あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

それ以上遡及できないもの・こと・ところ、近づけないもの・こと・ところについて。(その456)

2021-01-16 12:33:14 | 思想
人間の知的能力には、先天的に、限界がある。それは、人間は、先天的に、それ以上遡及できないもの・こと・ところ、近づけないもの・こと・ところを有し、それらに動かされて生きているからである。新約聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。「この世は神の言葉によって作られた」という意味である。この世は、神の言葉以上に遡ることができないのである。ウィトゲンシュタインは「語りえないものについては沈黙しなければならない」と言う。「神、倫理的なこと、論理そのものなどについて、誰しも語ることができないから、語ってはいけない。」という意味である。神、倫理的なこと、論理そのものなどは、感じ取ることができ、示すことはできるが、説明できないと言うのである。パスカルは「私はあそこにいず、ここにいるのに対して、恐れ、おののく。というのは、なぜ、あそこにいず、ここにいるのか。なぜ、あの時にいず、今この時にいるのか。全くその理由がわからないからである」と言う。確かに、人間が、この時間、この空間にいることの必然性は存在しない。自分が選んだことでもなく、誰かに連れてこられたわけでもない。気がついたら、そこにいるのである。そこに、恐怖、驚愕を覚えるのは、当然のことである。そもそも、人間の存在の必然性の無さは、誕生から始まっている。芥川龍之介の「河童」という小説には、河童の世界では、お腹の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ねることになっている。その時、誕生の意志を示したものだけが生まれてくる。だから、生まれてきた河童には、誕生の責任はある。しかし、人間は、誰一人として、誕生の意志を尋ねられていない。だから、誕生の責任を有していない。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからない。だから、母親の責任でもない。しかも、生きたいという意志を持っていても、人間は、誰一人として、死を免れることはできない。しかも、死は、突然かつ偶然、必然的にやって来る。しかし、人間は、自殺という意志による行為によって、自らに死をもたらすことができる。つまり、人間は、意志無く誕生させられ、生への意志があっても死は確実に訪れ、死への意志があれば確実に死ねるのである。人間は理不尽な存在なのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている。まさしく、人間は、押し付けられた人生を、自分の人生として生きるしかないのである。さらに、李徴は、次のように、反省している。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」李徴は、尊大な羞恥心という自らの性情をコントロールできなかったために、虎という尊大な羞恥心を持っている動物になってしまったと言う。尊大な羞恥心とは、他者から見れば傲慢に見えるが、実際は、自信が無く、小心翼々として暮らしている人の内心を言う。性情とは、簡単に言えば、性格である。李徴は、傲慢に見えるが、実際は、自信が無く、小心翼々とした性格をしていて、それコントロールできなかったために、自分自身を駄目にし、妻子を傷つけ、友人を苦しめることになってしまったと言う。しかし、尊大な羞恥心という性格は、李徴が求めたものではない。気付いた時には、既に、李徴の中にあったのである。しかし、李徴は、自ら求めた性格でなくても、それに振り回されて、生きていくのである。それでは、なぜ、人間は、自らの性格をコントロールできないのか。それは、性格とは、深層心理の動きであり、意志では、どうすることもできないからである。深層心理とは、人間の無意識の思考という心の働きである。つまり、人間は、無意識という深層心理の思考という心の働きによって、動かされているのである。人間には、深層神経の敏感な人と鈍感な人が存在する。深層心理の敏感、鈍感は、先天的なもので、人間は、意志によっては、どうすることもできない。李徴は、深層神経の敏感な人である。深層神経の敏感な人は、感情の起伏が激しく、心が傷付きやすい。深層神経の敏感な人は、感情の起伏が激しく、心が傷付きやすいから、その傷付いた心を早く回復させるために、他者を攻撃するのである。だから、李徴は、自らの性情を尊大な羞恥心だと言うのである。カントは、人間は物自体を捉えることができないと言う。人間は、志向性によって物を捉えているから、物自体を捉えることができないのである。志向性とは、対象に向かう観点・視点である。人間は、物という対象だけでなく、他者・現象という対象も、志向性によって、捉えている。それを、有の無化作用と言う。志向性は、深層心理に存在している。だから、人間は、物自体だけでなく、他者自体も現象自体も、捉えることができないのである。カントの有名な言葉にコペルニクス転回がある。コペルニクス的転回は、カントが自らの認識上の立場を表した言葉である。カントは、それまで、人間の認識は対象に依拠していると考えられていたが、対象の認識は、人間の主観の構成によって可能だとした。この認識論の立場上の転回を、コペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえたのである。カントは、時間と空間が現象を構成する主観の直観形式と考えた。つまり、カントは、時間的、空間的という志向性で現象を見るから、現象が、時間的、空間的に見えてくると言うのである。深層心理には、無の有化作用も存在する。人間は、志向性によって、実際に存在している他者・物・現象をありのままに捉えることはできないのと同様に、実際には存在していない他者・物・現象も、無の状態で、空の状態で、ありのままに捉えることはできないのである。しかし、人間は、実際に存在している他者・物・現象に対してと、同様に、自ら意識して思考して、自らの意志によって、実際には存在していない他者・物・現象を存在しているように思い込むということはできない。人間の意識しての思考、意志を、表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、実際には存在していない他者・物・現象を存在しているように思い込むということはできないのである。実際には存在していないも者・物・現象が存在していてほしいという深層心理の欲望がが、深層心理をして、存在しているようにに思い込ませるのである。これが、深層心理による、無の有化作用である。つまり、人間は、深層心理が有する存在していいてほしいという欲望によって、無意識に、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込んでしまうのである。しかし、深層心理は、恣意的に、実際には存在していない他者・物・現象を存在しているように思い込むのではない。有の無化作用と、同様に、無の有化作用にも、志向性が存在するのである。その志向性とは、他者・物・現象の存在が、深層心理にとって絶対必要不可欠であり、それが存在すれば、深層心理に、すなわち、人間に、安らぎを与えるということである。無の有化作用による存在の典型として、神の存在がある。人類が神を創造したのは、深層心理が、神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。犯罪者の中には、自らの犯罪を正視するのは辛いから、いつの間にか、自分は犯罪を起こしていないと思い込んでしまう人が出現するのである。ストーカーは、夫婦という構造体やカップルという構造体が壊れ、夫もしくは妻や恋人いう自我を失うのが辛いから、このような気持ちに追い込ませたのは相手に責任があり、自分には付きまとったり襲撃したりする権利あると思い込んで、実際にその行為に及んでしまうのである。ガモフは、膨張宇宙、宇宙背景放射、元素の存在比などを証拠として、今日の宇宙は、宇宙の初めにあったビッグバンという大爆発による高温・高密度の状態から膨張してできたとという説を提唱した。宇宙物理学者たちは、宇宙開闢論がほしいから、深層心理から、信じ込んだのである。宇宙の背景放射の中に全くの黒い穴が存在するのが発見されたが、シュワルツシルトは、それは、重力が強いため、光を含めいかなる物も、そこから脱出できない面(事象の地平面)が存在するとし、それをブラックホールと名付けた。宇宙物理学者たちが、その解がほしいので、深層心理から、信じ込んだのである。人間は、誰しも、自らの存在を自分だとしている。しかし、人間は、自分として、活動できない。自我として、活動しているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動しているのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものの活動は存在しないのである。


