あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、不安、恐怖、傷心、怒りを見つめ直さなければならない。(自我その461)

2021-01-30 17:24:49 | 思想
人間は、不安、恐怖、傷心に苦しみながら、生きている。それでは、何が、不安、恐怖、傷心を生み出して、人間を苦しめるのか。それは、人間の内なる心、深層心理である。つまり、自分が自分を苦しめているのである。深層心理とは、人間が自ら意識すること無く、心の奥底で行っている思考である。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、不安、恐怖、傷心を生み出すから、人間は、不安、恐怖、傷心から逃れることはできないのである。深層心理が、不安、恐怖、傷心を生み出し、人間は、それらに苦しみながら、表層心理で、それらから脱却する方法を考え出そうとするのである。表層心理とは、人間の自ら意識しながら行う思考である。すなわち、深層心理が、不安、恐怖、傷心という苦痛をを生み出し、人間は、その苦痛から解放されるために、表層心理で、それらから脱却する方法を考え出そうとするのである。さて、まず、不安であるが、人間は、突然、不安に陥る。なぜ、人間は、不安に陥るのか。それは、自らの存在に必然性が無いからである。パスカルも、「私はあそこにいず、ここにいることに対して、恐れ、おののく。というのは、なぜ、あそこにいず、ここにいるのか。なぜ、あの時にいず、今この時にいるのか。全くその理由がわからないからである。」と言う。確かに、人間が、この時間、この空間にいることの必然性は存在しない。自分が選んだことでもなく、誰かに連れてこられたわけでもない。気がついたら、そこにいるのである。そこに、不安、恐怖、驚愕を覚えるのは、当然のことである。そもそも、人間の存在の必然性の無さは、誕生から始まっている。芥川龍之介の「河童」という小説には、河童の世界では、生まれる前の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ね、誕生の意志を示したものだけが生まれてくることになっている。だから、生まれてきた河童には、誕生の必然性がある。しかし、人間は、誰一人として、誕生の意志を尋ねられていない。だから、誕生の必然性を有していない。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからない。だから、母親の責任でもない。しかも、人間は、誰一人として、死を免れることはできない。生きたいという意志を持っていても、死は、必ず、やって来る。死は、突然かつ偶然、必然的にやって来る。つまり、人間は、意志無く誕生させられた上に、生への意志があっても死は確実に訪れるという理不尽な存在者なのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いているが、まさしく、人間は、押し付けられた人生を、自分の人生として生きるしかないのである。人間は、誰一人として、死を免れることはできず、生きたいという意志を持っていても、死は、突然かつ偶然、必ずやって来ることがあるのを知っているから、突然、不安に陥ることがあるのである。死への不安である。しかし、ハイデッガーは、死がすぐ身近にあると覚悟した者だけは不安を克服することができると言う。死がすぐ身近にあると覚悟するとは、常に自分を臨死の状態におくことである。それは、死を遠ざけるのではなく、敢えて、死を自らに引き受けて、死がいつ訪れても良いように覚悟することである。自分を常に臨死の状態におくことができれば、そこから、不安に襲われることが無くなり、覚悟ある人生が始まるとハイデッガーは言う。それが、ハイデッガーの言う、実存的な生き方である。次に、恐怖であるが、恐怖と不安は異なっている。不安は、人間の内面から襲ってくるもの、すなわち、死に対する深層心理が生み出した警戒心であるが、恐怖は、人間の外面から襲ってくるもの、すなわち、他者や他人に対する深層心理が生み出した警戒心である。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。人間は、他者や他人を心から信用することがなく、常に、他者や他人に対して脅威を感じているから、実際に他者や他人が自らを襲ってくる状態でない時でも、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの現在の姿勢を意識する時があるのである。だから、人間が自らを意識する時は、常に、同時に、他者や他人の動向を探り、他者や他人の動向が意識に上ってくるのである。人間は、他者や他人の視線を感じた時、他者や他人がそばにいる時、他者や他人に会った時、他者や他人に見られている時に、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの存在を意識するのである。人間は、他者や他人の存在を感じた時、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者や他人の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して恐怖を覚え、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。だから、人間は、他者や他人を心から信用することがなく、常に、他者や他人に対して脅威を感じているから、実際に他者や他人が自らを襲ってくる時はもちろんのこと、実際に他者や他人が自らを襲ってくる状態でない時でも、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの現在の姿勢を意識する時があるのである。人間は、他者や他人に対しての恐怖から逃れることができないのである。なぜならば、他者や他人の心を覗き込むことができないからである。しかし、サルトルは、他者に対して、見られる姿勢から見る姿勢へと生き方を変えると、恐怖を覚えなくなると言う。サルトルは「地獄とは他者のことである。」と言う。