現代陶芸の旗手として、手捻りと紐造りで造形を試み、多彩な文様による装飾性と独創的な美しい作品を
作り続け、個展や海外での展覧会出品も多く、内外で高い評価を受けている、笠間在住の陶芸家が
和太守 卑良氏です。
1) 和太守卑良(わたもり ひろ)本名 和田守弘(わだ もりひろ): 1944年(昭和19) ~2008年
(平成20) 享年64歳
① 経歴
) 兵庫県西宮市仁川に、和田卯三郎(会社役員)の長男として生まれます。
1962年 大阪府立北野高校卒業後、京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学します。
ここで、富本憲吉教授に出会い、近藤悠三、藤本能道、清水九兵衛に師事し、加茂田章二や
柳原睦夫氏などと知り合いになります。
) 1967年 同校を卒業後、高知県安芸郡内原野に移住し、窯を築きます。
翌年には、高知県で初の個展を開いています。その翌年には、内原野三太郎工房を設立します。
1975年 第三回日本陶芸展で「杉文(さんもん)器」が初入選を果たします。
1977年 茨城県笠間市に窯と仕事場を作り移住します。
(当時益子では多くの陶芸家がおり、たまたま笠間に空き地があり入手したとの事です。)
同年、第四回日本陶芸展で「雲花文器(せっき)」が入選します。第五回展では「杉文器」が
第六回展では「彩土杉文器」が入選します。
) 1980年 ファエンツァ(イタリア)国際陶芸展で、「杉文器」が金賞を受賞します。
同年 伝統工芸新作展で「飛鳥文鉢」が入選します。
以後も、東京南青山、日本橋高島屋での個展や、香港、アメリカ、カナダなど海外の展示会などの
招待出品を重ねています。 1988年 日本陶磁協会賞を受賞しています。
又、近年連続企画の「和太歳時器」展を毎年催し、古来の陶芸技法による作陶の試みを
展開していました。
尚、2002年「NHK趣味悠々 秋元康の陶芸入門、和太流で土と遊ぶ」にも出演していました。
② 和太守 卑良氏の陶芸
) 成形はほとんど手捻りで行っています。地元の笠間には様々な土が有り、その含有物により
焼成すると、灰緑色、暗褐色、紫紺色その他の色に焼き上がると言われています。
又、笠間付近には、岩石が風化して、砂と土の中間状態の崩壊砂も存在しています。
これらの材料を利用して、和太守氏の独特の地肌や文様の作品を作り上げています。
) 杉文(さんもん)と雲花文(うんかもん)
a) 彼の個展の際の案内状に杉文についての説明がありますので、引用します。
「微妙な色相の変化する春の杉林が好きです。その杉の形や線に興味を持って杉の癖と
私の手の癖を重ね合わせている内に、一つの性格を持った線の群れが出てきました。それを
自分で杉文と呼びました。」とあります。
b) 鉄分の多い山土で成形し、表面に杉文を線彫りし、砂分の多い泥漿(でいしょう)を象嵌風に
刷り込み焼き締めた作品です。
c) 雲花文の名前の由来は、最初は特定の花の文様が、次第に抽象化され原型を大きく外れ、
雲の様になってしまった為、雲花文と呼ばれる様に成ったそうです。
d) 作品には、「杉文器」(1975)「雲花文器」(1977)「杉文器」(1979)「杉文器」((1980)
「彩土杉文器」(1980)等があります。
) 砂瓷(さじ)の作品
a) 鉄分の多い土に、長石分の多い白い泥漿を文様に塗り、直ぐに上記崩壊砂を振り掛けて、
定着させます。色の異なる数種の砂を、模様状に配置します。更に板を使い全体を軽く叩き
埋め込みます。焼成は1250~1300℃で焼いた物で、器肌に細かい砂が無数に張り付いています。
これは彼独自の技法で、砂瓷と呼んでいます。
b) 作品として1980年代の「砂瓷風草文器」(同名の数種類の作品)が有ります。
注: 瓷器(ジキ)とは、中国唐代では施釉の器を指し、現代中国では磁器を瓷器と表記します。
