あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、壊れやすい存在者である。(自我その459)

2021-01-21 15:23:13 | 思想
「君子危うきに近寄らず」という諺がある。この諺は、立派な人は身を慎み、危険なところに近寄ろうとしないものだという意味である。それでは、なぜ、君子と言えども、危険なところに行ってはいけないのか。そこへ行くと、君子が君子でなくなるからである。君子の対義語が小人であり、小人とは、徳・度量の無い人を意味する。すなわち、君子と言えども、危険なところに行けば、徳・度量の無い人になってしまうのである。つまり、人間は、壊れやすい存在者なのである。それでは、危険なところとは、どのようなところであるか。そこは、自らが危険な心の状態に陥りやすく、危険な人が存在するところである。
人間にとって、危険な心の状態とは、傷心の感情の状態、怒りの感情の状態である。深層心理の敏感な人の方が、深層心理の鈍感な人よりも、心が傷付きやすく、感情の起伏が激しいから、傷心の感情の状態、怒りの感情の状態に陥りやすいのである。すなわち、深層心理の敏感な人は、危険な心の状態に陥りやすいのである。また、危険な人とは、自らが嫌っている人、自らを嫌っている人である。人間は、自らが嫌っている人、自らを嫌っている人と同じ所にいだけで、尋常な精神状態でいられないのである。さて、人間には、深層心理の敏感な人と鈍感な人が存在する。深層心理とは、人間の無意識の心の働き、無意識の思考である。人間の精神活動は、深層心理の思考から始まるのである。人間は、意味も無く、理由もなく、怒りの感情を持つことは無い。それは、決まって、傷心から始まるのである。深層心理が傷つけられたからである。怒りは、深層心理が思考して生み出した復讐の感情である。人間は、誰しも、深層心理には、他者から認められたい、評価されたいという欲望がある。しかし、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。そして、深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、激しく罵倒したり、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働くことがあるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、その傷付いた心を早く回復させるために、怒り、傷つけた人を激しく罵倒したり、乱暴を働いたりするのである。怒りは、深層心理が生み出した感情であり、自らの心を傷つけた相手に対する復讐を実行させる力になるものである。怒りの感情が、自らの心を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自らの立場を上位に立たせようとするのである。それは、自らの立場が下位に落とされた、心が傷付いたからである。だから、深層心理は、怒ると、徹底的に自らの心を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自らの心を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自らの心を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手の弱点を突いて下位に落とそうとするのである。女性に対しては、「ブス」、「デブ」などと侮辱したり、男性に対しては、「能なし」、「ちび」などと侮辱したり、相手が抵抗するまもなく殴ったりするのである。もちろん、復讐した後は、自らが発した侮辱の言葉や暴力によって、相手が深くうらんだり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくすることが多い。しかし、その時は、怒りに駆られて、そのことまで思いを馳せる余裕が無いのである。なぜならば、深層心理は、侮蔑の言葉や暴力によって、相手を一瞬にして討ち倒そうとすることだけを考えているからである。怒りは、復讐によってその時の傷心から逃れるための感情であるから、相手が言葉によって傷付くならば言葉を投げかけ、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりするのである。侮蔑の言葉や暴力で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。それでは、人間は、どのような時に、心が傷付くのか。すなわち、深層心理は、どのようなことで傷付くのか。それは、注意されたり、侮辱されたり、殴られたり、陰口を叩かれたりすることなどである。それでは、なぜ、人間は、そのようなことで、心が傷付くのか。すなわち、なぜ、深層心理は、そのようなことで、傷付くのか。それは、自らの立場が下位に落とされたからである。つまり、プライドが傷付けられたからである。換言すれば、人間は、他者に認められようと生きているのである。それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理は、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。怒りは、深層心理が傷付いたから、その代償を相手に求め、相手の心をずたずたにして、自らの心を癒やそうとするのである。言わば、相手によって自らの立場が下位に落とされたから、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようとするのである。人間は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自らの心を傷つけた相手に対して、怒り、復讐を考えるのである。すなわち、深層心理は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自らの立場を下位に落とした相手に対して、怒り、復讐し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようと考えるのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、日本という国などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では支店長・行員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、日本という国の構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。だから、人間は、常に、他者から心が傷つけられ、怒りでもって、復讐する可能性があるのである。人間は、すなわち、深層心理は、一生、この自我にこだわって生きていくのである。しかし、傷付きやすい心を持っているか傷付きにくい心を持っているかは、すなわち、深層心理が敏感であるか鈍感であるかは、先天的なもので、本人にはどうしようもできないのである。一生変わることはないのである。なぜならば、心とは、深層心理であり、自らの意志では、どうすることもできないものだからである。深層心理の敏感、鈍感は、人間は、自らの意志によっては、どうすることもできないのである。なぜならば、深層心理とは、人間の無意識の思考だからである。つまり、人間は、心が傷付くとは、無意識という深層心理が傷付くのである。さて、人間は、深層心理だけでなく、表層心理を有している。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、その思考の結果が意志である。ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていないから、ほとんどの人にとって、思考とは、表層心理での思考であり、意志とは、表層心理での意志である。しかし、人間は、表層心理での思考では、感情を生み出すことができず、表層心理での意志では、深層心理が生み出した傷心の感情や怒りの感情を消滅させることはできないのである。人間が、表層心理でできることは、意志で、深層心理心理が考え出した復讐という行動の指令を抑圧することである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、表層心理での思考しか存在しないと思っているから、傷付きやすい自分の心を嘆き、傷付いた心からなかなか立ち直れない自分の意志の弱さを嘆き、傷付くことによって起こした復讐に対して後悔するのである。しかし、人間の心の中で、最初に動き出すのは、深層心理である。人間の無意識の中で、深層心理が思考するのである。最初に、深層心理という、本人の無意識の心が思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、人間は、深層心理が、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。傷心という感情も傷心から立ち直るための怒りの感情も、深層心理が生み出した感情である。含まれているのである。つまり、深層心理が思考し、傷心・怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出したのである。人間は、自我の欲望に動かされて動こうとするのである。しかし、人間は、必ずしも、自我の欲望のままに行動するわけではない。人間の深層心理には超自我という毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活を維持しようという機能があり、人間の表層心理での思考は自我に現実的な利益をもたらそうとする現実原則に基づく思考であるからである。つまり、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、二種類の行動のパターンがあるのである。