自らの内なる力を引き出すために、そして、自らの内なる力を和らげるために。(自我その455)

2021-01-16 12:24:32 | 思想
人間に、肉体的な快楽、精神的な快楽がもたらされることがあるが、それらは、突然、やって来る。何かがあると、それらは、突然、やって来る。だから、人間は、その何かを見つけ出そうとする。しかし、人間は、快楽そのものは何かがわからない。快楽が、人間を生きやすくさせ、快楽を求めるように生きさせていることしかわからない。しかも、人間は、肉体的な快楽そのもの、精神的な快楽そのものを求めることができない。人間は、何が肉体的な快楽、精神的な快楽がもたらすかを突き止め、それを実行して、肉体的な快楽、精神的な快楽を得るようにするしか無い。しかし、期待に反して、それが効果が無く、肉体的な快楽、精神的な快楽をもたらされないことが往々にしてある。また、人間は、肉体的な苦痛、精神的な苦痛に襲われることがあるが、それらも、突然、やって来る。何かが原因となって、それらは、突然、やって来る。人間は、原因になっていることを突き止め、それを取り除き、それから解放されるしか道は無い。しかし、期待に反して、原因を突き止め、取り除いたはずなのに、効果が無く、肉体的な苦痛、精神的な苦痛から逃れられないことも往々にしてある。さらに、苦痛の原因になっていることを突き止めることができず、長い間、肉体的な苦痛、精神的な苦痛に悩んでいる人も珍しくない。なぜ、人間は、これほどまでに無力なのか。それは、肉体的にしろ、精神的にしろ、快楽も苦痛も、深層肉体、深層心理によって生み出されているからである。人間は、深層肉体と深層心理に動かされて生きているのである。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、自ら意識することができず、自らの意志の力の及ばない、無意識の範疇に存在するものによって動かされて、生きているのである。まず、深層肉体であるが、深層肉体のあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って生きているのである。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。深層肉体は、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしているのである。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、自ら意識すること無く、自らの意志に関わりなく、深層肉体の意志によって、肉体が生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまうはずである。確かに、深呼吸という意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、人間の誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。深層肉体の意志によらない、心筋梗塞という異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な完全な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。
だから、深層肉体は、病気や怪我に対応するのである。例えば、体内にウイルスが入り、風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを生産し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感は、人間にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。人間は、不快感によって、自らの肉体の異常を意識し、養生したり、薬を服用したり、病院に行ったりするのである。また、怪我をすると、深層肉体は、血液でその部分を固め、白血球で、侵入した細菌を攻め滅ぼそうとする。怪我の痛みの不快感は、人間にも、肉体の異常を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。人間は、不快感によって、自らの肉体の異常を意識し、包帯を巻いたり、薬を塗ったり、病院に行ったりするのである。さらに、人間に、空腹やのどの渇きという欲求が起こるのは、深層肉体の、食糧や飲み物を摂取することによって、肉体的に生きさせようという意志によってである。このように、人間は、深層肉体の意志によって、肉体が生かされているのである。次に、深層心理であるが、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、ひたすら、快楽を求め、不快を避けて生きようとして、思考している。深層心理の快楽を求め不快を避けて生きようという意志も、深層肉体のひたすら生きようという意志と同様に、人間は、自ら意識して、生み出すことはできないのである。すなわち、深層肉体の意志や深層心理の意志は、人間の自ら意識している意志とは異なっているのである。だから、人間が、自ら意識して自らの意志に認識できず、もちろん、動かすことができないのである。それらの意志は、深層肉体そのもの、深層心理そのものに、生来、備わっている意志だからである。さて、肉体には深層肉体と表層肉体、精神には深層心理と表層心理が存在するが、それらは、いつ、分離するのか。人間が自我を持つことによって、肉体の活動は深層肉体と表層肉体に分離し、精神のの活動は深層心理と表層心理に分離するのである。表層肉体とは、人間の意識しての意志による肉体の活動である。表層心理とは、人間が自らを意識すること、人間が自らを意識することによって始まる思考活動、思考活動によって生まれた意志である。しかし、深層肉体の活動は、人間が自我を持っても、人間の誕生時と同じく、ひたすら人間を活かせようという意志で行う活動であり、その役割は変わらない。しかし、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって、対象が人間から自我に変化するのである。深層心理について、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。すなわち、深層心理の、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づく思考の活動は、自我を主体に立てて、論理的に行われるようになるのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、論理的に思考して、自我を活かすために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すようになるのである。人間は、この自我の欲望に動かされて、行動しているのである。人間は、深層心理が生み出した感情に動かされて、深層心理が生み出した行動の指令をかなえようとするのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自分の姿なのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我に限定されて、活動しているのである。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、常に、他者と関わって生活をしているのである。すなわち、社会生活を営んでいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、その構造体に応じてさまざまな自我が持って行動するのだが、代表的な構造体と自我には次のようなものがある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があるのである。