住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

なぜ坊さんになったのか 私的因縁物語2

2006年09月30日 16時43分50秒 | 様々な出来事について
前回は、全雄という僧名がこの地に私を引き寄せたのではないかと思われると書いた。名前というのは、それほどまでにその人の人生に無視するに余りある影響力があるのではないか。

実は高校時代にすでに、そんなことをうすうす考えていたことを思い出す。その名前の漢字や音から連想される内容に誰もが知らず知らずのうちに影響されているのではないかと。

字画などというものではなくて、その名前から連想する印象や意味にその人が良いにつけ悪しきにつけ左右されるのではないか。勿論名前以上に、その人の生まれた環境や社会の方が大きくその人の人生に影響をもたらすのは言うまでもないことではあるが。

それぞれの置かれた立場において、その自分の名前から感化されていくこともあるだろうということである。余談にはなるが、そう考えてみると昨今誠に奇妙な名を子に付ける風習があることはいかがなものか。

将来の私たちの社会にとって余りよろしくないのではないかと、密かに思っている。洋風の名前に無理に漢字を当てはめたり、まったく意味不明の奇をてらった名前も多い様に感じられる。名前は、その人となりを表す、ないし、その人をつくる、とは言えまいか。

この話はそれくらいにして、私的因縁物語に戻ろう。今回は、そもそもなぜ私のような、まったく仏教に縁の無かったものが突如として坊さんになったのか。その辺りの因縁を辿ってみようと思う。

子供の頃の思い出から語り始めよう。物心つく頃には父が浅草に会社をしていた関係で、浅草の観音様として親しまれている浅草寺(せんそうじ)でよく遊んでいた。連れられて本堂にお参りすると、線香の香りを、「健康でありますように」と身体に何度もかけられたことを憶えている。

そして母親は私が子供の頃から、今思うと仏教の根幹たることを小言のように話をしてくれた。「人には良くしてあげなさい、そうすればその人から返ってこなくても、きっとお前が誰かから良くしてもらえるようなるから」とか。

「人の悪口は言ってはいけません」「汚い言葉を言いなさんな」「努力すればきっと何か結果が出るものだ」などと。そんな言葉が今になって心に響いてくる。勿論どこの家庭でも、どの親でもこの程度のことは言うであろう。

しかし、私には、後に仏教を学ぶようになってから、その言葉の意味を仏教の教えの中に見出し、それによって仏教をより身近なものとして受け取ることが出来たのではないかと思っている。

そして、子供の頃の大きな出来事として、中学1年の時に祖母が、翌年には叔父が亡くなった。そして中学3年では、後藤君という友人が夏の暑い最中にガンで亡くなった。後藤君とは共に同じ部活動をしていた仲良しであった。

亡くなった日の朝まだ薄暗い頃、強い雨の音で目を覚まし起き上がると、風でカーテンが舞ったのを見た。それから、また寝込んでしまったのであったが、そんな雨は実際降ってはいなかったことを朝起きてから知った。そして、何か不審に思って、その日学校に行ってみると、未明に彼が亡くなっていたと知った。

そのことが後々まで私の心に残った。死に際に会いに来てくれたのだろうか、何か言いたいことでもあったのだろうかと。通夜、葬式、納骨と立ち会った。そして、それから月命日には毎月線香を上げに通った。

また、一年後からは何年か祥月命日に仏壇に参った。一年後には、生まれ変わりとも言えるような元気な赤ちゃんが生まれていた。後に坊さんになってからも何度か花を持って命日に参ったのを記憶している。そうして参ることが、私の坊さんとしての原点になっていたのかもしれない。今年はその彼の33回忌に当たる。

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なぜ私はここにいるのか 私的因縁物語1

2006年09月28日 09時30分58秒 | 様々な出来事について
今、ここ國分寺の住職となって、5年目を過ごしている。何のゆかりもなかったこの地に来て、こうして檀家さんがたはじめ周囲の皆様のお蔭で暮らしている。前に書いたように坊さんとは、ほんらい比丘(びく)であって、ヒンディ語でBhikshビクシュという。ビクシュとは、Bhikhariビカーリーという物乞いを意味する言葉と同義語である。

つまり人様からいただく物で生活している者を言うのであって、偉いわけでも何でもない。生産活動をせずに、周りの皆様のお陰で生きさせていただいている存在のことである。本来は、そうした供養に値する清浄な生活をし修行に生きているからこそお寺に住まうことが出来たのであろう。

私のような、そもそも仏教にも、この土地にも縁もゆかりもなかった者がこうして、この地に来て、当たり前のようにこの大きなお寺に住まわせていただいているのは誠に勿体ないことだと思う。しかし、仏教では、何事にも因縁ありなどと言って、すべてのことには原因と縁があるのだということを言う。私がこうしてここにいるのにも深い因縁があるということだろうか。そう思って考えてみると、実はいろいろと思い当たる節があることに気がついた。

まず私の名前とこのお寺に関する因縁からお話ししてみよう。そもそも私の僧名全雄(ぜんのう)というのは、お寺の生まれでもなく親戚にお寺があるわけでもない東京生まれの私が、26歳の時高野山で出家得度式を受ける際に、元宝寿院門主・高野山専修学院院長で高野山高室院(たかむろいん)の前官(ぜんがん)・齋藤興隆師に弟子入りして付けていただいた名前である。

しかし、前官さんはこの時既にかなりのご高齢で持病を抱えており、実は弟子入りした年の年末に亡くなられてしまっている。そこでそのとき、事前に希望する名前があったら、書き出してきなさいと言われていた。それで、いくつか自分で好きな文字を並べ、組み合わせた名前を用意していた。その中から前官さんが決めて下さった名前がこの全雄という名前であった。

