クラフトとは、外国語で「手造り」の意味ですが、日本では一般に「手仕事の持つ人間的な温か味を
表現した新しい工芸品」を意味します。又、「美的な日常生活の用具の創造」を目指す作品群とも
言えます。特に陶磁器は、クラフト作品の重要な要素の一つに挙げる事が出来ます。
1) クラフト運動の始まり
① 戦後は、国内の各分野で、旧秩序の崩壊が起こり、混沌とした状態が続きます。
② 昭和20年代後半に成って、工芸界でも新しい秩序を求め、工芸家達が運動を始めます。
新しい造形として、庶民の暮らしに密着した、新たなデザインの生活品の創造を目指します。
③ 古い型の美術工芸家ではなく、当時30歳代の若い青年達が、志を同じにするそれぞれの
グループを組み、行動に移します。
) 「創作工芸協会」: 最初に行動した人々は、戦前より日展で活躍していた中堅(特選作家)の
工芸家達で、協会を設立し自由な創作と、積極的に社会的発言力を増す事を目標に創作活動を
行います。 1952年(昭和27) 東京銀座の資生堂画廊で、「第一回創作工芸展」を開催し、
工芸界に新風を巻き起こします。以後その輪を全国に広げ、同調者を増やすと共に、
四国高松や北陸の高岡などでも展示会を行い、地方の工芸家にも影響を与えます。
) 「生活工芸展」: 朝日新聞社主催の工芸展で、一般公募などで従来の権威に囚われない
若い無名の若手作家達の登竜門になります。工芸を生活に戻し、新しい工夫とデザインで工芸の
価値を高める活動を、新聞社も応援する事に成ります。
) 「国際工芸美術協会」: 1955年(昭和30) 無名の若手工芸家達数十名が、全国から参加し
この会が組織されます。30歳を超えない若手連中で、熱い情熱を持って工芸界の変革を
旗印にして、運動を展開します。国内だけでなく、国際的視野に立ち、世界でも通用できる
工芸を目指して活動する様に成ります。
この運動は当時の工芸界に大きな刺激を与える事に成ります。
又、機関誌「クラフトデザイン」を発行し、彼らの主張を述べています。
) 「日本デザイナークラフトマン協会」: 1956年 進歩的なデザインを目指す工芸家達により
協会が設立されます。中心的なメンバーは、前記「創作工芸協会」の人達です。
彼らは、芸術作品の製作と発表を中心にした今までの方向から、生産地と関わりを
持ちながら、職能人として、生活に密着したクラフトマンとして歩む様になり、共鳴する
人々も増えてゆきます。
2) クラフト運動に積極的に関わった人物
① 富本憲吉: 30年代の初期に起こったクラフト運動に理解を示し、自らも製作した代表的な
人物です。彼は、当時すでに陶芸界の重鎮で、大きな影響力を持っていました。
) 「工芸家は常に大衆の生活に役立つ美しい作品を作らなければならない。そして工芸は芸術で
あるとともに生活に奉任するものだ」との信念で、戦前より自ら製作していました。
) クラフト工芸運動が起こると、陶磁器分野のモデルケースとして、自らデザインし京都の
八坂工芸に製作させます。この作品は現在でも優れたクラフト作品として愛用されているそうです。
② 「京都クラフト協会」: 京都にクラフト運動の動きが伝わると、京都でも積極的に取り組み
ます。京都在住の辻晋六、山田光、河島浩三、叶敏、原照夫などの人々は、製作のみで
無く、窯元にも運動を呼びかけます。初代理事長に辻晋六氏が推されます。
彼は、近代的なデザイン感覚の食器類を生産し、若い陶工を指導します。
) 「京都クラフトセンター」の設立。辻氏は京都市の協力で、五条坂に設立し、ここを拠点に
京都の陶磁器界に、新たなクラフト作品を提供する様に成ります。
同時に「京都クラフトデザイン展」を毎年実施し、若い陶工達が参加、発表の場を作ります。
この事が、クラフト製品の生産と流通に結び付き、定着して行きます。
) グループ「新陶人」の結成。上記若手クラフトマンが自発的に集まり、結成したもので、
リーダーは走泥社の山田光、河島浩三、叫敏氏達です。
) 若手以外の人達も、クラフト作品を製作しています。
内田邦夫氏(後日取り上げる予定)もその一人で、モダンな白磁の食卓用品を手掛け、
高い評価を受けています。
③ 美濃、多治見のクラフト運動
以下次回に続きます。
参考文献: 現代日本の陶芸 第12巻 月報5(現代陶芸とクラフト)(株)講談社