それでは、心境とは何か。心境とは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それでは、快感原則とは何か。快感原則とは、フロイトの用語であり、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようという欲望である。そこには、道徳観や社会規約は存在しない。自我の欲望を満たすことによって、快楽を得ようとするのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動の四つの欲望のうちの第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、愛欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。しかし、欲動の四つの欲望がかなわず、誰かが自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我の欲望をかなえることを妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、人間には、そのような欲望には、自己防衛のために、自己規制する機能が存在する。まず、超自我が、ルーティーンという同じようなことを繰り返す生活を守るために、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行わせる機能が存在し、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、再び、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかという苦悩に陥るのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自分の感情を持てあますことから逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、正義よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、その辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、登校・出勤した方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実原則にかなっているからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。その後、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、中には、深層心理がその苦悩から逃れるために、自らを精神疾患にする者も存在するのである。また、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりする者も存在する。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するためにあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。さらに、有の無化には二つの作用がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの作用の意味がある。その一つは、無の有化の作用であり、もう一つは有の無化の作用である。無の有化の作用とは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。「人は自己の欲望を心象化する」の有の無化の意味は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。人間の日常生活の中での行動の変化は、意識しての意志による肉体の活動である表層肉体によることが大きい。スポーツという日常生活にないことができるのは、意識して意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返し行い、それが、深層肉体に定着したからである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。さて、言うまでもなく、人間には、自らを意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考である。表層心理とは、人間が自らを意識すること、人間が自らを意識することによって始まる思考活動である。人間の表層心理での思考の結果が、所謂、意志である。これは、意識された意志であり、深層肉体や深層心理の無意識の意志とは異なる。さて、人間は、深層心理が、まず、快楽を求め、不快を避けようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。その後、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考することがあるのである。その思考の結果、生み出されたものが、所謂、意志である。だから、人間は、表層心理での思考だけでは、感情を生み出せないばかりか、行動もできないのである。しかし、人間は、必ずしも、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考した後で、意志によって、行動しているわけでは無いのである。むしろ、人間は、表層心理で意識されることなく、表層心理で思考することなく、深層心理が、快楽を求め、不快を避けようと、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。深層心理が怒りなどの過激な感情とともに侮辱しろ・殴れなどのルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。なぜ、深層心理が過激な感情とルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」という。同じように、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。このように、人間は、精神的にも、肉体的にも、異常があると、自らを意識するのである。だから、人間は、苦悩の人生のように思ってしまうのである。さらに、人間は、自らの意識しての思考の力、そして、自らの意志の力、意識しての意志による行動を過大視しているから、つまり、表層心理での思考や表層肉体による行動を過大視しているから、いっそう自らを生きにくくしているのである。人間は、自らの内なる快楽という力を引き出すために、そして、自らの内なる苦痛という力を和らげるために思考し、行動するしかないのである。



新しいことが高く評価されることは極めて少ない。(自我その454)

2021-01-12 19:26:09 | 思想
