あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間が、皆、自分の気持ちに正直に行動するようになれば、人類は滅びる。(自我その515)

2021-07-05 14:01:35 | 思想
人間の気持ちとは単なる感情ではない。気持ちには、感情とともに常に行動の指令が伴っている。だから、人間が、「気持ちいい」と言う時は、このままの状態でいたいということであり、「気持ち悪い」と言う時は、近寄りたくない状態であることを意味しているのである。「気持ち悪い」と言われると、心が傷付くのは、その言葉を言った人の心の叫びであると思われるからだ。心の叫びとは、本音である。本人は無意識のままに本音を語っていることである。つまり、心の叫びとは、本人は意識していないが、心が思ったことが、言葉となって現れたということを意味しているのである。本人が意識していない心の動きを深層心理と言う。一般に、深層心理とは人間の無意識の精神活動を指し、特に、深層心理の思考だけを取り上げて、それを無意識と表現することが多い。すなわち、ある人に対して、深層心理が気持ち悪いと感じ、近寄りたくないと思ったのである。しかし、一般に、「気持ち悪い」と感じる人がいても、それを言葉で発しない。なぜならば、「気持ち悪い」と発すると、人の心を傷つけることになり、後に、その人から復讐されるからである。「気持ち悪い」という言葉を発することを抑圧したのは、表層心理での思考によってである。人間には、深層心理だけでなく、表層心理も存在するのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。すなわち、人間は、表層心理で思考し、気持ち悪いという言葉を発したならば、相手の心を傷つけ、後に、復讐されることを恐れて、「気持ち悪い」という言葉を発することを抑圧したのである。人間は、幼い頃から、正直に生きなさいと言われ続け、正直を美徳として教え込まれる。しかし、「気持ち悪い」と正直に言うと、相手の心を傷つけるのである。すなわち、人間は、深層心理が感じたことや思考したことを、そのまま、言葉で言ったり行動したりすると、社会生活を営む上で不都合を生じることがあるのである。しかも、その機会が、非常に多いのである。なぜ、このようなことが生じるのか。すなわち、なぜ、人間には自分の気持ちに正直に行動してはいけないことが多いのか。なぜ、人間には心の叫びのままに叫んではいけないことが多いのか。つまり、なぜ、人間には、深層心理の思考の通りに言ったり行動したりしてはいけないことが多いのか。それは、深層心理は、快楽を求めて、思考しているからである。深層心理は、一時の快楽、その時ばかりの快楽を求めて思考するから、社会生活を営む上で不都合なことを言うことや行うことを、行動の指令として、人間に与えることもあるのである。だから、人間は、表層心理で思考して、深層心理が思考して生み出した社会生活を営む上で不都合なことを、抑圧しなければならないのである。しかし、人間は、表層心理の思考では、気持ちを、すなわち、感情と行動の指令を生み出すことができないのである。表層心理の思考は、常に、深層心理が思考して生み出した行動の指令について、審議するだけなのである。だから、快楽を求めて思考するという深層心理の志向性を変えない限り、深層心理は人間に自分の気持ちに正直に行動してはいけないことを行動の指令として与え続けることになるが、人間は、表層心理では、すなわち、自らの意志では、変えることはできないのである。そこに、人間の存在の矛盾があるのである。だから、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているということから、人間は永遠に逃れることができないのである。つまり、深層心理が思考して、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞があることを、自我の欲望として生み出して人間を動かすことがあるということから、人間は永遠に逃れることができないのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は次のようになる。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫もしくは妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。次に、自我を主体に立てるとは何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が、自我を自分だと思い込み、自我を中心に考えるという意味である。だから、人間は、自我に執着して生きているのである。つまり、人間は、表層心理で、すなわち、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではない。深層心理が、自我に執着しているのである。だから、自我の執着から逃れられないのである。次に、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、感情と行動の指令が合体したものであり、感情が動力となり、行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。次に、快楽を求めるとは何か。快楽を求めるとは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。深層心理は、欲動に応じれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。また、快楽を求める欲望には、道徳観や社会規約は存在しない。なぜならば、道徳観や社会規約を守っても、快楽が得られないからである。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、欲動に基づいて、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的として行われるのである。そこで、深層心理が思考して、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞があることを、自我の欲望として生み出して人間を動かそうとすることがあるのである。人間が、道徳観や社会規約に基づいて思考するのは、表層心理で思考する時である。なぜならば、道徳観や社会規約を守らなければ、周囲や社会から顰蹙を買ったり罰せられたりするからである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、人間の内在的な四つの欲望である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言われるのである。深層心理は、欲動に応じれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。欲動は、四つの欲望によって成り立っている。欲動の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我を保身化させようとする。欲動の第二の欲望は、自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我を対他化させようとする。欲動の第三の欲望は、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我で、他者・物・現象という対象を対自化させようとする。欲動の第四の欲望は、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我と他者を共感化させようとする。深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動の保身化・対他化・対自化・共感化という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間を動かしているのである。さて、人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望にかなっているからである。人間の生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。そして、深層心理は、自我を守るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かし、時には、罪を犯させるのである。高級官僚たちが、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会などでの、「記憶にございません」を繰り返す国会答弁、証拠隠滅、書類消去、書類改竄などの罪を犯したのは、安倍晋三前首相に恩を売り、立身出世したかったからである。彼らは、自らの自我のために、国民を欺いたのである。彼らは、深層心理で、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動の諾否について、審議することは無い。つまり、考え込むことが無いのである。また、学校でいじめ自殺事件があると、校長・教頭・教諭の深層心理が校内のいじめを隠蔽するという罪を犯すのは、自らの自我を守るためである。深層心理には、被害生徒への思いよりも、自らの自我が大切なのである。いじめっ子の親の深層心理も、自らの自我を守るために、いじめの原因を、被害生徒や被害生徒の家族関係に求めるのである。さらに、生徒や会社員が嫌々ながらも学校や会社へ行くのは、深層心理が生徒や会社員という自我を守りたいためである。そして、検事、弁護士、裁判員、裁判官の深層心理も、自我を守りたいという欲望で動き、自己で主体的に活動していないから、日本の裁判は、政権寄りの歪んだ判決を出すのである。次に、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、深層心理が自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。深層心理は、自我を対他化し、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、自我を対他化し、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言う。