一九九五年十月十六日(カトマンドゥー・アーナンダクティ・ビハール)、朝六時頃呼ばれて一階の食堂で朝食。ここでも変わらずカレーにチャパティ。最後にバター茶だろうか、チベット人が好むお茶をご馳走になる。総勢六人、薄暗い床に座っていた。老僧二人に学生のような若い坊さんが四人。本当に気のよさそうな人ばかり。
歩いて街に向かう。お寺を出て東に進むとスワヤンブナートという大きなチベット寺の山門に出る。チベット仏教のエンジの僧服を着た僧やら沢山の人だかりをすり抜けて、さらに東へ。
お寺や学校の前を通り、大きな河に出た。河ではちょうど染色した布を洗っているのか、大きな色鮮やかな布を広げている。その近くで食器を洗う人、衣類を洗う人、様々な人の営みを見下ろしながら橋を渡る。
その河を渡ってすぐ右側にある四階建ての新しいお寺、サンガーラーマ・ビハールを訪ねた。ここの住職アシュワゴーシュ長老は、政府の要人とも親しいとのことで、まず初めに訪問するようにと言われていた方だ。
訪問の要旨を出てきた坊さんに告げると、そのまま四階の長老の部屋に案内された。きれいに整理された部屋で、太った小柄な長老が大きなクッションに座っていた。床に額を着け三礼してから、カルカッタの弟子であること、この度のルンビニーのお寺の件でLDT(ルンビニー開発トラスト)の事務所に用事のあることを告げる。すると、もう政府が変わってしまって、自分もLDTの副議長職を離れたことなどを手短かに話された。
すぐに一人の坊さんを電話で呼び、「この人に案内させるから行きなさい、帰ってきたらここで一緒に食事をしていって下さい」と、お昼の心配までして下さった。時間を無駄にしない、用件だけを手早く片づける。それでいてそこに温かさが感じられる。
自分の力でこの寺を作り上げ、その時十人もの坊さんを住まわせ、比丘(びく)トレーニングセンターも運営されているということだったが、それだけの手腕があるのだろう。いかにも仕事が出来る人だな、と思わせる人だった。
電話で呼ばれて来てくれたサキャプトラ比丘とお寺を出て、タメル地区というリキシャなどの中継地区からオートリキシャに乗り込みディリ・バザールに向かう。サキャプトラ比丘は、途中何やら盛んにヒンディ語でまくし立ててくる。「おまえは不浄観をやったか」とか、「人を見るときどう見ているか」とか。とにかく真面目なのだ。
迷いながらもバザールから民家の並ぶ小道へ入り、「Lumbini.Development Trust.Kathmandu」と大きく書いてある木造二階建ての建物に入る。「理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏に会う為にカルカッタのベンガル仏教会から来たのですが」と申し出ると、二階に通された。昔の小学校のような細い板を貼り合わせた床にワックスという懐かしさを感じさせる部屋。その壁は、この二十年間作り続けてきたLDTのポスターが飾っていた。
黒いソファに身を沈めて、今にもお出ましかと思って様々言うべき事を反芻していると、しばらくしてから「今日は来ない」と言う。仕方なく明日出直すことを伝え、退散することにした。
また来た道をサキャプトラ比丘と引き返す。随分待たされたからだろうか、もう十一時を回っている。サンガーラーマ・ビハールでは数人のウパーサカ、ウパーシカと呼ばれる在家の男女の信者さんたちが腰巻きを膝まで上げて、忙しく比丘たちの昼食の準備をしていた。
私はしばらく比丘のたむろする部屋に案内され、カルカッタの様子などいくつかの質問を受けた。だが、彼らは私が何人なのかを問わなかった。だからこちらも日本人だとも言わず、自然にただカルカッタに暮らす一人の比丘として自然な応対をしてくれた。お陰で、日本はどんな国か、航空チケットはいくらか、招待してくれないかと言った余計なことに答えずに済んだ。
年長の比丘が何やらネパール語で話をしている間に時間となり食堂に案内された。有り難いことに何の縁故もなかったこのお寺でまるで自然にいつもここにいる人間に対するように給仕を受けた。
午後はバザールを覗く目的で、一人お寺を出て歩く途中、旅行社に立ち寄る。バラナシ行きの飛行機の料金を聞くだけのつもりが、店のお兄さんお姉さんが愛想良く受け答えをするので、ついつい四日後のフライトに予約を入れさせられてしまった。七一ドル。現地人価格だというが確かに安い。
ついでにそこから国際電話をカルカッタのバンテー(尊者の意、ここでは師匠のダルマパル総長のこと)に入れた。ここまでの簡単な報告のためだ。ルンビニーでのこと、ここカトマンドゥーでのことなど。結局バンテーは「アッチャー(よい、よろしい)」を連呼するだけで何も言われなかった。電話代が勿体ないと思われたのかもしれない。
古いバザールを通り、四キロほどの道のりを歩いてアーナンダ・クティ・ビハールに向かう。二三階建てのレンガ造りの店が建ち並ぶバザールは、日本のどこにでもかつてあった大きな寺院の参道にできた仲店といった風情。四つ角の広場には、三間四方程度のお堂があってヒンドゥー教の神様が祀られている。その前には移動式の棚の上に沢山の果物や乾物、お茶などを乗せて所狭しと、いくつもの店が出ていた。