人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動している。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、活動している。人間は、常に、構造体に所属し、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を得ようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きている。深層心理とは、無意識の思考である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の4つの欲望が深層心理が動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかにかなったことが起きれば、快楽を得ることができ、満足できるから、快楽を得るために、欲動の四つの欲望のいずれかにかなうように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。しかし、逆に、欲動の四つの欲望のいずれかと逆行したことが起きれば、深層心理は、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情とその状況を変えるような行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとするのである。自我の欲望は、感情と行動の指令の合体したものであり、自我である人間は、感情が強ければ強いほど、行動の指令通りに実行するのである。最も強い感情は怒りであるから、怒りが行動の指令を実行させる最も大きな力である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。それは、深層心理には、自我の保身化という志向性(思考の方向性)で現れる。深層心理は、保守的な志向性の下にある。深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを志向している。ニーチェの「永劫回帰」(全ての事象は永遠に同じことを繰り返すという思想)を支えているのは、この深層心理なのである。つまり、深層心理の志向は、習慣的な行動なのである。ルーティーン通り、行動することなのである。それでは、なぜ、深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを志向するのか。それは、その方が、安全だからである。人間にとって、深層心理による習慣的な行動の方が安全なのである。だから、夫が会社をを辞めて新しい仕事を始めようとすると、妻は、決まって、反対するのである。ルーティーンの生活が破られるからである。妻の中には、深層心理が怒りの感情と離婚という行動の指令という自我の欲望を生み出す者もいる。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望がある。それは、深層心理には、自我の対他化という志向性(思考の方向性)で現れる。来年、日本で、オリンピックが開催される。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、それは、日本選手も自分も、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在が認められると思うから、嬉しいのである。それが、愛国心である。愛国心とは、国民という自らの自我を愛する心なのである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰された人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。円谷光吉は、国民の愛国心に答えられなくなり、国民の怒りや落胆を恐れて、自殺したのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。それは、深層心理には、対象の対自化という志向性(思考の方向性)で現れる。教諭が校長になろうとするのは、学校という構造体の中で、生徒・教諭・教頭という他者を校長という自我で対自化し、支配し、充実感を得たい欲望があるからである。大工は、材木という物を対自化し、加工し、家を建てるのである。哲学者は人間と自然を対象として、哲学思想で捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として、心理思想て捉え、支配し、科学者は自然を対象として、科学思想で捉え、支配しようとする。だから、校長の中には、自らに刃向かう教諭を、怒りの感情で、他校へ移動させる者がいるのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。それは、深層心理には、自我と他者の共感化という志向性(思考の方向性)で現れる。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育むこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、逆に、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持った者の中には、相手から別れを告げられたために、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と復讐しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、失恋した者を復讐の行動の指令の通りにストーカーとして動かし、傷心から解放されようとする者がいるのである。このように、人間は、欲動に基づいて、深層心理が思考しているから、人間の評価は正当ではないのである。人間は、自らの欲動に合致すれば高い評価を与え、自らの欲動に抵触すれば低い評価を与えるのである。だから、同じ構造体において、新しいことが高く評価されることは極めて少ない。なぜならば、新しいことのほとんどは、他者の欲動に抵触するからである。人間は、好評価・高評価を受けたいという欲動の第二の欲望から、新しいことを創造したり始めたりするのだが、それは、逆に、往々にして、他者の欲動の第二の欲望を阻害するから、悪評価・低評価を受けるのである。他者も、また、好評価・高評価を受けたいという欲望を有するのである。人間は、誰しも、常に、自らが好評価・高評価を受けたいと思っているから、他者が評価されることに嫉妬心を覚え、他者の業績を正当に評価できないのである。だから、確かに、どのようなことに対しても、欲動の第二の欲望が阻害されない人は新しいことを正当に評価し、誰に対しても、欲動の第二の欲望を阻害しない新しいことは正当に評価されるのであるが、そのような人は存在せず、そのような新しいことは極めて稀なのである。また、人間は、誰しも、常に、安定した構造体の中で、安定した自我を持して、暮らしていたいという欲動の第一の欲望を持っているから、新しいことが、構造体の安定を脅かしたり、自我の安定を脅かしたり可能性が高いので、新しいことに反対するのである。他者から好評価・高評価を受けたいという欲動の第二の欲望や安定した構造体の中で安定した自我を持して暮らしていたいという欲動の第二の欲望は、全ての人間の深層心理に存在しているから、誰一人として、他者が新しく創造したり始めたりしたことに対して、正当な評価をしていないのである。




人間は感情の動物だと言われる以上に、感情が行動や価値観を決定している。(自我その453)

2021-01-11 08:45:18 | 思想
人間は感情の動物だと言われるが、それ以上に、人間の行動や価値観を決定している。人間は、誰しも、他者に褒められると喜び、他者に貶されると心が傷付く。だから、人間は、誰しも、他者に褒められることをし、他者に貶されることをしないでおこうとするのである。殺人という行為は、他者から非難され、罰せられ、心身ともに痛むから、人間は、行わないようにするのである。しかし、他者から非難され、罰せられとわかっていても、敢えて、憎しみのあまり、殺人を犯す人も存在する。それは、憎しみという心の痛みから、解放されたいがためである。戦争時において、敵兵を殺せば殺すほど褒められるから、競って、敵兵を殺すのである。戦争が終わると、敵兵を殺した人が、よく、「本当は殺したくなかったのだが、殺さなければ、自分が殺されていた」と言い訳するが、それは嘘である。真に殺人を厭う人ならば、戦争に反対し、戦地に赴かないからである。平和時においては、殺人という行為は、他者から非難され、罰せられるが、戦争時においては、敵兵を殺せば支配欲を満足させることができ、敵兵を殺せば殺すほど褒められるから、積極的に敵兵を殺すのである。人間が戦争に反対するのは、自らも殺される可能性があるからである。政治権力者がいともたやすく戦争を起こすのは、自らは命令するだけで、戦地に赴くことがなく、殺される可能性がほとんど無いからである。戦争に負けても、殺される可能性が低く、戦争に勝てば、国民から拍手喝采を浴びるから、戦争を起こすことをためらわないのである。女性が「私の友人は美しい人だ」と言う友人に実際に会ってみると、たいていの場合、それほど美しくない。しかし、それは、彼女が嘘を言っているのでは無く、彼女がその友人が好きだから美しく見えたり、その友人の容姿が彼女に嫉妬心を覚えさせず、彼女に安心感を与えているからである。人間が「良い人だ」という人は、たいていの場合、道徳的に優れている人を意味していず、その人間にとって都合の良い人であったり、その人間が好きな人である。