勿論その時、20年も後にこうしてこの地にいることなど思いもよらなかった。しかし最近、この名前こそがこの地に私を引き寄せたのではなかったかと思うようになった。なぜなら、「全」の字は、同じ結衆寺院の老僧の名にあり、また同じ郡内で近隣出身の草繋全宜(くさなぎぜんぎ)師の一文字でもあるから。

全宜師は、明治16年に生まれ、幼少の折この國分寺を元禄時代に再建した快範師の出身寺院福性院の弟子として出家された。そして、明治の中頃、倉敷連島の宝島寺が、釋雲照律師創設の連島僧園として持戒堅固な清僧を養成する戒律学校としてあった時代に、全宜師は若き日をそこで過ごしている。

実は私をここ國分寺に御案内下さり仲介の労を執って下さったのは、現宝島寺ご住職なのである。それから全宜師は東京の目白僧園に出て、雲照律師の膝下で薫陶を受けられる。その後大正昭和と本山の様々な要職を経て戦後國分寺の本山である京都大覚寺門跡になられた。

そしてまた、「雄」の字は、國分寺の先々代住職泰雄(たいおう)師の名にあり、またその師の龍池密雄(りゅうちみつおう)師の一字でもある。密雄師は、明治の揺籃期に当時まだ一つであった真言宗の各本山独立の機運があった折に、その機に乗じて高野山の東京主張所長として高野山興隆のために気を吐いた。

後に福山の明王院に戻られてから、大覚寺門跡に担ぎ上げられ、当時高野山と大覚寺それに仁和寺が共に三派合同の古義真言宗管長を輪番で務めていたことから、後に高野山に登られ管長にもなられている。

全と雄の二文字が、ただ偶然この土地出身の高僧方と結びついたにすぎないのかもしれない。が、私にとっては、何か因縁浅からぬご縁を感じるのである。名前を付けたから因縁が生じたのか、もともとあった因縁に名前が誘発されたのかは分からない。しかしいずれにせよ、名前が私の今に結びついていることは確かなようだ。毎日書いたり読んだり呼ばれたりする名前は私たちの性格や人生に、実はとても大きな影響を与えているのではないかと思えるのである。・・・つづく

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四国遍路行記13

2006年09月24日 18時47分16秒 | 四国歩き遍路行記
このとき野根のお大師さんに二泊している。たった一人でお寺を守っている老僧さんと一緒に日長一日色々な話をして過ごした。裏山の木がお堂の屋根に伸びてしまったのを一緒に切り出したり、境内の掃き掃除などもさせていただいた。3日目の朝遍路へ戻る私を国道まで出てきて見送って下さった。今あの老僧さんはどうなさっておられるのか。お元気でいて欲しいと思う。

それから、国道をひたすら歩いて室戸岬を目指した。海岸沿いのひなびた町並みを眺め、また開店休業中といった錆び付いたホテルにかつては人々で賑わったのであろうわびしさを思いつつ歩いた。もう何か見えてくるだろうと思うせいか、なかなか陸地の果てが見えてこない。まだかまだかと思っていると、右手の先に白い大きなお大師さんが見えてきた。10㍍はあろうか。室戸岬の手前に出来た新しい地元仏教界で造った青年大師像だった。

そこを過ぎると国道沿いに、二つの洞穴が現れた。右に神明宮、左が御蔵洞(みくろどう)。御蔵洞で弘法大師が若いときに虚空藏求聞持法を修した。その時龍が現れ修行を止めさせようとしたが、大師は動じることなく完遂し、空と海が口の中に飛び込んできたとも言われている。

このとき、神明宮前で心経を唱え、それから御蔵洞に入った。中は真っ暗で結構奥が深い、コウモリが飛んできそうな薄気味悪い感じがした。何か神様を祀っているようで、神具が並んでいた。振り返ると遠くに水平線が見えた。

大師は四国での修行の後、唐に行く。本格的に真言密教を学ぶために。はっきりと目的を定めて意中の人と出会い、悉く密教を授かって帰国する。その後四国をお参りして歩いたときに、御蔵洞での求聞持法の成就を思い出されて、ここに虚空藏菩薩を本尊に造ったお寺が最御埼寺(ほつみさきじ)だ。

岬をぐるっと回って坂道を上り、石段を上がって24番最御埼寺に参る。山門を入り手前に大師堂、奥に本堂が位置する。境内は岩場でなだらかに傾斜していた。夕方に差し掛かっていたが、先を急ぐ。国道に降りて、国道55号線を高知に向け歩く。25番津照寺は6キロとある。だんだんと暗くなってくる。6キロなど、すぐだと思って歩くので、とても長く感じた。

室津港を左に見て突き当たりを右に曲がると石段が見えた。石段手前のベンチを今日の寝床にすると決めた。翌朝、夜露で寝袋が濡れていた。石段を上がり、本堂にお参りする。本尊は延命地蔵菩薩。本堂は鉄筋の現代風の建物ではあったが、護摩を焚いた残り香が匂ってくるような拝み込んだ雰囲気と本尊様の存在感を感じた。本堂から太平洋が一望できる。さすがは海上安全を祈願するお寺に相応しい眺めであった。

26番金剛頂寺は、国道に戻って5キロの地点にある。大きな駐車場から石段を上がるとコンクリートの打ちっ放しの大きな本堂が見えてきた。屋根は本瓦がのっている。堂々とした造りだ。ゆっくりとお経を唱える。

また国道へ戻り歩く。27番神峰寺までは29キロもある。途中昼すぎ頃食堂に入った。網のケースからおかずを出してご飯と汁を取って食べる昔ながらの食堂だった。自分の家で食べたようなお袋の味。ゆっくり食べて、トイレを済ませてお勘定。

代金を小銭で支払うと、そのお金を受け取られてから、そのうち200円だったか「はい、お接待です」と言われて返して寄越した。何とも申し訳ない思いがしたが、「ありがとうございます」と言って頂戴した。こういう事の繰り返しだと、食堂に入るのにも気が引ける。だからついついお店でおにぎりやパンを買って済ませることが多くなってしまう。