なぜならば、人間は、他者に見られていると意識すれば、他者に見つめられていると意識すれば、他者に睨まれていると意識すれば、恐怖を感じるからである。だから、かつて、やくざが眼を付けたと言って暴力を振るうことがよく起こったのである。刑務官が死刑を執行する時に、死刑囚に覆面をするのは、死刑囚に見つめられるのが恐いからである。死刑囚に恐怖を覚えさせないようにするという思いやりからでもなく、死刑囚の最期の表情を見せないようにするという尊厳を守るためでもなく、刑務官が自らの行為を恥じているからである。レヴィナスは、人間は、他者の顔を見ると、他者の視線にあうと、良心が芽生え、自らを恥じてしまうと言う。つまり、人間は、他者の視線にあうと動揺してしまうのである。しかし、視線を送ってくる人は他者であって、他人ではない。他人とは、赤の他人という言葉があるように、構造体外の、全く関わりの無い人である。しかし、視線を送ってくる人は、関わりの無い人ではない。関わりがあるからこそ、視線を送ってくるのである。だから、視線を送ってくる人は他人であっても、その視線を意識すれば、他者になるのである。たとえ、自分が誤解して、相手が自分を見ていないのに、自分が見られていると意識すれば、その人は、それまでは他人であっても、それからは他者となるのである。なぜならば、自分がその人のことを意識することで、自分とその人に関係ができたからである。サルトルは、見られている時に感じる恐怖から脱するために、最も効果的なことは、自分もその人を見ることだと言う。つまり、見返すのである。こちらからも視線を送るのである。それでは、なぜ、自分も相手を見ることが必要なのか。それには、二つの理由がある。一つの理由は、自らの考えを取り戻すためである。そのためには、相手から見られている恐怖から脱する必要があるのである。それは、見られている恐怖を味わっている間、恐怖から解放されるためにはどのようにしたらこの状況から脱することができるだろうかという考えがとらわれ、相手にイニシアチブを握られ、自分の考えができないからである。しかし、自分も相手を見ることの危険もある。見られた相手が、その恐怖に耐えきれず、一挙に形勢を逆転しようとして、復讐心を持って、悪口雑言を浴びせたりすることがあるからである。だから、相手を見返す時には、強さが必要なのである。虚心坦懐の強さが必要なのである。相手を打ち倒そうという意欲ではなく、対話をする強さ、優しさや余裕を持った強さが必要なのである。どちらがイニシアチブを執るとか、どちらの意見を認めるかということではなく、互いの立場を認め、良い結論を導くことを目的にするのである。相手がイニシアチブを執ろうとし、一方的に自らの意見を通そうとしても、虚心坦懐に対応する強さが必要なのである。虚心坦懐の心の姿勢を体得した時、新しい人間関係が開かれるのである。次に、自分も相手を見ることが必要なもう一つの理由は、自らがイニシアチブを執ることである。こちらが相手を見続け、相手が視線を外すのを待つのである。相手が視線を外せばこちらの勝利である。相手は、こちらの視線によって、恐怖を感じるばかりでこちらを見ることができず、こちらは、相手をゆっくりと観察できるからである。そうして、イニシアチブを握るのである。しかし、相手が視線を外さず、両者が見つめ合うこともある。その時はどのようになるであろうか。両者ともに、見続けた方が勝者となり、視線を相手から外した者が敗者となると思っているから、にらみ合いが続くだろう。そうして、何かの出来事で、二人のにらみ合いは中断する。しかし、二人にわだかまりが残り、その後も、承認闘争が続くのである。しかし、相手を見続けることの危険もある。見続けられている者が、その屈辱に耐えきれず、一挙に形勢を逆転しようとして、復讐心を持って、暴力を振るったり悪口雑言を浴びせたりすることがあるからである。このように、視線の掛け合いで勝利しても、大きなしっぺ返しを食らうことがあるのである。だから、大抵の人は、サルトルの忠告に従わず、自ら、視線を外し、敗者の道を選ぶのである。しかし、サルトルは、相手を見続けるだろう。それが、サルトルの生き方だからである。しかし、人間は、他者に見つめられている時、恐怖ではなく、喜びを覚えることがある。つまり、相手の視線には見る視線と愛の視線の二種類があるのである。相手の視線が見る視線ならば、こちらは恐怖を覚え、相手の視線が愛の視線ならば、こちらは喜びを覚えるのである。そして、相手は、こちらに愛の視線を送ってくるということは、相手は自らの愛情をこちら側に気付いてほしいだけでなく、こちらからの愛情も求めているのである。人間の深層心理は、こちらが相手を愛している時には、相手にこちらの愛の存在を気付かせ、相手からの愛情を求めてやまないのである。もちろん、相手が見る視線を送っているのに、こちらはそれを愛の視線だと誤解することも時には起こる。もちろん、相手が愛の視線を送っているのに、こちらはそれを見る視線だと誤解することも時には起こる。これらは、人生における悲喜劇の原因の一つになっている。また、人間は、見る視線にせよ、愛の視線にせよ、どちらかわからない視線にせよ、相手から見つめられると、自らを反省する。自分の容貌、服装、言動、行動を省みる。自らを反省する時があるからこそ、人間は社会生活を送れるのである。人間は、実際に他者から見られる機会があるから、他者から見られることを想像できるから、自分自身を反省し、社会生活を送ることができるのである。もしも、人間は、他者から見られても反省することがなくなったら、社会生活を送れなくなる。それ故に、誰しも、他者から視線を受けると、時には、その視線に、見られているということを意識して、恐怖を覚え、時には、その視線に、愛情を感じて、喜びを覚えて、相手の存在を感じ取るが、それ以外に、他者からの視線は、自ら自身の反省を促し、社会生活を行う上での礎になっているのである。さて、それでは、なぜ、人間は、相手の視線に愛情を感じることができるのか。それは、人間は、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性を持って生きているからである。だから、逆に、人間は、他者から認めてもらえなかったり、無視されたり、軽蔑されたり、悪評価・低評価を受けたり、嫌われたり、憎まれたりすると、傷心するのである。