人間は、誰しも、花を見て、感動することがある。感動したから、その花を美しいと思うのである。美しい花を見たから感動したのではなく、感動したからその花は美しく見えるのである。覚醒剤・麻薬に手を出す人の多くは、憂鬱な気分や激しい疲労感から解放されたいがためである。覚醒剤・麻薬に手を出す人は、露見すれば、他者から非難され、罰せられとわかっているが、あまりに憂鬱な気分や激しい疲労感に堪えられないために、それから解放されたくて、敢えて、危険を冒すのである。また、憎しみのあまり、殺人を犯す人も存在する。それは、露見すれば、他者から非難され、罰せられとわかっているが、憎しみという心の痛みから解放されたいがために、敢えて、犯罪に手を染めるのである。人間がいじめをするのは、楽しいからである。いじめの対象のなる人は、嫌われている人か弱い人である。しかし、嫌われている人の多くは、正当な理由無く、嫌われているのである。嫌っている人にひどいことをしたからではなく、嫌っている人の深層心理が嫌っているから、嫌われているのである。だから、嫌っている人も、嫌っている理由がはっきりわからず、何となく、嫌いであり、その人に会うのが嫌だから、いじめることによって、嫌いという不快感から解放されれようとしているのである。弱い人がいじめられるのには、二つの理由がある。一つは、いじめるている人は、弱い人が抵抗しても、負けることが無いから、いじめることが楽しいのである。もう一つは、人間には、弱い人を見る人と、同情する人ばかりではなく、嫌になる人がいるからである。嫌になった人は、弱い人が見ると、いじめに走り、嫌という不快感から解放されようとするのである。現在、世界は、爆発的に人口が増えているが、セックスをすることが快楽だからである。多くの人間は、子供がほしいから、セックスをするのではなく、快楽を求めて、セックスをし、その結果、子供が誕生することになるのである。子供ができた後を考えずに避妊具を付けずにセックスをし、子供をほしくなくても避妊具を付けずにセックスをするのは、セックスの快楽が大きいからである。セックスの快楽が大きいから、人間は後先を考えずにセックスをし、爆発的に人口を増やしているのである。つまり、感情や心境が、人間の行動や価値観を決定しているのである。それでは、感情とは何か。感情とは、心境と同じく、情態性である。情態性とは、人間の心の状態である。つまり、感情と心境は、情態性という心の状態を意味しているのである。感情は、感動や喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる情態性である。心境とは、爽快、憂鬱など、比較的長期に持続する情態性である。深層心理は、常に、感情や心境という情態性が覆われているからこそ、人間は自らを意識する時は、常に、ある感情やある心境という情態性にある自分として意識するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は感情や心境を意識しようと思って意識するのではなく、ある感情やある心境が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある感情やある心境という情態性にある自分として意識するのである。つまり、感情や心境の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある感情という情態性にある自分やある心境という情態性にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する感情や心境が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時、一人でいてふとした時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。自分の心を覆っている心境や感情と同時に気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、感情や心境こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、思考したり活動をしたりしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと行為自体がその存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明という行為そのものが、既に、存在を前提にして思考しているのである。つまり、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているからこそ、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことができるのである。自分の存在は、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は思考して、自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが表層心理で自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。さて、深層心理は、常に、感情や心境という情態性が覆われていて、感情は、感動や喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる情態性であり、心境は、爽快、憂鬱など、比較的長期に持続する情態性であるが、心境は、全く変化しないわけではない。心境は、深層心理がその心境に飽きた時に、さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の中で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間の、自らを意識すること、自らを意識して思考すること、意志という自ら意識して思考した結果を、表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理の意志では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心の意志では、嫌な心境を変えることができないから、何かをすることによって、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同義語である。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行おうとしても、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。そこで、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出すのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動している。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、活動しているのである。人間は、常に、構造体に所属し、深層心理が、ある心境の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を叶えようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我があるのである。心境とは、爽快、憂鬱など、比較的長期に持続する情態性である。情態性とは、人間の心の状態を表す。情態性には、感情と心境がある。感情は、喜怒哀楽や感動など、突発的に生まれる情態性である。人間は、常に、感情もしくは心境という情態性の中にあるが、一般に、感情はすぐに消えることが多いから、心境の情態性にあることが多いのである。人間は、感情や心境によって、自らの心が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。しかし、人間は、自らの意志によって、感情や心境を生み出すことはできない。感情や心境は、人間の深層心理によって生み出されるからである。深層心理が感情や心境を生み出すのである。意識や意志は感情や心境を生み出すことはできないのである。意識や意志は表層心理に属するからである。