あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

ぼうっと生きている人も平和ぼけの人も存在しない。(自我その458)

2021-01-19 17:05:39 | 思想
「ぼうっと生きているんじゃないよ。」と他者を揶揄する人がいる。そして、日本は、戦争がないから、何も考えず、平和ぼけになっているという論理を展開する。しかし、何かあると、戦争で解決しようと考えることは非常に危険なことである。何があっても、戦争は起こさないという覚悟が必要なのである。なぜならば、何かあると、戦争で解決しようと考える人は、些細なことでも、戦争を始めるからである。そして、それが、戦争慣れに繋がり、戦争をしていない時でも、常に、戦闘モードでないと、落ち着かない状態に陥るのである。世界は、そのような国ばかりだから、どこかで戦争をしていて、どこにでも、いちでも、戦争が起こる可能性があるのである。ニーチェは、「全ては永劫回帰する」と言う。まさしく、人間は同じ生活を繰り返すのである。まさしく、戦争慣れをした国は、戦争を基本に、政治を考えるのである。しかし、戦争が無い国でも、国民は、ぼうっと生きているのではなく、平和ぼけに陥っている人は一人もいない。なぜならば、人間は、何もしていず、部屋でぼうっとしているように見える時でも、内なる力が動いているからである。人間は、常に、内なる生命力と内なる思考力が蠢き、自らを生かそうとしているのである。「ぼうっと生きているんじゃないよ。」と他者を揶揄する言葉は、表層的に人間を見て、発せられた言葉である。ぼうっとしているように見えている状態の時も、誰しも、徒に、ぼうっとしているわけではないのである。ぼうっとしているのには、意味と理由があるのである。内なる生命力が、敢えて、ぼうっとした状態を作りだしているのである。例えば、疲れたから、ぼうっとしているのかも知れない。休むことによって、次の活力を生み出そうとしているのである。ぼうっと、空想や妄想をることを楽しんでいるのかも知れない。空想や妄想は、人間を緊張から解放するのである。ぼうっとしているように見えて、実際は、深く思考しているのかも知れない。人間は、往々にして、しかめっ面で、追い詰められた状態では、浅い思考しかできないものである。そもそも、人間を含めて、全ての生物には、意味の無い行為など存在しない。それに思いを致さず、人間の内なる生命力の存在に気付いていないから、「ぼうっと生きているんじゃないよ。」という揶揄の言葉を浴びせかけ、言われた人も、自らの内なる生命力の存在に気付いていないから、ショックを受けるのである。だから、「ぼうっと生きているんじゃないよ。」という言葉は、無意味であるどころか、害毒である。人間の内なる生命力を否定し、人間の内なる思考力を否定しているからである。さて、それでは、常に活動している、内なる生命力と内なる思考力を担っているものは何か。それは、深層肉体と深層心理である。それらは、無意識の活動であるから、ほとんどの人は気付いていない。つまり、人間は、常に、無意識のうちに、深層肉体と深層心理が活動し、それによって生かされているのである。さて、それでは、深層肉体はどのような意志を持って活動しているのだろうか。それは、文字通り、その人を、肉体的に、生き続けさせようという意志である。これは、人間だけでなく、全ての生物に共通の意志である。心臓が伸縮・拡張を繰り返し、血液を循環させる。呼吸し、肺が活動する。飲食物を摂取し、胃腸が消化・吸収する。これらの行為は、全て、その人の無意識のうちに為され、その人を生き続けさせようという深層肉体の意志に基づいているのである。内臓ばかりではない。深層肉体は、常に、病気や怪我に対応する。例えば、体内にウイルスが入り、風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。表層心理とは、人間が自らの存在を意識することであり、自らを意識しての思考であり、自らを意識しての思考である意志である。人間は、怪我をすると、深層肉体は、血液でその部分を固め、白血球で、侵入した細菌を攻め滅ばす。怪我の痛みの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。空腹やのどの渇きという欲求が起こるのは、深層肉体の、基本的には、食糧や飲み物を摂取することによって、肉体的に生きさせようという意志によってである。このように、我々は、我々の内なる深層肉体の意志によって、肉体的に生かされているのである。しかし、肉体の活動といえば、ほとんどの人間が思い浮かべるのは、深層肉体ではなく、表層肉体である。表層肉体とは、人間が自らの存在を意識して、自らの意志によって動かす肉体の活動である。それは、腕を上げる、手を叩く、歩くなどの肉体の活動である。しかし、確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる表層肉体の活動である。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。次に、深層心理は、どのような意志を持って活動しているのだろうか。それは、自我を活かせようとする意志であり、それは、自我の欲望となって現れてくる。ニーチェの「権力への意志(力への意志)」の思想が、端的に、表している。ニーチェは、人間の心には、本質的に、他者を征服し、他者に認められ、いっそう強大になろうという意志という、心の中にある衝動に気付いたのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは、意識していないという意味であり、何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理について、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。つまり、深層心理は、人間の無意識のうちに、論理的に思考しているのである。