神峰寺を目指して歩くものの夕刻が迫ってきた。まだ神峰寺のある安田町の隣町田野町あたりで、今日のお宿はどうしたものかと考えていると、駅を過ぎて町並みがとぎれた辺りに国道からすぐ右上に小さな神社があった。細い階段を上がると猫の額ほどの境内に出た。小さな社があって、無人であった。水道もある。丁度先に仕入れておいたお弁当の用意もある。手と顔を洗い、腹ごしらえをして、静かに中に入って寝袋を開いた。

昔は、よく僧侶が神社で修行をしたという。神仏習合と言い、だから今でも日本人は神仏を一緒に参る習慣がある。神亀二年(725)大分県の宇佐八幡宮に僧侶が住み、社僧として神前で読経するのが習慣化して神仏習合が始まった。以来江戸時代まで続けられてきた。一千年にも及ぶこのような伝統に基づいて私たち日本人の信仰は形成されたのであった。だから、古い四国遍路の札所には神社も含まれていたと言われている。

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七日参り

2006年09月21日 18時36分16秒 | 様々な出来事について
今晩も、七日参りにまいります。七日参りとは何か、知らない人もいるかもしれない。私もこちらに来るまでは、つまり7年前までは自分で実際に参加したこともなかった。七日参りとは、人が亡くなって、七日目が初七日、そして二七日、三七日という具合に、七七、四十九日の法要までの6回簡略化した法要を営むことを言う。

私がこの地に来て、ひと月くらいした頃、晩に檀家さんが亡くなって、枕経に伺い、そして、通夜葬儀を勤め、初めてその方の二七日に七日参りにいったとき、晩の7時というのに当家精霊の祭壇が祀られた部屋にはいると20人を越す人がお参りになっていた。ご家族程度の人が集まっているばかりであろうと簡単に考えていた私は、部屋に入りきれないほどの人に面食らったのを今もはっきりと憶えている。

そして、常用経典である理趣経を唱え、在家勤行次第を参会者みなさんと唱えてから礼拝し振り向くと、一斉にこらちを見つめる視線に、それでは少しお話でもいたしましょうか、ということになって、結局その家での七日参りにはお経の後、必ず法話をするということになってしまった。

何をお話ししたのであったか。仏教についての初歩的なことを話したように記憶している。おそらく、礼拝について、十三仏について、お経の唱え方、十善戒、戒定慧の話、それから四国遍路の話もしたであろう。とにかくこの地に来たばかりで一生懸命に話したことを憶えている。最近では余りこうした型どおりの話はしなくなっている。それは既に月一回のお話会などで話を済ましているからであり、何度か話しているうちに、他の家の七日参りの際に聞いているであろうと考えられるからだ。

ところで、こうした七日参りの風習は、徐々にこの地でも無くなりつつあるようである。他のお寺では申し出のあった場合のみお参りするというところもあるし、福山市の街中では既にまったく七日参りをしないというお寺もあると聞いている。東京などでは、そのようなお参りの言葉さえ出てこないのではないか。初七日の法要を葬儀当日火葬場から戻って勤めた後は四十九日の法要があるのみであろう。

先に、都会では病院からそのまま火葬場に直行して、そのまま納骨してしまうケースが目に余る現象となっていると書いた。稀なケースではないということであって、そのことが人の死をあまりにもおろそかにする、軽々しく扱うことになり、それは命ということを軽視することになりはしないかと書いた。いのちを大切に、尊い命、命の教育などと叫ばれて躍起になっている割には、実際には命のこときれたことを何とも思わないという現代人の心情をストレートに表す現象が現れているとも言えよう。

七日七日にお参りし、そうして四十九日の法要を迎えることによって、来世に旅立つ故人に最後の功徳を手向け、そしてどうぞより良い世界に生まれ変わり下さいと回向する意味が身を以て実感されるであろう。

知人の家に遊びに行って、帰りに送られるとき、玄関先で、「それでは」と言ってすぐに家に入られるのと、何時までも小さくなってまで通りを歩くあなたを見送ってくれていたのを曲がり角へ来て振り返り知るのとでは、やはり受ける気持ちが違うのではないか。それが一生に一度の別れであればなおのこと、今生から来世に旅立つ最後のお別れをするのが四十九日の法要であるのだから、それまでしっかり見守ってあげて欲しいと思うのである。

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としのこと-年齢はこの身体の年数に過ぎない

2006年09月18日 16時40分55秒 | 様々な出来事について
昨日ある家の法事に行ってきた。13回忌だから、本当に近い人たちだけの少人数の法事である。「田舎の方でも、だんだん法事をこまくするようになったわね」そう大阪からお越しになった方が言うように、近年益々仏事法事は質素に小規模になってきている。

それでも唱えるお経も、法話も変わらない。一家族であろうが、小規模であろうがそう簡単に済ませられるものではない。法話には、葬儀の際の引導を渡すということの意味や戒名のこと、それに戒律のことをお話しした。

戒名は戒律をいただくときの名前であって、来世に旅立っても仏教徒として、しっかり教えを受け取ってもらい、心の修行をして、心きよらかに生きてもらう、そうして何回も何回も生まれ変わって悟りに向かって精進して下さることを願うのだ、というような話をした。

近くのお墓に参る道すがら、「住職さんは若いから・・・」というようなことを盛んに言う方があった。「いやいや年なんか考えてはいけないんですよ」とその時は言うに留まったのだが、お斎の席でも年の話になり、そこで、年ということについて少しお話しした。