人間が自らを意識することが表層心理であり、自らを意識しての思考が表層心理での思考であり、表層心理での思考の結果が意志である。深層心理は、人間が得意の感情や心境の情態性にある時には、現在の情態性を維持しようと思考して、行動の指令を生み出し、現在の行動を維持しようとする。人間は、不得意の感情や心境の情態性の時には、現在の情態性から脱却しようと思考して、行動の指令を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、表層心理によって自らの感情や心境を意識するが、表層心理の意志は、感情や心境に直接に働き掛けることはできないのである。すなわち、人間は、誰しも、自らの意志で、感情や心境という情態性を維持することも変えることもできないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、行動の指令を生み出し、それによって、人間を動かし、感情や心境という情態性を維持しようとしたり変えようとしたりするのである。つまり、深層心理は、感情や心境という情態性を生み出すばかりでなく、得意の感情や心境の情態性の時には、現在の情態性を維持するように、思考して、人間を行動させようとし、不得意の感情や心境の状態の時には、現在の情態性から脱却するように、思考して、人間を行動させようとするのである。すなわち、深層心理は、人間に、何かをさせることによって、感情や心境という情態性を維持しようとしたり変えようとしたりするのである。快感原則とは、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。快感原則は、道徳観や社会的規約を有していない。だから、深層心理も、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けようとして、すなわち、快感原則という欲望を満たそうとして、瞬間的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を、すなわち、自我を動かそうとするのである。それでは、人間は、すなわち、深層心理は、どのような時に、快感原則という欲望を満たすことができるのか、すなわち、快楽を得ることができるのか。それは、欲動にかなった時である。だから、深層心理は、欲動に基づいて、思考するのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、日常生活において、欲動の四つの欲望のいずれかにかなったことが起きれば、快楽を得ることができ、満足でき、また、日常生活において、快楽を得るために、欲動の四つの欲望のいずれかにかなうように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を、すなわち、人間を動かそうとするのである。しかし、深層心理は、日常生活において、欲動の四つの欲望のいずれかと逆行したことが起きれば、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情とその状況を変えるような行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を、すなわち、人間を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとするのである。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという欲望があるが、それは、自我の保身化という作用で現れる。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。自我を確保・存続・発展させたいからである。だから、逆に、リストラにあうと、会社員という自我を持った人の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と会社やリストラを行った上司に復讐しろという行動の指令を生み出し、自我を、すなわち、会社員を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望があるが、それは、自我の対他化という作用で現れる。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。だから、逆に、有名大学受験に失敗した受験生の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と会社や有名大学受験を勧めた教師を非難しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、受験生を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望があるが、それは、対象の対自化の作用として現れる。国会議員が総理大臣になろうとするのは、日本という構造体の中で、国民という他者を総理大臣という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。建築家は、樹木やレンガという物を対自化し、建築材料として利用するのである。哲学者は人間と自然を対象として捉え、支配しようとし、科学者は自然を対象として捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として捉え、支配しようとするのである。だから、逆に、総理大臣になろうとしてなれなかった国会議員の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と総理大臣になった国会議員を非難しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、総理大臣になろうとしてなれなかった国会議員を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望があるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。だから、逆に、別れを告げられた恋人の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と復讐しろというストーカーの行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、失恋した者を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手に復讐しろ、相手を非難しろという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、深層心理が思考して生み出した怒りの感情と相手に復讐しろ、相手を非難しろという行動の指令を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した怒りの感情の中で、深層心理が生み出した相手に復讐しろ、相手を非難しろという行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。人間は、表層心理で思考する時は、必ず、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。人間は、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンから外れた行動を起こさなければならなくなった時は、必ず、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ルーティーンから外れた行動を起こさなければならなくなったのは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。人間は、ルーティーンから外れた行動を起こさなければならなくなった時だけでなく、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時にも、自らの存在を意識する。それは、自我にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時でも、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。現実原則は、長期的な展望の下で、現実的な利得を求める欲望である。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれない時があるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。しかし、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるために、怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自分の感情を持てあますことから逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。


