あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

それ以上遡及できないもの・こと・ところ、近づけないもの・こと・ところについて。(その456)

2021-01-16 12:33:14 | 思想
人間の知的能力には、先天的に、限界がある。それは、人間は、先天的に、それ以上遡及できないもの・こと・ところ、近づけないもの・こと・ところを有し、それらに動かされて生きているからである。新約聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。「この世は神の言葉によって作られた」という意味である。この世は、神の言葉以上に遡ることができないのである。ウィトゲンシュタインは「語りえないものについては沈黙しなければならない」と言う。「神、倫理的なこと、論理そのものなどについて、誰しも語ることができないから、語ってはいけない。」という意味である。神、倫理的なこと、論理そのものなどは、感じ取ることができ、示すことはできるが、説明できないと言うのである。パスカルは「私はあそこにいず、ここにいるのに対して、恐れ、おののく。というのは、なぜ、あそこにいず、ここにいるのか。なぜ、あの時にいず、今この時にいるのか。全くその理由がわからないからである」と言う。確かに、人間が、この時間、この空間にいることの必然性は存在しない。自分が選んだことでもなく、誰かに連れてこられたわけでもない。気がついたら、そこにいるのである。そこに、恐怖、驚愕を覚えるのは、当然のことである。そもそも、人間の存在の必然性の無さは、誕生から始まっている。芥川龍之介の「河童」という小説には、河童の世界では、お腹の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ねることになっている。その時、誕生の意志を示したものだけが生まれてくる。だから、生まれてきた河童には、誕生の責任はある。しかし、人間は、誰一人として、誕生の意志を尋ねられていない。だから、誕生の責任を有していない。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからない。だから、母親の責任でもない。しかも、生きたいという意志を持っていても、人間は、誰一人として、死を免れることはできない。しかも、死は、突然かつ偶然、必然的にやって来る。しかし、人間は、自殺という意志による行為によって、自らに死をもたらすことができる。つまり、人間は、意志無く誕生させられ、生への意志があっても死は確実に訪れ、死への意志があれば確実に死ねるのである。人間は理不尽な存在なのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている。まさしく、人間は、押し付けられた人生を、自分の人生として生きるしかないのである。さらに、李徴は、次のように、反省している。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」李徴は、尊大な羞恥心という自らの性情をコントロールできなかったために、虎という尊大な羞恥心を持っている動物になってしまったと言う。尊大な羞恥心とは、他者から見れば傲慢に見えるが、実際は、自信が無く、小心翼々として暮らしている人の内心を言う。性情とは、簡単に言えば、性格である。李徴は、傲慢に見えるが、実際は、自信が無く、小心翼々とした性格をしていて、それコントロールできなかったために、自分自身を駄目にし、妻子を傷つけ、友人を苦しめることになってしまったと言う。しかし、尊大な羞恥心という性格は、李徴が求めたものではない。気付いた時には、既に、李徴の中にあったのである。しかし、李徴は、自ら求めた性格でなくても、それに振り回されて、生きていくのである。それでは、なぜ、人間は、自らの性格をコントロールできないのか。それは、性格とは、深層心理の動きであり、意志では、どうすることもできないからである。深層心理とは、人間の無意識の思考という心の働きである。つまり、人間は、無意識という深層心理の思考という心の働きによって、動かされているのである。人間には、深層神経の敏感な人と鈍感な人が存在する。深層心理の敏感、鈍感は、先天的なもので、人間は、意志によっては、どうすることもできない。李徴は、深層神経の敏感な人である。深層神経の敏感な人は、感情の起伏が激しく、心が傷付きやすい。深層神経の敏感な人は、感情の起伏が激しく、心が傷付きやすいから、その傷付いた心を早く回復させるために、他者を攻撃するのである。だから、李徴は、自らの性情を尊大な羞恥心だと言うのである。カントは、人間は物自体を捉えることができないと言う。人間は、志向性によって物を捉えているから、物自体を捉えることができないのである。志向性とは、対象に向かう観点・視点である。人間は、物という対象だけでなく、他者・現象という対象も、志向性によって、捉えている。それを、有の無化作用と言う。志向性は、深層心理に存在している。だから、人間は、物自体だけでなく、他者自体も現象自体も、捉えることができないのである。カントの有名な言葉にコペルニクス転回がある。コペルニクス的転回は、カントが自らの認識上の立場を表した言葉である。カントは、それまで、人間の認識は対象に依拠していると考えられていたが、対象の認識は、人間の主観の構成によって可能だとした。この認識論の立場上の転回を、コペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえたのである。カントは、時間と空間が現象を構成する主観の直観形式と考えた。つまり、カントは、時間的、空間的という志向性で現象を見るから、現象が、時間的、空間的に見えてくると言うのである。深層心理には、無の有化作用も存在する。人間は、志向性によって、実際に存在している他者・物・現象をありのままに捉えることはできないのと同様に、実際には存在していない他者・物・現象も、無の状態で、空の状態で、ありのままに捉えることはできないのである。しかし、人間は、実際に存在している他者・物・現象に対してと、同様に、自ら意識して思考して、自らの意志によって、実際には存在していない他者・物・現象を存在しているように思い込むということはできない。人間の意識しての思考、意志を、表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、実際には存在していない他者・物・現象を存在しているように思い込むということはできないのである。実際には存在していないも者・物・現象が存在していてほしいという深層心理の欲望がが、深層心理をして、存在しているようにに思い込ませるのである。これが、深層心理による、無の有化作用である。つまり、人間は、深層心理が有する存在していいてほしいという欲望によって、無意識に、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込んでしまうのである。しかし、深層心理は、恣意的に、実際には存在していない他者・物・現象を存在しているように思い込むのではない。有の無化作用と、同様に、無の有化作用にも、志向性が存在するのである。その志向性とは、他者・物・現象の存在が、深層心理にとって絶対必要不可欠であり、それが存在すれば、深層心理に、すなわち、人間に、安らぎを与えるということである。無の有化作用による存在の典型として、神の存在がある。人類が神を創造したのは、深層心理が、神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。犯罪者の中には、自らの犯罪を正視するのは辛いから、いつの間にか、自分は犯罪を起こしていないと思い込んでしまう人が出現するのである。ストーカーは、夫婦という構造体やカップルという構造体が壊れ、夫もしくは妻や恋人いう自我を失うのが辛いから、このような気持ちに追い込ませたのは相手に責任があり、自分には付きまとったり襲撃したりする権利あると思い込んで、実際にその行為に及んでしまうのである。ガモフは、膨張宇宙、宇宙背景放射、元素の存在比などを証拠として、今日の宇宙は、宇宙の初めにあったビッグバンという大爆発による高温・高密度の状態から膨張してできたとという説を提唱した。宇宙物理学者たちは、宇宙開闢論がほしいから、深層心理から、信じ込んだのである。宇宙の背景放射の中に全くの黒い穴が存在するのが発見されたが、シュワルツシルトは、それは、重力が強いため、光を含めいかなる物も、そこから脱出できない面(事象の地平面)が存在するとし、それをブラックホールと名付けた。宇宙物理学者たちが、その解がほしいので、深層心理から、信じ込んだのである。人間は、誰しも、自らの存在を自分だとしている。しかし、人間は、自分として、活動できない。自我として、活動しているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動しているのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものの活動は存在しないのである。



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