よく長生きをしなけりゃ嘘よ、というようなことを言う人がいるが、それは確かに、下手な生き方をして、つまり生活習慣や心の持ち方が悪くて早死にしてしまうという人には当てはまることかもしれない。しかし、ただ長生きすればいいというものでもない。若くして亡くなってもいい仕事をして、後の人たちに大きな影響を残して死んでいく人がいる。誰とは言わないが、そんな人は多く歴史にも名を残しているだろう。

スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863~1902)というヒンドゥー教の僧がいる。彼はラークリシュナというインドのベンガル地方に生まれ、まことに敬虔な、本当に神、カーリー神にまみえ語ったという聖人の弟子で、1893年にシカゴで開催された世界宗教会議に参加し、ヴェーダーンタ哲学の真髄を説き、普遍宗教の理想を雄弁に語った。

そして、ロマン・ロランをはじめとする欧米の知識人に深い感銘を与え、東西の精神的交流に先駆的役割を果たしたと言われているが、たった39年しか生きていない。しかし、スワミ・ヴィヴェカーナンダは、多くの講演録や著作によってその教えが未だに多くの人々の中に生きている人の一人だ。

私自身も昔あるヨーガの先生についてハタ・ヨーガを習っていた時期がある。週一回通うのだが、空中浮遊で有名になったその先生の本当の年を誰も知らなかった。すると先生がある対談でこんな事を語っていた。年というのは、この今生の身体の年数に過ぎない。しかし私たちは誰もが何回も何回も、何万回も輪廻転生してきているはずだ。その回数は人によって違う。だから今生の年だけでは本当の年などというのは計れないのだと。

確かに、今生にため込んだ知識、技術などは年相応ということもあるだろう。しかし時に、全く年数が浅いのに、すぐに理解してしまう人、すさまじく早くマスターする人がいる。語学や、書や、音楽、絵など。仏教の修行などでもそうしたことが言えるだろう。

まだ何年も修行をしていないのにすぐに悟ってしまうというお釈迦様の弟子が出たりしているから、昔からそうした事情は変わらない。これらは正に前世に修得した賜物と言うことが出来るのではないか。また、人それぞれ、思考も趣味も関心も違う。たとえ兄弟であっても。そんなところからも過去世の存在が窺い知られよう。

仏典の一つにジャータカというお釈迦様の前世譚がある。どれも過去世でどれだけお釈迦様が功徳を積んできたかを語っている。そのお蔭でルンビニーのカピラバストゥに釈迦族の王子として生まれ出家し、誰に教えられたわけでもなく自らの工夫精進によって完全に悟られ輪廻から解脱されたのであると、このように考えられている。

坊さんの世界では、本来出家してからの年数で席次を決めることになっている。1日でも、1時間でも早く出家した人が上になる。昔ネパールに巡礼したとき、若い住職さんのお寺に90過ぎのお坊さんがいて、礼拝しようとしたら、止められてしまったことがある。この人は最近出家したばかりだからと。人生経験は年数にならないということだ。

しかし、お釈迦様ご自身は、「長老とは、ただ白髪をたたえているから言うのではなく、真理、真実、不殺生と自制と節度を弁えた汚れなき者を言う」と、法句経に述べられている。長く坊さんをしているからいいということでもないということになる。勿論これは坊さんの世界の長老のことではあるけれども、どの世界でも歳を取るだけで長老とは認められないのが本来ではないだろうか。

ところで、最近ある尺八の世界的な権威である先生にお会いした。その時先生は、年は言わないことにしています。年で見たり聞いたりして欲しくない、この音で判断してもらいたい。そうはっきりと言われていた。何年修行した、何年のキャリアがあるというそれだけで人を、この場合尺八を聞いて欲しくない。尺八そのものを、またご本人の存在をそのままに感じて欲しいということであった。私はなるほどなと思った。

年で人を判断してはいけない。自分自身も年だからなどと考えてはいけない。そうあるべきなのではないか、誰もが過去から積み重ねたものをもって今を生き、未来にもそれをもたらす身であることを考えれば。そして、ただ素直に、今を大切に生きるためにも。

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五戒について

2006年09月16日 19時54分57秒 | 仏教に関する様々なお話
戒律などというものが今の世の中に通用するのか。戒律などというものがあるから世の中かえっていかがわしいものが氾濫するに違いない。戒律など無くしてしまえ。誰が今の時代戒律など守る者があろうか。そういう声が聞こえてくるようである。今という時代は、戒律にとって、誠に居心地の悪い、受難の時代であると言えようか。

戒律とは、どの宗教にとってもある程度規定されているものであろう。「汝かくあるなかれ」というものは、どこにでも、どの時代にもあったはずだ。仏教では本来誠に厳格にこの戒律を規定してきた。他の仏教国では未だに大事な、出家たる者にとっても、また在家の仏教信者にとっても大切な教えとなっている。

在家の守るべき戒に五戒がある。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五つだ。これらは、あることをしなければいいというものではなくて、その反対のことを求める教えとしてあると教えていただいたことがある。だから、生き物を殺さなければいいというので無しに、その反対であるから、生き物を慈しみの心をもって育むということが必要なのだと。その他の4つについても同様である。

そしてそれらは、なぜこのように五つであって、この順番であるのか?六つではいけないのか。七つであってはいけないのか。そう考えてその他のことをここに入れようとすると、なかなかうまいことが思い浮かばない。布薩(ふさつ)という、満月、新月、半月の日に毎月4回在家者が行う精進日には在家仏教徒は、八戒を守ることになっているが、五戒の不邪淫戒が不淫戒となり、歌舞音曲をせず、午後食事をせず、香や装飾をせずという三つが加わる。

また、正式な僧侶になる前の見習い僧である沙弥(しゃみ)の十戒では、布薩の八戒に加えて、立派なベッドに寝ない、金銭を受け取らないという二戒を加える。これら五戒の他に加えるものを実際に普段に在家の人たちが守ろうとしたら、仕事にならず、社会生活に支障をきたすということになるのであろう。