人間の存在の問題の原点について。(自我その451)

2021-01-06 18:33:36 | 思想
人間は、誰しも、自分の意志で生まれてきたのではない。気が付いたら、そこに存在しているのである。しかし、芥川龍之介の『河童』という小説では、河童の胎児には、誕生するか誕生しないでおくかの選択権が与えられている。河童の父親が、胎児に、誕生する意志があるかどうかを尋ね、胎児が、熟考の末に、「生まれたくない」と答えると、存在は消滅してしまう。河童は、人間よりも進化している。人間には、自ら誕生するか否かの選択権は与えられていない。しかし、人間は他の動物と異なり自ら死を選択できると言う人がいる。つまり、死を選択できることが人間の特権だと言うのである。しかし、それは選択ではない。肉体は常に生きようとしているのに、精神が死を選択したのである。精神が苦しいから、自殺を選択したのである。つまり、自殺を選択させられたのである。だから、自殺を図ったものは、皆、死の直前まで、肉体の苦痛があるのである。また、子は、親を選択することはできない。誕生するか誕生しないかを選択できないのだから、親の選択権が与えられているはずがないのである。だから、「親に感謝しなさい」と教師は言い、親自身もそれを期待しているが、子には、この世に誕生する選択権が無いのだから、親に感謝するいわれは無い。良い親の家庭に生まれれば、幸運だと見なすしか無い。かつて、大人たちは、少年・少女に対して、「親の恩は、山より高く、海より深いのです。親に感謝しなさい。」とよく言ったが、それは、言外に、親の言う通りにしなさいと言っているのである。しかし、子は、誕生の選択権も親の選択権も有していないのだから、養育してくれているということで親に感謝するいわれは無く、親の言う通りにする義務も無いのである。親が正しいことを言っていると思った時、それに従えば良いのである。また、親も子を選択することはできない。親は、生まれてきた子は、どんな子であろうと、我が子として育てるしか無いのである。どのような親や子であろうと、家族という構造体を形成し、その中で、父・母・息子・娘などの自我を持って行動するしか無いのである。つまり、人間は、家族という構造体も父・母・息子・娘などの自我も選択することはできないままに、それらを持して生きていくしか無いのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている。まさしく、人間は、押し付けられた家族という構造体の中で、押し付けられた父・母・息子・娘などの自我を大人しく受け取って、自我を自分として生きていくしか無いのである。言うまでも無く、人間が所属している構造体は家族だけではなく、持している自我は父・母・息子・娘だけではない。人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我の人が存在し、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我の人が存在し、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我の人が存在し、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我の人が存在し、仲間という構造体では、友人という自我の人が存在し、カップルという構造体では恋人という自我の人が存在し、夫婦という構造体では夫と妻という自我が存在する。ある人は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、母という自我を持ち、学校という構造体では、教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある人は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、夫という自我を持ち、会社という構造体では、課長という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って、行動しているのである。人間は、押し付けられた構造体の中で、押し付けられたも自我を大人しく受け取って、自我を自分として生きていくしか無いのである。だから、人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、常に、押し付けられた構造体に所属し、押し付けられた自我を持って行動しているのである。人間は、自我の動物であり、自我から離れて生きることはできないのである。人間は、自我そのものなのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我を持って、他者と関わりながら。暮らしているのである。しかも、他者も、他者その人ではないのである。他者の自我である。すなわち、他我である。例えば、家族という構造体の中で、息子という自我を持った人は、母という他者に接しているが、息子は、彼女を母という自我で接しているのである。息子は、彼女を母という他我としか見られず、彼女その人を知らないのである。そもそも、人間には自分そのものは存在しないように、彼女にも彼女その人は存在しないのである。彼女も、別の構造体に行けば、別の自我を持つだけなのである。彼女も、また、常に、押し付けられた構造体に所属し、押し付けられた自我を持って行動しているのである。しかも、自我を動かすものは、深層心理である。深層心理は、一般に、無意識と言われ、その人自身がその存在にもその動きにも気付いていない、思考の動きである。だから、人間は自己としても生きていないのである。自己とは、人間が、自らの意志で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。自らを意識しての思考が、表層心理での思考である。表層心理での思考の結果が、意志である。もしも、人間が、表層心理で思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるだろう。しかし、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。人間は、自己として存在できないのである。人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我としての人間は、それに動かされて、行動しているのである。まず、自我の欲望であるが、人間は、自我として生きているから、自我の欲望が、生きる原動力になっているのである。自我の欲望が感情と行動の指令が合体していものから成り立っているから、感情が行動の指令を自我に実行させる動力になっているのである。人間は、深層心理が生み出した感情に動かされ、深層心理が生み出した行動の指令を実行するように、生きているのである。深層心理は、自我にこだわり続けるのである。深層心理が自我を主体に立てるのは、自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとしているからである。感情は深層心理によって生み出され、人間は、表層心理では、直接に働き掛けて、感情を、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な感情を変えることができないから、気分転換をして、感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、感情の転換を行う時には、直接に、感情に働き掛けることができず、何かをすることによって、感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、感情を変えようとするのである。