しかし、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性は、人間が、自ら、意識して、思考して、生み出して、持っているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、持っているのではない。すなわち、人間の、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性は、深層心理の中にある志向性なのである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているが、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が、人間を動かしているのである。深層心理は、人間の無意識の思考だから、人間は、深層心理を動かすことはできないのである。もちろん、人間の意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考である。しかし、人間は、表層心理で、自らを意識したり、意識して思考したりすることがあるが、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないのである。さて、深層心理は、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、欲動とは、深層心理に内在している、四つの欲望である。欲動には、第一から第四まで、四つの欲望がある。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。これが、深層心理には、自我の保身化という志向性での思考となって現れるのである。つまり、深層心理は、保守的な志向性の下にあるのである。深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを欲望する。ニーチェの「永劫回帰」(全ての事象は永遠に同じことを繰り返すという思想)を支えているのは、この深層心理の欲望なのである。つまり、深層心理の志向は、習慣的な行動なのである。ルーティーン通り、行動することなのである。それでは、なぜ、深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを志向するのか。それは、欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望があるからである。その方が、生活が安全だからである。人間にとって、深層心理による習慣的な行動の方が安全なのである。だから、夫が会社をを辞めて新しい仕事を始めようとすると、妻は、決まって、反対するのである。ルーティーンの生活が破られるからである。そこで、妻の中には、深層心理が怒りの感情と離婚という行動の指令という自我の欲望を生み出す者も現れるのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持し、アイデンティティー得なければ、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、安定した自我あっての自我の欲望の追求であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つことを望むのである。それは、安定した構造体でなければ安定した自我が得られず、安定した自我がなければ自我の欲望を追求できないからである。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。これが、深層心理には、自我の対他化という志向性での思考となって現れるのである。現在、日本では、オリンピック開催の可否が問題となっている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、それは、日本選手も自分も、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在が認められると思うから、嬉しいのである。それが、愛国心である。愛国心とは、国民という自らの自我を愛する心なのである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰された人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。円谷光吉は、国民の愛国心に答えられなくなり、国民の怒りや落胆を恐れて、自殺したのである。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。これが、深層心理には、対象の対自化という志向性での思考となって現れるのである。教諭が校長になろうとするのは、学校という構造体の中で、生徒・教諭・教頭という他者を校長という自我で対自化し、支配し、充実感を得たい欲望があるからである。大工は、材木という物を対自化し、加工し、家を建てるのである。哲学者は人間と自然を対象として、哲学思想で捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として、心理思想て捉え、支配し、科学者は自然を対象として、科学思想で捉え、支配しようとする。だから、校長の中には、自らに刃向かう教諭に傷心し、怒りの感情で、他校へ移動させる者がいるのである。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者との共感化という作用である。これが、深層心理には、自我の他者との共感化という志向性での思考となって現れるのである。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育むこと、協力し合うことである。