一つは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動するのである。所謂、無意識の行動である。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、毎日同じようなことを繰り返すというルーティーンという現象を作り出している。毎日同じようなことを繰り返すのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、異常なことが起こらず、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動して良いからである。換言すれば、表層心理で意識して思考することが起こっていないということなのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。もう一つは、人間は、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒絶するか思考して行動するのである。さて、人間は、表層心理で思考するのは、どのような時か。それは、日常生活において、異常なことが起こった時である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理が、自我を主体にして、思考して、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、ルーティーンの生活を破壊するからである。その時、深層心理の超自我の機能が、ルーティーンの生活を守ろうとして、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が過激なので、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考して、深層心理が生み出した過激な行動の指令を受け入れるか拒絶するかを思考するのである。もちろん、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した過激な行動の指令を受け入れることに決定すれば、そのまま実行する。これも、意志による行動である。そして、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した過激な行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定し、意志によって、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、その時も、深層心理が生み出した感情が過激ならば、意志の抵抗もむなしく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことがあるのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧することに成功したとしても、今度は、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出さなければならなくなるのである。しかし、なかなか考え出せない状態が多い。それが苦悩の状態である。例えば、高校という構造体で、生徒という自我を持って暮らしている者は、深層心理が、同級生・教師という他者から好評価・高評価を得たいと思っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情と不登校という行動の指令という自我の欲望を生み出した。その時、深層心理の超自我の機能が、ルーティーンの生活を守ろうとして、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が過激なので、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、生徒は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した傷心という感情の中で、深層心理が生み出した不登校という行動の指令を受け入れるか拒絶するかを思考するのである。もちろん、生徒は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を受け入れることに決定すれば、登校しない。そして、生徒は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定すれば、意志によって、登校しようとする。しかし、その時も、深層心理が生み出した傷心という感情が過激ならば、意志の抵抗もむなしく、深層心理が生み出した行動の指令のままに登校しないのである。また、生徒は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した不登校という行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって、登校することに成功したとしても、今度は、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出し、傷心という感情が消滅させるようにしなければならなくなるのである。しかし、なかなか考え出せない状態が多い。それが苦悩の状態である。また、会社という構造体で、会社員という自我を持って暮らしている者は、深層心理が、上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、怒りという感情と上司を罵倒しろという行動の指令という自我の欲望を生み出した。その時、深層心理の超自我の機能が、ルーティーンの生活を守ろうとして、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した怒りという感情が過激なので、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、会社員は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した怒りという感情の中で、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという行動の指令を受け入れるか拒絶するかを思考するのである。もちろん、会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を受け入れることに決定すれば、そのまま、上司を罵倒してしまう。その後、会社にいられなくなるなどの不利益を被ることになる。そして、会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定すれば、意志によって、沈黙しようとするとする。しかし、その時も、深層心理が生み出した怒りの感情が過激ならば、意志の抵抗もむなしく、深層心理が生み出した行動の指令のままに上司を罵倒してしまうのである。また、会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって、沈黙することに成功したとしても、今度は、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出し、怒りという感情が消滅させるようにしなければならなくなるのである。しかし、なかなか考え出せない状態が多い。それが苦悩の状態である。さて、人間は、常に、構造体の中で、自我として行動しているが、構造体の中に、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人がいる。毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。そして、自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、他者に対する態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。自分が明白には気付かないたわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出て、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃を命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、叱責されたということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃してはいけないのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではない。確かに、深層心理には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、不明瞭であるかたわいないものであるのだから、相手には不愉快な思いをさせず、自分も迷惑を被っていないのだから、これが最善の方法なのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、訴えるか、誰かに相談しているはずである。訴えることもできず、誰にも相談できないような理由だから、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直だ」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接していると、相手が自分のことを好きになり、自分も相手を好きになることがあるのである。少なくとも、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、誰からも、非難されることは無いのである。