次に、快感原則であるが、深層心理が自我が快楽を得るように思考することを、スイスが活躍した心理学者のフロイトは快感原則と呼んだ。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。それでは、深層心理は、自我はどのような時に快楽を得ることができるのか。それは、欲動にかなった時である。だから、深層心理は、欲動に従って思考するのである。人間は、快楽を喜ばしい感情として味わい、不快を忌み嫌うべき感情として逃れようとし、快楽を得ることが行動の基盤になっているが、それは、行動の規範になり得ないのである。なぜならば、欲動にかなえば、快楽を得られるからである。欲動には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しないから、人間は、悪事を犯しても、快楽を得ることができるのである。そこにも、人間の存在の問題の原点が存在するのである。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望についてあるが、これは、自我の保身化という作用をし、ほとんどの人の日常生活を、無意識の行動によって成り立たせているのである。毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むと言っても、毎日が、必ずしも、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、社員が上司から営業成績が悪いと叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情を生み出すとともに反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。超自我も、また、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発しているのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの思想であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。そして、社員は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、謝罪して、ルーティーンの生活を続けるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。高校生が嫌々ながらも高校に行くのは、高校生という自我を失いたくないからである。次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望についてであるが、これは、自我の対他化の作用をし、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているのである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。男子高校生は、同級生から馬鹿だと言われると、思わず、拳を握りしめることがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層肉体の意志による、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。人間は、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすとわかっていても、深層心理が生み出した感情が、深層心理の超自我も表層心理での思考を圧倒し、深層心理が生み出した行動の指令のままに、自我が動かされることがあるのである。人間の表層心理での思考、すなわち、理性には限界があるのである。ここに、人間の存在の問題の原点があるのである。次に、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲動の第三欲望についてであるが、これは、対象の対自化の作用をし、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。有の無化には二つの作用がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を思うように動かすことことができれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。校長の快楽は、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を支配しているという満足感である。社長の快楽は、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配しているという満足感である。さらに、わがままも、他者を対自化しようという欲望から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることが物を支配しているということなのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えるということが現象を支配していることなのである。カントは理性という志向性で、ヘーゲルは弁証法という志向性で、マルクスはプロレタリア革命という志向性で、ハイデッガーは存在論という志向性で、フロイトは無意識という志向性で、現象を支配しようとしたのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの作用の意味がある。その一つは、無の有化の作用であり、もう一つは有の無化の作用である。「人は自己の欲望を心象化する」の無の有化の作用の意味は、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在が不安だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子は自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。「人は自己の欲望を心象化する」の有の無化の作用の意味は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、服役しているうちに、犯罪を起こしていないと思い込んでしまうのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするためにあるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合って、信頼できる構造体を作ることにあるのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じ、自我の存在が確認できるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという目的であり、表層心理で、抑圧しようとしても、抑圧できなかったのは、屈辱感が強過ぎたからである。つまり、ストーカーになる原因は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。二人が仲が悪くても、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。さて、人間は、ルーティーン通りの行動を行っている間は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動するのである。しかし、深層心理が怒りなどの過激な感情とともに侮辱しろ・殴れなどのルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。それでは、なぜ、深層心理が過激な感情とルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識するのは、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」という。同じように、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。