つまり、自我の他者との共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、逆に、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持った者の中には、相手から別れを告げられたために、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と復讐しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、失恋した者を復讐の行動の指令の通りにストーカーとして動かし、傷心から解放されようとする者がいるのである。このように、深層心理は、人間の無意識にうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、深層心理自身は、欲動にかなうような結果をもたらすように思考するのである。欲動にかなった結果になれば、快楽が得られるからである。人間は、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性を持って生きているが、これらの志向性は深層心理の中にあり、欲動の四つの欲望のいずれかに合致しているのである。だから、人間は、他者から認めててもらえれば、尊敬してもらえれば、好評価・高評価を受けることができれば、愛してもらうことができれば、快楽を得ることができるのである。だから、逆に、人間は、他者から認めてもらえなかったり、無視されたり、軽蔑されたり、悪評価・低評価を受けたり、嫌われたり、憎まれたりすると、傷心するのである。さて、欲動に、道徳観や社会規約が存在しないから、深層心理の思考にも、道徳観や社会規約は存在しないのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、深層心理は、欲動に基づいて、快楽を求めて、過ちを犯すような行動の指令を生み出すこともあるのである。そのような時には、深層心理の超自我の機能、表層心理での現実原則による思考で抑圧しなければならないのである。だから、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、そのまま自我の欲望に基づいて行動する場合、深層心理の超自我の作用によって行動する場合、表層心理で思考して行動する場合があるのである。深層心理が生み出した自我の欲望の通りの行動が、所謂、無意識の行動である。日常生活が、ルーティーンと言われる繰り返しの生活になるのは、無意識の行動だからである。日常生活がルーティーンの生活になるのは、深層心理を揺り動かす異常なことが起こっていないからである。しかし、人間は、どのような構造体においてでも、時には、失礼なことを言われたり、失礼なことをされたりして、自我が傷つけられることがあり、その時は、誰しも、深層心理が、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。稀れには、深層心理の敏感な人や深層心理が激震した人は、深層心理が、怒りの感情とともに相手を殺せという行動の指令という自我の欲望が生み出すことがあるのである。しかし、この後、人間は、まず、深層心理の超自我というルーティーン通りの行動をしようとする機能が、他者を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理での自我に利益をもたらそうとする現実原則に基づいて、思考して、抑圧の結論を出し、意志によって、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとする。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動した後のことを考慮し、行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。精神疾患は、深層心理が自ら陥ることによって、現実から逃れようとしているのである。さて、人間によって、感情と行動の違いがある。それは、なぜか。それは、人間は、深層心理の感度と好みが異なっているからである。まず、深層心理の感度が異なっていることについてであるが、それは、この世には、深層心理の敏感な人と鈍感な人が存在するということである。一般に、深層心理が敏感な人が苦労するのである。深層心理の敏感な人は、深層心理が生み出す感情が強過ぎるから、心が傷付きやすいからである。深層心理の敏感な人は、深層心理の鈍感な人に比べて、保身化・対他化・対自化・共感化の全ての機能は強いのであるが、問題を起こすのは、対他化の機能の強さである。深層心理の敏感な人は、他者から悪評価・低評価を受けると、深層心理は、強い対他化の機能によって、深く傷付き、激しい怒りの感情を生み出し、相手を侮辱せよ、相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を出すのである。その後、深層心理のルーティーン通りの生活を送ろうとする超自我の機能が、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧しようとするが、深層心理が生み出した過激な感情が強過ぎると、抑圧できないのである。そうなると、人間は、表層心理は、それを受けて、意識して思考し、深層心理が生み出した深い傷心・激しい怒りという感情の中で、相手を侮辱せよ、相手を殴れなどの過激な行動の指令の適否を考えるのである。表層心理は、深層心理が出した行動の指令通りままに行動すると、その後、自分が困ることになると判断し、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した深い傷心・激しい怒りという感情が強過ぎるので、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり、殴ったりするのである。そして、案の定、困るはめに陥り、後悔するのである。また、たとえ、表層心理が深層心理が出した行動の指令を抑圧できたとしても、表層心理は、深層心理が生み出した深い傷心・激しい怒りの感情の中で、深い傷心・激しい怒りの感情から解放されるための方法を考え出さなければいけない。苦悩の思考が長く続くのである。だから、深層心理の敏感な人は、身を処するのに、深層心理の鈍感に人よりも、苦労が多いのである。