お釈迦様の教えは誠に調った完璧なものであるとよく言われる。時代が変わったからと言って加えたり、はぶいたりできないということであり、この五戒は広く人類共通の守るべきものだと言ってもおかしくない。仏教徒だけが守ればいいというものでもない。そして、この五戒のその順番もおそらく、そこにお釈迦様の意図が隠されているのではないか。と私は思う。

なぜ不殺生が一番先に来ているのか? それは何よりも私たち自身が生きるということ、この生に強い執着を持っているからであり、それは他の生き物も同じなのだということを教えておられるのではないか。自分が生きたいなら、他の者も同じように考えているのだから、他の者たちの命を自分の身に置き替えて大切にしてあげなければいけない。他を殺すなら、自分も殺されるぞということを言いたかったのではないか。私たちは生きていい、お前たちは生きていなくていいなどということは成り立ち得ないということを。

そして、私たちが生きていく上で、食べ物にしろ住まいにしろ道具にしろ、物が無くては生きてはいけない。けれども、その物も自分の物を大切に思うなら、他者も同様であると考えて、他者の物を取ってはいけない。かえって、自分の物をみんなと分かち与えることで、自分も良くあるであろうということを教えてくれているのではないか。

また生きる上で、私たちには様々な欲があるけれども、特に性的な欲求をそのままに行動していたら、多くのトラブルを抱え、その社会では生きられなくなってしまう。なぜなら、邪な行動を起こす相手の人には家族があり親族があり、様々な人間関係のある人であるから。自分や自分の家族を大切に思うなら、他の人や家族を損なうことをしてはいけないということになる。

そして、その社会の中で、人間関係をつくるために言葉がある。誰にとっても自分が可愛い。自分によかれと思って目先の利益を優先し、嘘をかさねるなら、その人は、いずれ人としての信用が無くなり、やはりその社会で生きていく上で大きなハンデを背負うことになる。嘘に限らず、言葉は様々なトラブルを引き起こす。人の悪口、罵詈雑言、おべっか、二枚舌、いずれもその人の人格品格を損なう。口から出たものにフタはできない。口は災いの元。自分だけよいようにと思ってはいけない、真実を言うべき時に丁寧に言う、という慎重さが必要だ。

それから大切なことは我を忘れるということがあってはならないということだろう。お酒に限らず、薬物によって、自分というものをなくしてしまってはいけないということだ。私たちには、この上なく時に、何もかも忘れてしまいたい、考えないでいたいということがある。病気のこと、仕事のこと、人間関係のこと、様々なことが心に襲いかかってくるだろう。だが、そんなことがあったとしても、お酒などで自分を忘れるなどということでそのことは解決できないよということではないか。やはり、その耐えきれない悩み苦しみではあっても、それをしっかりと受け入れて、冷静に生きていかなきゃダメだということではないか。

五戒も、こうして考えてくると、その順番もしっかりと意図的に、私たちが大切に、重要に思っていることは何か、つまり生きる上で何に本当にこだわって、何に振り回されて私たちは生きているか、ということを教えてくれている。

お釈迦さまの教えは誠に素直に何のてらいもなく素っ気なく、一見有難味がないように感じる。しかし、そこには、この五戒のように、どの教えにも本当はお釈迦さまの深い、誠に思慮深い意味が込められている。その意図を私たちが汲み取ることなく、ないがしろにしていては、その教えをただ形骸化していくのみで、その教えの何たるかを知ることはないであろう。私たちはその一つ一つをもう一度改めて検証していく必要があるのではないかと思う。

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薬師巡拝

2006年09月13日 19時54分56秒 | 様々な出来事について
中国5県に薬師霊場が出来て、今年で10年ほどになろうか。ここ國分寺も中国49薬師霊場の第12番札所になってはいるが、まだまだできたての霊場である。今日様々な霊場が雨後の竹の子のように各地にできている。薬師霊場は個々のお寺は古刹ばかりとは言え、それらの一つということになるのであろう。

歴史ある霊場としては西国や板東の33観音や、四国88カ所遍路が特別に有名で全国から参詣者が絶えない。これらの発祥を考えれば、もともとそれらを札所としてではなく、心から観音様を慕い、遠くからでもお参りに来る、そうした多くの信仰を集める霊場がいつの時か、一つの巡路として観音様に縁のある33という数でお寺を繋ぎ参ることが、より御利益ある参り方として定着していったのであろう。西国33観音は平安末期ごろ開創と言われている。

四国であれば、四国の辺境を辿る辺路の修行者たちが作った道を歩き、各々の行場で修行した弘法大師に因む沢山の霊場を後にへんろ道として多くの人が辿ったということであろう。そして、数も語呂が良く末広がりの八を重ねる数として88と限り、四国88カ所としたのではないか。

だから、先に霊場として誰かか企画を作り人々が後について参ったということではないのであろう。先に遠くからも参る人々の道が出来て、そして数を限り33観音霊場というように後々に決めていったのではないか。

実は、昨日一昨日と地元のお寺さんがたとともに団体を組み中国49薬師霊場の岡山鳥取17ヶ寺を巡拝した。朝6時半、福山市神辺から国道313号線を北東に進み、備中高梁市の第2番薬師院さんを皮切りに、真庭郡落合町の第3番勇山寺では明治42年に国宝に指定されたお薬師さんを拝み、また同じく国宝丈六不動明王を間近に拝ませていただいた。

また、蒜山高原に位置する第4番福王寺では、土地に疫病が蔓延しその平癒のために護摩を焚くときお薬師さんの左手に持つ薬壺をくべて焚いたため薬壺を持っていない珍しいお薬師さんではあるけれども、代わりに薬壺を天井に描いたとか、また水害があったので本堂の龍の彫り物の尻尾に杭をしたとか、秀吉の養女で宇喜多秀家の室お豪が静養したため立派な伽藍が出来たが、お豪がキリシタンだったため、後に取り壊しにあったというような興味深い話を伺った。

