あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自らの精神構造を知ることによって、初めて、自らを知ることができる。(自我その460)

2021-01-25 15:27:56 | 思想
人間は、誰しも、自分で考えて行動していると思っている。しかし、人間には、自分そのものの行動は存在しない。人間は、自我として、行動しているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動している。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。人間は、他者を、他者の自我としてみている。他人とは、構造体外の人々である。人間は、他人を、その人が所属している構造体の中の自我としてみている。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、おのおのの構造体における自我としての行動は存在するが、自分そのものの行動は存在しないのである。また、人間は、自己としても存在することもない。自己として存在するとは、自由に行動でき、主体的に思考しているということである。しかし、人間は、自我として存在し、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、自由になれず、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。それでも、人間が、自らに、自分の存在や自己の存在があると思い込んでいる。それは、人間は、自分の存在に執着し、自己の存在に憧れているからである。執着の念、憧憬の念が、実際には存在していないものを存在しているように思わせるのである。神の存在、来世の存在と同じ現象である。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して行動しているが、人間は、表層心理で思考して、行動しているわけではない。表層心理とは、自らを意識することであり、自ら意識して思考することであり、自らの意志である。すなわち、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの意志によって、行動していないのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれに動かされて、行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの思考である。すなわち、人間は、無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。人間は、自らの深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望は、感情と行動の指令の合体したものであり、感情が行動の指令を実行させる推進力になり、人間の活動の原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。人間は、生きている間、深層心理は感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かし続けるのである。もしも、人間が自我の欲望から逃れることができることがあったり、深層心理が自我の欲望を生み出すことがなくなるようなことが起これば、人間は生ける屍になるしかないのである。だから、人間は、自らの心に、あることをしたいという自我の欲望をどのようにしたら生み出すことができるだろうかと考えても、解答が出てこないのである。この問いかけ自体が間違っているのである。なぜならば、あることをしたいという自我の欲望は、人間は、自らの意志で、自ら意識して思考して、作り出すことができないからである。人間の心の奥底にあり、人間が意識していない、深層心理が、あることをしたいという自我の欲望を生み出しているのである。つまり、人間は、自らの意志や意識という表層心理があることをしたいという自我の欲望を生み出せず、無意識という深層心理がそれを生み出しているのである。つまり、深層心理が思考して、あることをしたいという自我の欲望を生み出しているのである。だから、受験生が勉強したいという自我の欲望が起こらなくても、自らを責めるのではなく、深層心理から勉強をするような気持ちを起こさせるようにすべきなのである。睡眠時間を増やしたり、勉強する時間帯を変えたり、勉強する場所を変えたり、部屋の環境を変えたり、机の位置を変えたりなどして、深層心理が動くようにすべきなのである。だから、確かに、人間は、自らの意志や意識という表層心理で思考して、あることをしたいという自我の欲望を生み出していると思える時があるが、表層心理で思考して生み出したと思える自我の欲望も、実際は、深層心理が生み出した自我の欲望を表層心理で修正したものであるか、深層心理が自我の欲望を生み出しやすいように表層心理が導いたものなのである。しかし、人間は、表層心理で修正した深層心理が生み出した自我の欲望も表層心理が導き深層心理が生み出した自我の欲望も、表層心理でオリジナルに生み出したと思っているから、人間は、誰しも、時には、自らの心に、怒りの感情とともに他者を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望が湧き上がってくることがあると、自らの心の醜さに驚き、自らに絶望するのである。しかし、自我の欲望は深層心理によって生み出されるから、時には、怒りの感情とともに他者を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望が生み出されることがあるのである。稀には、深層心理の敏感な人や深層心理が激震した人は、深層心理が、怒りの感情とともに他者を殺せという行動の指令という自我の欲望が生み出すのである。しかし、この後、人間は、深層心理の超自我というルーティーン通りの行動をしようとする機能や表層心理での自我に利益をもたらそうとする現時原則に基づく思考から、他者を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧するのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間は、その自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自らの意志によって自らを意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自らの意志によって自らを意識しながら思考したことを意志として実行し、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、自らの意志によって自らを意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で審議することなく、行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が多いのである。ドイツの哲学者のニーチェは「全ては永劫回帰する」と言うが、人間の日常もそれに当てはまるのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、自我の欲望は、時には、深層心理の超自我の機能、表層心理での現実原則に基づく思考によって、軌道修正されることがあるのである。これから、心境、欲動、快感原則、感情と行動の指令、超自我、表層心理、現実原則について、順に、説明していこうと思う。まず、心境であるが、心境は気分とも表現される。心境は、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動の四つの欲望のうちの第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、愛欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、それは、自我の保身化という作用として現れる。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、正義よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、その辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、自我の対他化という作用として現れる。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。さらに、自我の対他化には、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探るという作用がある。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そして、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわず、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なり、苦悩し、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。すなわち、現実逃避することによって苦悩から逃れようとするのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、それは、対象の対自化という作用として現れる。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。さらに、有の無化には二つの作用がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの作用の意味がある。その一つは、無の有化の作用であり、もう一つは有の無化の作用である。無の有化の作用とは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。「人は自己の欲望を心象化する」の有の無化の意味は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。さて、対象の対自化の作用を徹底させたのが、ニーチェの「権力への意志」という思想である。確かに、人間は、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、他者の視線にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとする。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。次に、快感原則であるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。深層心理は、欲動という四つの欲望を満たすことで、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。快感原則とは、ひたすらその時その場で、欲動の四つの欲望のいずれかを満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我の欲望をもって自我を動かそうとするのである。深層心理が生み出す感情の最も激しいのは怒りの感情であるが、怒りの感情それだけで生み出されることは無い。常に、相手を殴れなどの行動の指令を伴うのである。深層心理が怒りの感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我に提出し、自我に相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになるが、フロイトの言うことが正しいとしても、常に、快感原則が先に動き、超自我はそれを軌道修正するものとして、後に作用することがあるのである。なぜならば、超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用だからである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、再び、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかという苦悩に陥るのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自分の感情を持てあますことから逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。しかし、自宅が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在するが、それも、自我の欲望による行動である。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのである。深層心理が生み出した自我の欲望がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、同じ人も、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。人間は、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我あであるから、人間にとって、構造体と自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。自我が安定するとは、自我の欲望が満たされているということであるから、人間は、自我の欲望を満たすために生きるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。だから、人間にとって、すなわち、自我にとって、他者は、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としての存在なのである。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたい、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるからである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、人間は、意識して、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役を演じているのである。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役を演じているのである。なぜならば、自我は深層心理に浸透し、人間と自我は一体化しているからである。深層心理が、自我と一体化し、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。人間は、誰しも、常に、さまざまな構造体に所属して、その構造体に応じて、さまざまな自我を所有しているが、深層心理によって生み出された感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされる存在でしかないのである。だから、人間は、誰しも、「あなたは何。」、「あなたは誰。」と尋ねても、一定の答は返ってこないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追及し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げているだけなのである。