もちろん、深層心理の敏感な人は、深層心理が、常に、過激な感情と過激な行動の指令という強い自我の欲望を生み出しているわけではない。むしろ、穏やかな感情と穏やかな行動の指令という穏やかな自我の欲望を生み出していることが多い。だから、日常生活は、たいていの場合、穏便に、過ごしていけるのである。しかし、他者から侮辱されるなどの異常な出来事があると、深層心理は、常に、瞬間的に思考するから、感情は瞬間的に湧き上がり、深く傷心し、激しく怒り、行動の指令は過激なものを出しがちなのである。だから、深層心理の敏感な人にとって大切なことは、深層心理が生み出した過激な感情や行動の指令に流されず、苦悩の中でも、表層心理で、自分の感情と行動の指令は、深層心理による現象だと思いなし、現実を冷静に見つめる訓練をすることである。意識して長く時間を掛けて、現実を冷静に見つめる態度を身につけるということである。そうすれば、深層心理の動揺ほどには、現実は、大したことが起こっていないということがわかるはずである。ニーチェが「永劫回帰」(自然も人間も同じことを繰り返す)という思想で説いているように、表層心理で意識して長く時間を掛けて、冷静に現実を見つめるという態度を繰り返していると、それが習慣となるのである。そうすると、深層心理が激しい過激な感情や過激な行動の指令を生み出さなくなるのである。しかし、深層神経の敏感な人にも、良いこともある。深層神経の敏感な人は、些細なことでも感動し、その感動も大きい。そして、その感動を定着させようとして、芸術を創造するのである。だから、芸術家に、深層心理の敏感な人が多いのである。また、深層心理の敏感な人は、苦悩の中で長時間思考することが多いから、哲学者、心理学者などの思想家も多いのである。また、どの構造体においても、誰しも、自分が好きな人、自分を好きな人、自分が嫌いな人、自分を嫌いな人が存在し、それが、個々の人によって異なっていることである。好き嫌いは、表層心理で判断したことではなく、深層心理が決めることであるから、異なってくるのである。人間、誰しも、いろいろな構造体に属しているが、その構造体の中には、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人がいる。毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が好きな人、自分を好きな人、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。言うまでもなく、自分が好きな人、自分を好きな人については、ストーカー以外は問題ではない。問題は、自分が嫌いな人、自分を嫌うである。しかも、自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような、表層心理が理解できるような、明確なものは少ない。多くは、深層心理が決めているので、自分でも気付かないうちに嫌いになっている。そして、表層心理で、嫌いになったことを意識するようになると、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めるから、その理由がはっきりしないのである。しかし、誰しも、後に気付くことであるが、どうでも良いような、たわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分が、現在の構造体を出ても、別の構造体に見つかるか不安であり、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃するように命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、嫌いな相手が上司で、セクハラ・パワハラのような行為があれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の行動の指令のままに、相手を攻撃することはナンセンスなのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではないか。確かに、深層心理の行動の指令には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、どうでも良い、たわい無いことだから、誰にも相談できず、訴えることもできず、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、誰かに相談しているか、訴えているはずである。これ以上、悪化させないことである。相手にはこれ以上不愉快な思いをさせず、自分もこれ以上不愉快な思いをしないためには、これが最善の方法なのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直だ」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接しているうちに、相手が自分のことを徐々に好きになり、自分も相手に対する嫌悪感が徐々に薄まっていくことがあるのである。少なくとも、人に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、非難されることは無いのである。また、非難されても、正当に反論して良いのである。非難されるいわれは無いからである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのである。そういう意味では、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。しかし、虚構だから何をしても良いというのでは無い。そもそも、何をしても良いという思いは、深層心理の強い欲望であり、それは、現実密着型の人間の発想であり、人生を虚構だと考えている人からは生まれてこないのである。人間は、現実を虚構だと思い、虚構を生き抜いていけば良いのである。虚構だと思えば、自由が生まれてくるのである。自分の表層心理の意志によって、深層心理の現実密着の形而下の思考から距離を置き、形而下の思考を形而上の思考に変換させ、自分の思考によって、現実を編み直すことが大切である。そこに、自由の喜びがあるのである。