それでは、深層心理は、何を主体にして、何の下に、何に基づいて、思考して、何のために、何を生み出しているか。深層心理は、自我を主体にして、心境の下に、快感原則に基づいて、思考して、自我を活かすために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて、行動しているのである。人間は、深層心理が生み出した感情に動かされて、深層心理が生み出した行動の指令をかなえようとするのである。それでは、快感原則とは何か。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求める欲望である。自我とは何か。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自らの姿なのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、常に、他者と関わって生活をしている。すなわち、社会生活を営んでいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、その構造体に応じてさまざまな自我が持って行動するのだが、代表的な構造体と自我には次のようなものがある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。人間は、皆、常に、ある構造体に所属し、深層心理は、自我を主体にして、心境の下に、快感原則に基づいて、思考して、自我を活かすために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて行動しようとするのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理が出した行動の指令のままに行動するのではない。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と意識して考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に現実的な利得をもたらせようとする欲望である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。確かに、家が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在する。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのであり、言わば、深層心理がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。さて、人間は、表層心理で、自らを意識するのは、いろいろな場合があるが、まず、このように、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の可否を考える場合の時である。例えば、楽しいことがあれば、深層心理が出した笑顔を作ること、悲しいことがあれば、涙を流すことなどの行動の指令は、何の問題が無いから、表層心理で、自らを意識すること無く、行動の指令のままに行動するだろう。しかし、深層心理が出した相手を侮辱すること、殴ることなどの行動の指令を、超自我で抑圧できない場合、表層心理で、自らを意識し、思考して、それらを不可とし、行動の指令を抑圧するだろう。なぜならば、そのように行動すれば、相手から決定的に嫌われるばかりか、復讐にあったり、周囲の人からも顰蹙を買ったり、人間関係が閉ざされたり、犯罪者になったりするからである。そこで、表層心理は、深層心理が生み出した、相手を侮辱せよや殴れという行動の指針を抑圧するのである。しかし、そこでとどまることはできない。なぜならば、傷付いた心や怒りの感情は、表層心理が、深層心理の出した相手を侮辱せよや殴れの行動の指令の代わりの行動を考え出さなければ、鎮まらないからである。しかし、たいていの場合、表層心理は、なかなか、良い行動が思い浮かばない。表層心理は、傷付いた心のままで、良い行動を考え出そうとするから、苦悩する。常に、苦悩には、自らを意識しての表層心理での思考が伴うのである。だから、人間は、自らを意識する時、常に苦悩している自分、苦悩しがちな自分を思い浮かべるのである。さて、深層心理は、常に、ある心境の下にある。心境は、感情と同じく、情態性を表す。深層心理は、心境の下で自我の欲望を生み出し、ある感情を使って行動の指令を叶えようとする。人間は、心境や感情にも動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを意識するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間が自我の動物であることは、深層心理が、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、感情を使って、人間を行動の指令のままに動かそうとしているところに現れているのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、また、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、感情や行動の指令という自我の欲望を起こして、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時に、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を意識するのである。だから、人間は、常に、自らを意識しているわけではなく、自らを意識する時も、心境や感情に覆われて、あることを思考したり行動したりしている自分として意識するのである。このように、人間は、ぼうっとしているように見える時でも、常に、内なる生命力である深層肉体と内なる思考力で深層心理が蠢き、自我を生かそうとしているのである。