それから米子市内の寺町第40番安国寺に参り、全国に足利尊氏が南北朝の戦乱で死んだ敵味方の霊を弔う怨親平等供養のために造らせた安国寺66ヶ寺の一つで、ここでは米子城主中村一忠が城下町を造る際に9軒のお寺を外郭に一直線に並べて城壁とすべく余所の地から移転されてきたという話を伺った。

また、有名な国宝投入堂のある三徳山三仏寺皆成院では、三仏寺は役行者が1300年前に開創した修験の寺で、三徳とは、幸福と智恵と寿命の三つを言い、その三つを授かり一度死んで汚れた体と心をもう一度生まれ代わらせるために、この修験の山がある、是非体験して欲しいという話を。

鳥取のお城のあった久松山の麓にある第46番最勝院では、老住職さんが京仏師松久宗琳の門下生として指導を受け自ら彫った2メートルの薬師立像や愛染明王などへの信仰について話され、参拝した一人一人の背中をさすって慈悲深いひと言アドバイスを授けられた。師は、今の時代に珍しい誠に慈愛溢れる老僧である。

そして、鳥取から岡山津山に抜け、最難所第7番佛教寺の札を打ってこの度の巡礼を終えた。今回参詣した17ヶ寺、いずれも、歴史ある古刹であった。時代の栄枯盛衰を目の当たりにした思いがする。

と同時に、特にこの度温泉地に出来たお寺が多かったせいか、その歴史を思うと、人々の健康への願いと信仰、それに土地の繁栄や観光が結びついたお寺の姿が見えてくる。いつの時代も様々な要素が結びついてはじめて繁栄発展が繰り返されていくのであろう。信仰だけでも、観光だけでもいけない、それらに伝説や伝統が加味されてはじめて霊場の発展があるのかもしれない。そんなことを思いつつ神辺へ戻る山陽道から夜景を眺めた。

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法の六徳

2006年09月10日 14時49分36秒 | 仏教に関する様々なお話

毎月第2金曜日に仏教懇話会というお話会を開いている。もうかれこれ5年を経過して、始めた頃はネタも早々に尽きるだろうと思って始めたのだが、相変わらず毎回一時間の私のよろず話に耳を傾けて下さる檀信徒の皆様に支えられ、いや救われて続いている。

今月も8日に開かれ、「帰依礼拝について」話し及び、その対象となる仏・法・僧の三宝を説明したが、仏と僧は話しやすいが、肝心の「法」ということになるとなかなか分かりにくい。ついついホームページ・ナマステ・ブッダからコピーして南方仏教徒が唱えるパーリ語の礼拝文なども紹介したが、かえって分かりにくい話になったかもしれない。

仏法、正法などとよく言われる仏教の法ではあるけれども、それでは、この法とはいかなるものなのか。法はインドの言葉では、ダルマ(Dharma)、又はダンマ(Dhamma)という。ダルマは、現代ヒンディ語では、属性、本性、宗教的義務、善行、宗教、法則という意味がある。パーリ語のダンマは、教法、真理、現実存在を現にかくあらしめる働き、規範、性質、道などとある。

そもそもこの世の中の法則、摂理、性質を意味しており、だからこそ教え、宗教という意味にも使われるのであろう。普通宗教というと、人間を超越した存在に対する信仰やその教義。そして儀礼をともなうものを意味する。しかしインドの宗教にはそうした意味合いは希薄であることが、このダルマという言葉を見ても分かる。

ヒンドゥー教であっても、神との合一を目標とし、その境地に至る修行が重視される。仏教はもともと私たちと同じ人間として生まれたお釈迦様のさとりを目指し、輪廻からの解脱を遂げることが教えの本義であろう。神仏を崇拝し救済を願うというのは本来仏教徒のすることではない。お釈迦さまのその徳を拝しつつ、さとりに向かって歩む者としてあって欲しい。そんなことも話した。

ところで、法というと、インドのサールナートという仏教発祥の聖地にいた頃、ダメークストゥーパという大きな仏塔の前にタイの人たちが団参にみえて、盛んにチャ・ダンマ・グナ(cha dhamma guna)という「法の六徳」と訳される法の定義とも言える偈を何回も唱えていたのを思い出す。

<法の六徳・パーリ語>スヴァッカートー・バガヴァターダンモー・サンディティコー・アカーリコー・エーヒパッスィコー・オーパナーイコー・パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー・ティ

(和訳・かの教えは、①お釈迦様によってよく説かれたものであり、②自分で見るべきものであり、③時間を経ずして果を与えるものであり、④来たりて見よと言いうるものであり、⑤涅槃に導くものであり、⑥賢者によって各々知られるべきものである。)

少々専門的になって恐縮だが、少しこの法の六徳の意味するところを解説してみよう。 ①のお釈迦様によってよく説かれたとは、整然とすべて何も秘匿することなく公にされたということ。特にさとりに至る道程が不要なもの無く、加えるべきものも無く完璧に説かれているということ。秘密にされたようなものはないということ。

②の自分で見るべきものとは、さとりへの道程を進む者にとって自ら見るべきものということであり、他者の言うことを信じて進むのではなく、自らが見るべきであるということ。人に言われてそんなものかと知るものではなくて自分がその法そのものを見なければいけない。

③の時間を経ずして果を与えるというのは、世間の善行の果は時に長い時間を要するけれども、さとりに至る道程における善行は時間を要せずに果が得られるということ。さとりに近づくほどその功徳は計り知れないほど強く大きなものになるということになろうか。