次回(會田雄亮氏)に続きます。
作り続け、個展や海外での展覧会出品も多く、内外で高い評価を受けている、笠間在住の陶芸家が
和太守 卑良氏です。
1) 和太守卑良(わたもり ひろ)本名 和田守弘(わだ もりひろ): 1944年(昭和19) ~2008年
(平成20) 享年64歳
① 経歴
) 兵庫県西宮市仁川に、和田卯三郎(会社役員)の長男として生まれます。
1962年 大阪府立北野高校卒業後、京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学します。
ここで、富本憲吉教授に出会い、近藤悠三、藤本能道、清水九兵衛に師事し、加茂田章二や
柳原睦夫氏などと知り合いになります。
) 1967年 同校を卒業後、高知県安芸郡内原野に移住し、窯を築きます。
翌年には、高知県で初の個展を開いています。その翌年には、内原野三太郎工房を設立します。
1975年 第三回日本陶芸展で「杉文(さんもん)器」が初入選を果たします。
1977年 茨城県笠間市に窯と仕事場を作り移住します。
(当時益子では多くの陶芸家がおり、たまたま笠間に空き地があり入手したとの事です。)
同年、第四回日本陶芸展で「雲花文器(せっき)」が入選します。第五回展では「杉文器」が
第六回展では「彩土杉文器」が入選します。
) 1980年 ファエンツァ(イタリア)国際陶芸展で、「杉文器」が金賞を受賞します。
同年 伝統工芸新作展で「飛鳥文鉢」が入選します。
以後も、東京南青山、日本橋高島屋での個展や、香港、アメリカ、カナダなど海外の展示会などの
招待出品を重ねています。 1988年 日本陶磁協会賞を受賞しています。
又、近年連続企画の「和太歳時器」展を毎年催し、古来の陶芸技法による作陶の試みを
展開していました。
尚、2002年「NHK趣味悠々 秋元康の陶芸入門、和太流で土と遊ぶ」にも出演していました。
② 和太守 卑良氏の陶芸
) 成形はほとんど手捻りで行っています。地元の笠間には様々な土が有り、その含有物により
焼成すると、灰緑色、暗褐色、紫紺色その他の色に焼き上がると言われています。
又、笠間付近には、岩石が風化して、砂と土の中間状態の崩壊砂も存在しています。
これらの材料を利用して、和太守氏の独特の地肌や文様の作品を作り上げています。
) 杉文(さんもん)と雲花文(うんかもん)
a) 彼の個展の際の案内状に杉文についての説明がありますので、引用します。
「微妙な色相の変化する春の杉林が好きです。その杉の形や線に興味を持って杉の癖と
私の手の癖を重ね合わせている内に、一つの性格を持った線の群れが出てきました。それを
自分で杉文と呼びました。」とあります。
b) 鉄分の多い山土で成形し、表面に杉文を線彫りし、砂分の多い泥漿(でいしょう)を象嵌風に
刷り込み焼き締めた作品です。
c) 雲花文の名前の由来は、最初は特定の花の文様が、次第に抽象化され原型を大きく外れ、
雲の様になってしまった為、雲花文と呼ばれる様に成ったそうです。
d) 作品には、「杉文器」(1975)「雲花文器」(1977)「杉文器」(1979)「杉文器」((1980)
「彩土杉文器」(1980)等があります。
) 砂瓷(さじ)の作品
a) 鉄分の多い土に、長石分の多い白い泥漿を文様に塗り、直ぐに上記崩壊砂を振り掛けて、
定着させます。色の異なる数種の砂を、模様状に配置します。更に板を使い全体を軽く叩き
埋め込みます。焼成は1250~1300℃で焼いた物で、器肌に細かい砂が無数に張り付いています。
これは彼独自の技法で、砂瓷と呼んでいます。
b) 作品として1980年代の「砂瓷風草文器」(同名の数種類の作品)が有ります。
注: 瓷器(ジキ)とは、中国唐代では施釉の器を指し、現代中国では磁器を瓷器と表記します。
次回(會田雄亮氏)に続きます。