重要。
多寡の知れた「頭の中」で立ち止まるより余程マシなことは確か。
昨日はまた身体に従う。
年末だからという意味もない理由も付けて。
台所の換気扇の油汚れを取ったり階段を雑巾がけしたり。
買い物に付き合ったり。
結局本を読まずに終わる。
たまにはいいのかもと思いつつ。
マイケル・ドハティ「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」(’19)を観る。
相変わらずハリウッドの「ゴジラの造形」は今ひとつ。
「モスラのテーマ」の作曲が古関裕而なのを迂闊にも忘れていて。
「マッドサイエンティスト」が「子どもを失った母親」だという設定が「新しい」のか。
「人類が地球にとっての害虫」だという「環境テロリスト」で。
「巨大生物との共存」を望んだ芹沢博士の渡辺謙は「さよなら古き友よ」と言って去る。
本来ならここにもっと段階を踏んだ「感情のカタルシス」があってもいいのだけれど。
「娘が母親を否定する」あたりをどう解釈するのかがポイントだったり。
チャン・ツィーが「神話」からヒントを得る描写にふむふむ。
モスラの「鱗粉」がゴジラに力を与えたり。
「家族の再結合」というドラマは正直つまらなく。
引き続きウィリアム・キーリー「情無用の街」(’48)を観る。
リチャード・ウィドマークの姿が観たくて。
もっとも本作はFBIの「宣伝」のよう。
冒頭にかの長官エドガー・ケイシーの言葉が出るのだからいやはや。
原題は「The Street with No Name」で「名前のない街」。
「赤狩り」の時代だからそういうことになる模様。
「Gメン」(’35)の「コピー」のような。
監督も同じだし。
残念ながらあまり魅力をそそられず。
以上が昨日のあれこれ。
今日はというと。
「柄谷行人蓮實重彦全対話」を半分くらい読む。
当時彼らの本をいろいろ読んだことを思い出し。
「知的に誠実であること=倫理」だということでよさそう。
今では「知的」どころか「倫理」はどこへやらといった趣きで。
「30年=一世代」が過ぎると「現実」も大きく変わることをあらためて。
今日も部屋に掃除機をかけたり風呂を洗ったりなど。
普段は「どうでもいいこと」に案外熱中する自分を確認。
要は「その気になるかどうか」がポイント。
もちろんなかなかそうはならないのが「基本」で。
「具体的な作業」は「無心」になれるから案外重要。
多寡の知れた「頭の中」で立ち止まるより余程マシなことは確か。