 ④の来たりて見よと言いうるものとは、そのさとりの道程に至る道は特定の人たちのものではなく、誰にでも公開し、誰でもが見出しうるものであるということ。誰が来て見ても不快なものでも困るものつまらないものではない、それだけ自信をもってここにいたりご覧じろ、ということか。

 ⑤の涅槃に導くものとは、さとりに至る道程が行者を涅槃に導くということ。聖者に列せられるほどさとりに近づくと自然に悪行が出来なくなり、さとりに至る道だけが開かれているという。

⑥の賢者によって各々知らるべきものとは、さとりへの道程を歩んだ者に道は修せられ、果は得られ、涅槃が証せられたと知られるものということ。さとりへの道程を歩まない者には知ることは出来ない、つまり実践が不可欠であって、単なる知識だけではダメだということであろう。

少々難しい内容の羅列になってしまった。が、ようは、法とはさとりに至る実践の教えであって、それはお釈迦様によってすべて完璧に説かれ、決して秘密にされるようなものではなく、また生まれや階級など人を分け隔てすることなく、広く公開されたものであって、誰もが自分で歩み、最高の善行であるさとりへの瞑想行を修することで涅槃にいたり、なおかつ自らさとったと確認できるものだということになろうか。

宗教というと、手を合わせ礼拝し、神など人間を超えた存在に感謝をささげお伺いを立てる、沢山の御供えをして救いを求める、願い事が叶うように祈り拝む、という印象があるかもしれない。がしかし、本来仏教は、そうしたいわゆる宗教とは全く性格を異にしているということがこれによって知られよう。信仰や祈りよりも、この世の中の有り様、法則を学び理解して、さとりに向かって善行功徳を積み、実践に励むことが仏教徒のあり方ということになるのであろう。

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四国遍路行記12

2006年09月08日 09時58分55秒 | 四国歩き遍路行記
翌日出がけに、「それではどうぞお先に」とAさんに言われ、私が先に歩き出す。今思えば、Aさんは60代半ばくらいの女性だったのだろう。当時は私も30になったばかりで、随分年が離れていたこともあり、孫と祖母くらいに思えたが、子と母と言ってもおかしくない年の差だったのかもしれない。随分失礼なことも言っていたのではないかと反省する。このAさんのお蔭で私の引き摺っていた足は癒され、この後室戸に向かってひたすら歩く元気をいただけたのだと思う。

薬王寺から室戸の24番最御埼寺までは86キロもある。その間に番外札所の鯖大師がある。阿佐海岸鉄道牟岐線の下をくぐって国道の右側に道があった。鯖大師は、鯖を右手に持った弘法大師の石像が本尊で、昔お大師さんがこの地で修行中に塩鯖を運ぶ馬子に鯖を供養してくれるように乞うて無碍に断られたというよくある話が起源になっている。

その馬子はその先に進み坂に差し掛かったところで馬が急に動けなくなった。馬子は先ほどの僧に供養しなかったせいと思い引き返して、鯖をお大師さんにさしだした。大師は加持した水を馬に飲ませると馬は元に戻り、そして大師は近くの浜で塩鯖を加持すると生き返って泳ぎだしたと言われている。

宿坊もあって賑わっていた。近年大きなお堂も出来たが、昔は小さな祠のようなものだったのではないかと思わせる低い天井のお堂で拝む。ゆっくりお参りしてまた海岸沿いの国道を室戸に向け歩く。時折きれいな砂浜が広がった様子を一望できる。青空、青い海、岩の黒茶色、そして木々のみどり、砂浜の白。この色のコントラストがすばらしい。思わず駆けだして砂浜で寝転がり青い海に泳ぎ出したいという思いにとらわれつつ歩く。

この辺りからか、2時間歩いたら少し道端に腰掛け休む習慣になっていた。また昼の時間や夕飯時間にお店に出くわすかも分からないので、商店があったら、とにかくおにぎりやらパンを買い込み頭陀袋に入れておくようにした。この日も途中で買ったおにぎりを大砂海岸で海を眺めつつ食べた。今日はどんなところで寝れるのか、足の調子が良くなって、そんな不安もよぎる。海部、宍喰。港町を通過する。

海部という字を見て、90年代の初めに首相を勤めた海部総理を思い出していた。海部さんは私が高校生の頃よく見ていた、今でも日曜日の朝放映しているNHKの国会討論会という番組に毎週のように出演し、こぎみいい答弁をしていたのが印象にあった。丁度この遍路をしている時期に首相だったのではないかと思う。

実はこの後2年後インドに行くときに成田の搭乗ロビーで海部氏と出くわしている。SPやら取り巻き数人を連れて歩いてきたのだが、海部氏の周りにオーラのような物を感じたのを記憶している。ところで海部氏がこの地とは関係があるのか無いのか定かでない、確か愛知県選出だ。

さてそれはさておき、海岸沿いをひたすら歩いて県境に差し掛かり、いよいよ土佐の国。甲の浦を過ぎて東洋町に入ったところで、右側に東洋大師と看板があるのに気がついた。午後の何時頃だったであろうか。小高い石垣の上に番外札所東洋大師があった。小さなお堂の前で心経を唱えていると、ガタガタと戸を開けて、小さな住職さんが出てきてくださった。

老眼鏡で目が大きく見える。キラキラした目をして、「よくおいでなすった。中に入りなさい」そう言うと庫裡に入ってしまった。私はお経だけ唱えて帰ろうと思っていたのに、後について行かざるをえないことになって、中にはいると、電話をしている。そば屋さんに出前を取っていた。私が腹を空かしているだろうと気を遣ってくださったようだ。小さな庫裡の後ろにはお堂がくっついていて、暗いお堂の中にお大師さんが隠れておられた。

元々この辺りは野根というところで、昔は野根大師と言っていたそうだが、近年東洋町と町名が変わったので東洋大師と言っているとか、修行時代一生懸命拝んでいると、雨が降ってきて気合いを入れると自分を雨が除けて降ったとか、とにかく色々昔話を語ってくださった。一人住まいで、跡取りもいないという。「まあ、ゆっくりしていきなさい」というので、その日はのんびり、野根のお大師さんと寝ることにした。

