あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

欲望と苦悩(自我その298)

2020-01-14 19:44:11 | 思想
人間は、欲望の動物である。欲望には、良心が起こしたと思われるものから、悪心が起こしたと思われるよこしまなものまで、さまざまなものが存在する。もしも、自らの欲望を全て相手に話してしまえば、どのように親密な人間関係でも壊れてしまうだろう。しかし、どのような欲望であろうと、人間は自ら意識して自らの意志して生み出しているわけではない。すなわち、人間は、意識や意志しての心の働きである表層心理で欲望を生み出していない。欲望は、人間の無意識の心が生み出しているのである。すなわち、人間の無意識の心の働きである深層心理が欲望を生み出しているのである。だから、どのような欲望であろうと、本人には責任はない。しかし、よこしまな欲望を行動に移すと、当然のごとく、責任が生じてくるのである。さて、欲望は、人間の表層心理(意識・意志)に拠らず、深層心理(無意識)が生み出したものであるからと言って、決して、無根拠のものではない。フランスの心理学者のラカンが「無意識は言葉によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、言語を使って論理的に思考し、欲望を生み出しているのである。それでは、深層心理は、何を求めているのか。それは、快楽である。深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようと思考している。快楽を求め、不快を避けて生きようとする欲望を、フロイトは、快感原則と呼んだ。もちろん、深層心理には、良心も悪心も存在しない。ひたすら、快楽を求め、不快を避けようとする。だから、深層心理には、道徳観や社会規約も存在しない。さて、快感原則は何を主体として、思考しているのか。それは、自我である。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きているあり方である。自我とは、人間が、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きているあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我には、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。このように、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として生きている。その中で、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、意識する意識しないにかかわらず、無意識のうちに、深層心理が、常に、快楽を求め不快を避けて生きようとしているのである。さて、それでは、深層心理は、どのような志向性(観点・視点)を用いて、快感原則を満たそうとしているか。それは、自我の対他化、対象(他者・物・事柄)の対自化、自我と他者の共感化という志向性である。第一の志向性である自我の対他化は、深層心理は、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。少女がアイドルになりたいのは、大衆に好かれたいからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。第二の志向性である対象の対自化は、深層心理は、他者や物や事柄という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、言い換えると、他者という対象を自我で命令して動かすこと、物という対象を自我で利用すること、事柄という対象を自我の志向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉え、理解し、支配下に置くことである。教諭が校長になりたいのは学校を支配し、会社員が社長になりたいのは会社を支配したいためである。人間が神を創造したのは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。他者や物や事柄という対象の対自化は、「人は自我の欲望を対象に投影する」(人間は、自我の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自我で他者を支配しようとする。人間は、自我で物を利用しようと考える。人間は、他者や物や事柄を、自我の志向性や趣向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自我の欲望によって創造する。)という言葉に集約されている。第三の志向性である自我と他者の共感化は、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、言い換えると、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。国の政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。高校や会社が嫌でも行ってしまうのは、高校生や会社員という自我を失うのが恐いからである。このように、人間は、まず、深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、自我の対他化、他者・物・事柄という対象の対他化、自我と他者の共感化のいずれかの志向性を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を行動させようとする。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。そして、次に、人間は、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望結果を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。これが、ルーティンとなる。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無くて、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間の生活も、「永劫回帰」(同じことを繰り返す)に当てはまると言ったのである。さて、苦悩は、人間が、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、苦痛の感情を取り除く方法を長期にわたって苦慮している状態を言う。しかし、傷心・怒りという苦痛の感情を生み出しのは、深層心理である。深層心理が、自我が、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、快感原則に基づいて、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手をもっとひどく侮辱せよや相手を殴れなどの過激な行動を指令したのである。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理の行動の指令の通りに、相手を侮辱したり殴ったりすると、後で、その相手から復讐されたり、周囲に人から顰蹙を買ったり、法的に罰せられたりして、自我が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧したのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、自らの現実原則が納得し、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になるのである。この時、人間は、自らの思考の力を最大限に発揮しなければならないのである。これが、理性である。そこで、ニーチェは、「人間は、安楽の時、自分自身から離れ、苦悩の時、自分自身に近づく。」と言うのである。安楽も苦痛も深層心理がもたらした感情である。しかし、人間は、安楽の時には、表層心理で、考えることをしない。反省する必要が無いからである。人間は、苦痛の時、表層心理で、苦悩の状態に陥って深く考えるのである。だから、偉大な思想は、全て、苦悩の中から生まれている。理性が、偉大な思想を生み出したのである。デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーなど、全てそうである。しかし、一般的には、苦悩とは、人間が、苦しいと感情の中で、その苦しみから逃れる方法を、表層心理で案出するためにもがいている現象である。人間は、その時、自分が苦しみにあることを課題にして、苦しみがもたらされた原因を分析し、苦しみから脱却する方法を思考するのである。これが理性による思考である。確かに、理性による思考によって、苦しみから脱却する方法が考え出すことができ、それを実行し、実際に、苦しみから脱却できる者も存在する。しかし、苦しみから脱却する方法を考え出すことができなくても、時間とともに、苦しいという感情が薄れゆき、苦しみから脱却する者も存在する。そして、苦しいと感情という感情が強すぎるので、また、苦しみから脱却する方法が考え出す自信がないので、他者との会話や遊びや趣味やアルコールや医薬品などに頼って、苦しみから逃れようとする者も存在する。つまり、表層心理でしっかり受け止め、理性による思考に終始する人と、表層心理で受け止めきれず、時間や気分転換に頼る者が存在するのである。しかし、後者の場合であっても、それを非難することはできない。その理由は二つある。一つは、人間の意識という表層心理で与り知らぬ所で、すなわち、無意識という深層心理が苦しいという感情を生み出しているからである。もう一つは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦しい感情から脱却するための行動の指令のままに行動すると自分にとって利益の結果になると判断したから、行動の指令を抑圧したのである。つまり、人間の表層心理による所期の目標は、深層心理が生み出した苦しいという感情を消滅させることという一点だからである。だから、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦痛の原因も解決されたということができる。」と言うのである。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。確かに、深層心理は、何かを対象として、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という欲望を生み出すから、その対象となるものやことが、他者にとっては、些末であったり、偉大であったりして、玉石混淆である。しかし、他者にとっては、些末に見えることも、本人の深層心理には、課題となる大きなことだから苦痛になるのである。人間は、自らの深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。また、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について審議するから逃れることはできないのである。
しかし、決して、そこにとどまらない。そこにとどまっていれば、皆、同じである。つまり、個性は、その後、発揮されるのである。すなわち、苦悩の中で、理性がどのような思考を形作るかということである。




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