あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

校則について(自我その29)

2019-02-11 14:42:13 | 思想
1月15日、都立高校で、授業中、廊下で、五十代の生徒指導担当の男性教師が一年生の男子生徒に体罰を加えた。原因は、男子生徒が校則違反のピアスをしていて、男性教諭が取り外すように注意しても、聞き入れなかったことにある。体罰の様子は撮られ、ツイッター上の動画で拡散した。男性教師は、男子生徒と口論の後、顔を殴り、倒れた男子生徒をつかみ引きずった。男子生徒が、男性教師に、「ツイッター上で炎上させるぞ。」、「小さい脳みそでよく考えろよ。」などと暴言を浴びせた後、男性教諭が「誰に向かってそんな口の利き方をするのだ。」などと反論し、暴行する様子が収められていた。その日の夜、男性教師は、男子の生徒に出向き、謝罪したそうである。しかし、この話には裏があり、授業中、廊下に出ることを提案したのは男子生徒の方であり、スマホで動画撮影したのは男子生徒の友人だった。つまり、男子生徒が、男性教諭をおとしめようと考え、挑発したのである。この事件は、各局のワイドショーで、大きく取り上げられた。コメンテーターたちは次のように言う。「どんな場合でも、体罰はいけない。」、「授業の方が大切だろう。ピアスの注意は放課後にすれば良い。」、「先生をはめるなんて。今の高校生は恐ろしい。」、「この学校は、先生と生徒の信頼関係はどうなっているのだろう。これで教育が成り立つのか。」、「先生を挑発した生徒、体罰の様子をスマホで撮っていた生徒。この悪賢い生徒たちの親の教育はどうなっているんだ。」などである。大体予想された意見である。コメンテーターならずとも、現代日本人は、皆、このようなことを言うだろう。私は落胆した。私が期待したのは、これほどまでに生徒指導担当教師と生徒の関係がねじれてしまった原因を追究する意見だった。しかし、そのような意見は一つも無かった。私が期待したのは、ピアスを校則違反にしている高校の姿勢に疑義を呈する意見だった。ピアス禁止の校則があるから、この教師は、暴力を振るうまでに至ったのである。人間とは、対他存在の生き物である。対他存在とは、自分の自我(その時の自分のポジションやステータスや位置や身分や地位)を周囲から認めてもらいたいという欲望の下で生きる人間のあり方である。彼は、生徒指導担当教師である。彼は、生徒指導担当教師という自我を周囲から認めてもらうことに危機感を抱いたから、暴力を振るったのである。彼が、その生徒に放った「俺をなめるな。」いう言葉にそれが如実に表れている。それでは、男子生徒の対他存在はどのようなものだろうか。彼の自我は、言うまでもなく、高校生である。だから、彼がピアスを付けるのは、ピアスを付けた方が周囲からより自分に合った高校生として見られたいという思いからなのである。ここに、生徒指導担当教師と男子生徒の対他存在に葛藤が生じる。しかし、高校生の意見が分かれるだろうが、ほとんどの大人は生徒指導担当教諭に軍配を上げるだろう。なぜならば、校則で、既に、ピアスを禁止しているからである。しかし、校則が間違っていたならば、どうであろうか。それでも、ほとんどの大人は「生徒が校則が間違っていると考えようとも、校則にそれがある限り、生徒はそれに従わなければいけないのだ。」と言うだろう。しかし、生徒は校則を変えることができないのである。教師だけが校則を変えることができるのである。だから、どの高校でも、生徒手帳には、生徒は校則を遵守することをうたっていても、生徒による校則改正の手順や手続きは全く示されていない。教師たちは、生徒に校則を変える権利を与えていないことについて、一顧だにしない。これで民主教育と言えるのだろうか。また、教師たちは、ピアスは学校に必要だろうか、ピアスは勉強の邪魔になる、ピアスのお金が無駄である、ピアスを付ける時間があったら勉強しろ、ピアスを付ける高校生は不良ばかりだなどと生徒に言う。しかし、これらについては、高校生自身が考えれば良いことである。教師たちの出る幕ではない。愚かにも、教師たちは、政治家や文部省や教育委員会や校長や教頭からの管理を嫌がりながら、自分が管理教育をしていることに気付いていないのである。ピアスを付ける付けないを決めるのは高校生に任せれば良いのである。これぐらい決められないようだったら高校生ではない。あまりにも、教師たちは生徒たちを低く見ている。だから、生徒たちも教師たちに不信感を抱くのである。服装検査をしているのは、世界広しと言えども、日本だけである。日本のどの高校の校則にも、どの中学校の校則までもが、ピアスだけでなく、ソックスの色、長さ、スカートの長さ、ズボンの長さ、広さ、ネクタイの結び方、カラーを必ずすること、髪の染色、脱色をしないこと、パーマを掛けないことまで、細かく規定している。教師たちは、定期的に、生徒全員を体育館や廊下に出し、服装検査をする。生徒は家畜扱いである。そして、後に、服装違反をしている生徒の親まで校長室や生徒指導室に呼び出して注意する学校もある。また、ほとんどの高校や中学校は、生徒たちが登校してくると、校門あたりに、生徒指導担当教諭を中心に教師たちがたむろして、校則違反の生徒の発見に目を皿のようにして見張り、発見するやいなや、その生徒に悪口雑言を浴びせ、その後、生徒指導室に連れて行く。そして、飽きるほど、長い説教が始まる。登校指導と命名された早朝の服装違反者の探索は、校則の服装を遵守している生徒も、気が重く、不愉快である。犯罪者捜索と同じことだからである。現在、不登校生が問題になっているが、教師たちは、自分自身が不登校生増加に加担しているのに気付いていない。今日も、教師は、他の教師たちや教頭や校長から、教師という自我を認められようと思い、校則の服装規定を生徒たちに強制している。そして、同じように、教師は、他の教師たちや教頭や校長や教育委員会から、教師という自我を認められようと思い、校内のいじめを隠蔽する。それが、現在の日本の高校教師の対他存在のあり方なのである。

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