こらこら車 そんなに急いで いいことあるか

てくてくと お前も遍路か カタツムリ

もったいないと 思いながら 先を急ぐ

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みてくれの大切さ2

2006年09月05日 16時10分45秒 | 様々な出来事について
インドで見聞したことを題材に前回は、みてくれも大切で、そこには内面の充実、しっかりした精神的な裏付けも必要だということを書いた。だが、日本でも勿論見るからに立派な人というのはいるだろう。たとえば大正から昭和初期にかけて名を馳せた肥田春充という方がある。

この方は子供の頃とても身体が弱く、親も兄弟もみんな虚弱で死んでいってしまう。こんなことでは折角生まれてきたのにお国に申し訳が立たないということで、一念発起して医者であった父親の医学書から健康に関する古今東西の書物を手当たり次第に研究し、肥田式強健術という独自の壮練健康法を考案。丹田を中心に気を込めて腰腹均等に力を入れる姿勢にこだわった人あり、肥田仙人とも言われた。

人の身体は細胞が数ヶ月で全部入れ替わるのだから、鍛え方次第で肉体は壮健になるはずであるとして、筋骨隆々になる体操法と腹式胸式の呼吸法などを考案した。著書は天覧本にもなった。茅棒から哲人に、身体を生まれ変わらせて超能力を身につけ、さとりの階梯にもたどり着いたと言ってもいい。

孫が飼っていたカブトムシが居なくなり、祖父春充に尋ねると、どこどこで死んでいるよ、と言うので見に行くとその通りだったとか、孫娘さんを寝かせて気合いを入れると浮き上がらせて回転させたとかいう逸話が残っている。また戦前戦中にはその強健術が軍隊の体操に採り入れられ、軍隊に入っても上官から一度もビンタを食らったことがなかったとか。政治家らの相談にも乗っていたようだ。

余談はともかく、肥田春充氏の写真はどれも凜として堂々としたものばかりだ。まさに生きた仏像が立って歩いてくるようだと感想を残している人もある。その姿は、自ら切り開いた方法論に基づいた生き様と修養、そのものがにじみ出ていると言ってもいい神々しさがある。

仏教では、すべてに因縁ありといって、何事にも原因があり、それが結果してまた原因となるというように、すべてのことが原因結果を繰り返しつつ今に至る。瞬間瞬間積み重ねていった、心で考え思うことも含めて自らの身口意の行い、行為(業・カルマ)の集積した結果が今であると考えている。春充が身体が入れ替わると考えたように、私たちの将来もこれからの行い次第で入れ替えられる、だれもが変身可能ということになろうか。

前回インドの人々の歩く姿の美しさを述べた。それに引き替え日本人の歩く姿は、せせこましく、落ち着きがなく、慌てたような、どちらかと言えば猫背の姿勢に特徴があると言えようか。そこには、私たちの心、抱えているというか背負っているものの重たさを思わざるを得ない。そんなところに現代日本人の国民性を見る思いがする。

子供の頃から何か晴れ晴れとしない、目に輝きを失って、因縁づけられた人生を進まされ、したくもない勉強漬けになって、やっと入った学校でもいじめにあったり、会社に入っても競争の毎日。こき使われてお金に執着する経営者を批判も出来ない。ちょっとした息抜きに羽目を外して人生を台無しにする人も後を絶たない。

子供の頃からああせいこうせい、こうあるべきだとか、あの君はこうしたと比較される。みんな言われすぎて自分で決めることも、何をしたいのかさえも分からなくなってしまっているようだ。考えすぎて自分の気持ちを封じ込めてしまっているのではないか。

決められた世間のレールに乗るだけが人生じゃない。ボロを着ててもいい、目が輝き、胸を張れる生き方が出来たら、それでいいのではないか。少しぐらいコンプレックスがあっても、負い目があっても、不安があっても、それで普通じゃないかと開き直ったらいい。みんな本当はそうしたものを抱えているのではないか。私も沢山コンプレックスがあって、落ちこぼれじゃないかと思うこともある。 

インドの人々も、誰もが自分の人生を自ら選択し自由に生きているわけではない。かえって少数派ではないか。今は随分改善されてきたようではあるけれどもカーストがあり、ヴァルナと言って職業カーストがある。それぞれが親から引き継いだ仕事をするのが当たり前の人生を歩んでいる。今だに一度も会ったこともない相手と結婚させられる風習もある。

自分のしたくない仕事につかねばならない人も多いはずで、それでもみんなヴァガバット・ギーターにあるように、それぞれの立場で各々の義務を果たすべく、たとえば生まれついた家系の仕事を神に捧げるものとして孜々として倦まずになすことを生きる道として受け入れているのであろう。しかしだからといって、インドの多くの人たちは生きる意味がない、つまらない人生だとは思わない。

生きることの意味は、学歴や職業、収入や財産によって決まってしまうようなものではなく、それらによって人生の価値が決まってしまうようなものでもない。それぞれの生まれついた環境の中で何かをなしつつ、人様の役に立ち、そうして何を学び、何を次の生に、つまり来世に残せるかが大事なのではないか、多分そう思っているのであろうと思う。

着る物や身につける物で心が変わることもある。立つ姿勢、歩く姿勢で心も変わる。インドの人たちを見習って、だから何だというくらいの開き直った態度でどんな境遇にあっても堂々とした生き方をしたいものだと思う。何があっても、上を向いて胸を張って歩こうではないか。それがよい原因となり、次第に内面の裏付けのある本当のみてくれになるはずだから。

(画像は、昭和2年頃の肥田春充氏・壮神社刊・実験根本的健脳法より)

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