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。この言葉は、端的に、自我の対他化を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の犯罪は、自我が他者に認められないどころか、他者に心が傷つけられ、怒りの感情を持ったことが原因である。すなわち、犯罪は、決まって、傷心から始まるのである。深層心理が傷つけられたからである。怒りは、深層心理が思考して生み出した復讐の感情である。それは、深層心理には、自我が他者から認められたい、評価されたいという欲望があるからである。しかし、それが、他者に認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。そして、深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、激しく罵倒したり、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働くことがあるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、深層心理が、その傷付いた心を早く回復させるために、怒り、自我に、傷つけた人を激しく罵倒させたり、乱暴を働かさせたりするのである。怒りは、深層心理が生み出した感情であり、自らの心を傷つけた相手に対する復讐を実行させる大きな力になるのである。全ての感情が行動の指令を実行する動力になっているのであるが、怒りという感情が最も大きい動力であるから、人間は怒りに駆られて行動の指令通りに行動するのである。深層心理は自らが思考して生み出した行動の指令を、自我に実行させるために、感情という動力を生み出しているのである。つまり、感情とは、現在の自我の状況を反映しているだけでなく、次の行動への動力になっているのである。特に、怒りは感情の中でも最も強い感情であり、自我を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自我を上位に立たせようとするのである。それは、自我が下位に落とされ、心が傷付いたからである。だから、深層心理は、怒ると、徹底的に自我を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自我を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自我を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。それが、犯罪に繋がるのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手の弱点を突いて下位に落とそうとするのである。女性に対しては、「ブス」、「デブ」などと侮辱したり、男性に対しては、「能なし」、「ちび」などと侮辱したり、相手が抵抗するまもなく殴ったりするのである。しかし、人間は、常に、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動しているわけではない。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得を求めて、自らの状態を意識して、深層心理が生み出した行動の指令の諾否を思考して、行動することがある。人間の表層心理での思考は、自我に利益をもたらそうという長期的な展望に立って行っているので、深層心理の瞬間的に快楽を求める思考とは著しい対照を成している。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるために意識して行うのであり、人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。また、深層心理の思考の後、人間は、感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、すぐに行動する場合と表層心理で考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。それが、日常生活をルーティーンにしているのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、自我を主体に立てて、自我に現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理での思考とは、人間の意識しての思考であり、理性である。そして、人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志による行動である。さて、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を守ろうとせず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという、欲動の第一の欲望である自我の保身化から発した作用である。しかし、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。だから、人間は、表層心理で思考し、自我を傷つけた相手を復讐した後のことを想像し、自らが発した侮辱の言葉や暴力によって、相手が深くうらんだり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくする可能性があることを考慮し、深層心理が生み出した侮辱の言葉や暴力を拒否する決断を下し、意志によって抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りが強い場合、表層心理の意志による抑圧は実行されないのである。そして、人間は、深層心理が思考して生み出した、侮蔑の言葉や暴力によって、相手を一瞬にして討ち倒せという行動の指令通りに、行動するのである。深層心理が思考して生み出した怒りの感情は、復讐によってその時の傷心から逃れるための感情であるから、相手が言葉によって傷付くならば言葉を投げかけたり、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりせよなどの行動の指令を出すのである。深層心理は、思考して生み出した侮蔑の言葉や暴力という行動の指令で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。次に、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、それは、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」という一文で表現できる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。」という意味である。自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。まず、他者という対象の対自化であるが、他者を支配することである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが目的である。だから、校長や社長は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに横暴なことをするのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば、深層心理が快楽を得られるからである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、深層心理が快楽を得られるからである。そして、後に、表層心理で思考して、自然破壊を認識し、悩むのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるからである。さらに、対象の対自化の欲望が高じると、深層心理には、「無の有化」、「有の無化」という機能が発生する。「無の有化」とは、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。 深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその目的である。「有の無化」とは、深層心理は、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。深層心理は、快楽を求めるためには、敢えて、現実を歪めて捉えるのである。次に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。そして、ストーカーの深層心理は、屈辱感から、怒りという感情と付きまとえ・襲撃せよなどの行動の指令を自我の欲望を生み出し、別れを告げられた者を、行動の指令通りに行動させようとするのである。そして、ストーカーは、表層心理で思考して、自我に現実的な利得を求めようとして、行動の指令通りに行動したならば、後に、自我に不利益なことがあるとわかり、意志で抑圧しようとしても、怒りの感情が強いので、そのまま行動してしまうのである。これが、ストーカーの惨劇である。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望から発している。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得ることができるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否して、仲が悪くなるのである。このように、深層心理が自我に執着し、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞があることを、自我の欲望として生み出して人間を動かすことがあるということから、人間は永遠に逃れることができないのである。だから、人間が、皆、自分の気持ちに正直に行動するようになれば、すぐに滅びるのである。




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