あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

なぜ、人を殺してはいけないのか。」(自我その457)

2021-01-17 18:23:56 | 思想
算数の授業で、「5-3=1」と答える生徒に対して、教師は「間違っている」と言い、「5-3=2」と答える生徒に対して、教師は「正しい」と言うだろう。なぜ、教師は、「1」を誤答だとし、「2」を正答だとするのだろうか。それは、「2」という答に得心がいき、「1」という答に違和感を覚えるからである。教師の中には、「正しく計算すれば、2だとわかるはずだ。」と言い、「1」だと答えた生徒を叱る人もいるかも知れない。しかし、「1」だと答えた生徒も、正しく計算したと思っている。だから、そのように答えたのである。もちろん、それが、「間違っている」と指摘されると、計算をし直し、「2」だと答えるだろう。しかし、計算をし直しても、「1」という答が出れば、やはり、「1」だと答えるだろう。教師は、いらだって、「コンビニに行って、3円の物を買って、5円玉を出したのに、店員から、1円しかおつりをもらえなかったならば、1円損したと思わないか。」と言うかも知れない。その時、生徒は、自分が間違っていることに納得するかも知れない。また、買い物のおつりの計算と算数の計算は違ったものだと思うかも知れない。なぜ、このようになるのだろうか。計算は、おののの頭の中で行われるからである。計算の方法を習っても、計算は、おののの頭の中で行われるから、誤った答が出てくることもあるのである。計算を含めて、思考は、皆、深層心理で行われるから、誤りも生じるのである。深層心理とは、人間の意識によらず、意志の入り込めない、思考である。しかし、誤りだと指摘できるのは、計算ののような確立された方法で思考できるものだけである。しかし、それですら、生徒にしっかりと教えても、誤った答が出てくることもあるのである。まして、思考方法が確立されていず、共通理解がなされていないことでは、いろいろな答が出てくるのは当然のことである。さて、教師が、生徒から、「なぜ、人を殺してはいけないのですか。」と尋ねられた時、どのように答えるべきだろうか。「人を殺してはいけない」という結論を導く思考方法が確立されていず、当然のごとく、その思考方法に対する共通理解も存在しない。だから、生徒の深層心理から、「人を殺してはいけない」という考えに対して、疑問が生じるのは当然のことである。もちろん、教師は、「人を殺すことはいけないことだ」という志向性から、答える。なぜならば、教師は、「人を殺すことはいけないことだ」という考えに得心し、「人を殺してもかまわない」という考えに違和感を覚えるからだ。人間は、自らの深層心理が得心したことに対して、その結論に導くように論理を組み立てるものである。もちろん、教師は、「人を殺すことは法律で禁止されている」、「人を殺したら処罰される」、「人を殺すことを認めたら、世の中が乱れ、とんでもないことになる」、「おまえも殺されたくないだろう。」、「殺された人の家族の気持ちを考えろ。」、「人を殺せば、必ず、後悔する」などと言い、自らの意見を正当化するための理由を述べる。しかし、それは、補助理由でしかない。そもそも、「……してはいけない」という禁止は、禁止している者の論理であり、禁止されていることを知った者は、禁止を破ると、処罰されるから、禁止を守るのである。また、生徒が、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が持ったのは、自分自身が人を殺したいという欲望を抱いたことがあるからである。憎しみのあまり、そのような思いを抱いたのである。人間の深層心理は、夜見る夢と同じく、本人の意向にかかわらず、いろいろな欲望を生み出すのである。しかし、「なぜ、人を殺していけないのですか。」と尋ねた生徒は、人を殺すことは無い。なぜならば、人を殺すことは法律で禁止され、人を殺したら処罰されるからだ。教師の自己正当化のための補助理由が生徒の行動抑圧の理由になるのである、人間は、深層心理からいろいろな欲望が湧いてくるが、欲望通りに行動すれば、後に、自分がどのような状況に陥るか考えて、不都合な欲望は抑圧するのである。そして、「なぜ、人を殺していけないのですか。」と尋ねた生徒は、その後、同じ質問をしなくなる。それは、そのような質問を続けると、自分が、周囲の者から、いつも人を殺すことを考えているように思われるからである。このようにして、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が解かれないままに、終わってしまうのである。