昼間だというのに、そこに大勢の人がぶつかり合うように行き交うので、落ち着いて品物を手に取り思案することも出来ない。結局何も買わずにただ様子を見て歩くだけでお寺の近くまで戻ってきてしまった。大部人通りの少なくなった辺りで、線香と、下着を買った。
線香は部屋に染みついた、すえた臭いを消すためであり、下着は朝晩の冷え込みに体調を壊してはいけないと思われたからだ。本来比丘は中に着る物であっても袈裟の色である黄色から茶色系統の衣類しか認められていない。が、このときだけは染めるわけにもいかず、白いものを着込むことになった。
十月十七日、この日もLDTに行かねばならなかったのだが、午後の約束だったため、朝から歩いてタメル地区に出て、リキシャでバグ・バザールまで行ってもらった。そこにスマンガラ長老という日本の大正大学に留学していた方がおられると聞いていたのでお訪ねした。
バク・バザールを南側に路地を入る。しばらく行くとガラス張りのショーウインドウの中に仏さまを祀ったようなきれいな装飾を施した小さなお寺があった。門にはダルマ・チャクラ・ビハールとある。ダルマは法、チャクラとは車輪、ビハールは精舎という意味で、訳せば法輪精舎となる。私がかつてサールナートで世話になっていたお寺と同じ名だ。
親しみを憶え中に入り、ブッダ・ビハールはどちらかとお尋ねした。すると縁のないネパール帽をかぶってジャケットを着た初老の紳士が出てきて道案内をしてくれた。プレム・バードゥル・タンドゥカール氏という。スルスルと細い道を進み、路地の一番奥にブッダ・ビハールはあった。四階建ての大きな建物。ひと昔前の日本の高等学校を思わせる鉄筋の建物だ。
玄関を入って正面から階段を上がると、二階にスマンガラ長老はおられた。さすがにきれいな日本語で応対して下さった。もう七十才になろうかというお年。立正佼成会と孝道教団から今も寄附をもらっていると言う。学校と老人ホームを経営しているが、「お陰様でとても忙しいです」と言われた。
建物の様子もだが雰囲気が日本のようで、ネパールやインド特有のまったりした空気が希薄だ。瞑想センターもあるが活発とは言えない、毎朝数人が来る程度だと言う。このときも忙しい合間に話しかけてしまったようで、階段ホールでの立ち話程度で仕事に向かわれてしまった。厚い眼鏡を掛けて表情は日本人と変わらない。気ぜわしく仕事をするスタイルも日本で学んで来られたのだろうか、などと考えつつお寺を後にした。
すると門の所で、先ほどのプレムさんが待っていてくれた。「どうぞ私の家にお越し下さい」と言う。バザールに面した縦に細長い家へと案内された。そして、三階だっただろうか、若いときの写真を飾った部屋に通された。
しばらくするとネパールの紅茶にビスケットが運ばれてきた。ニコニコと嬉しそうに合掌して、「お越し下さって有り難い、どうぞゆっくりくつろいで下さい、私は昼食の準備をして来ます」と言うと居なくなってしまった。お茶をすすりながら窓の景色を見た。
実はカトマンドゥーに来たら、一つレストランにでも入ってやろう、と考えていた。チベット料理や中国料理も手頃な値段で美味しいところがあると聞いていたからだ。だが、この日も含め結局カトマンドゥーにいた四日間すべて供養を受けることになり、レストランに入ることは叶わずカトマンドゥーを後にすることになった。夕方になって比丘がレストランになど入れるはずもなく。
それだけネパールの人たちに坊さんを見たら昼飯を食べさせるものだという観念が徹底しているとしか思えない。それが何よりも自分たちの喜びなのだという。この日がそのことをしっかりと思い知らされた日でもあった。
ただ道を聞いただけなのに、自分の家に見ず知らずの、それもネパール語も出来ない坊さんを連れ込んで、ゆっくりしろだのご飯を食べてくれと言うのだから。まったくもって無防備というか底抜けの人の良さにかけては徹底している。それも飛び切り上等のご馳走だ。勿体ない。
普通、ご馳走の後にはパーリ語のお経を唱え、大きめのお盆と水差しを用意して、その水を盆にゆっくりとかえしてもらいながら功徳随喜の偈文を読む。このときまでお恥ずかしながら一人で供養を受ける経験もなかったので、偈文がとっさに出てこず、メッタスッタ(慈経)だけで我慢してもらった。
最後に聞けば、このプレムさんはインドの有名な瞑想所の一つであるイガトプリで比丘として修行した経験もあるという。袈裟の中に冷や汗をかきながら階段を下り振り返ると、プレムさんはニコニコと合掌して送りだして下さった。
そこから歩いてLDTに向かった。二階の執務室で、すでに待ちかまえていた理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏と会う。いかにもネパールの貴族然とした威風堂々とした人物だ。
簡単な挨拶の後、「全体の計画が大きく道路工事なども進まず大変な計画ですね」と水を向けると、わが方がインド寺院の建設になかなか着手できないでいることを催促するかのように、「いやいや、インドは大きな国だ。ハルドワール(デリーから北にバスで六七時間のガンジス河沿いの聖地)にあるお寺は賽銭だけで二十四カロール(二億四千万ルピー)ものお金を貯めて、とてつもないお寺を造った。ネパールは小さな国だが、インドならルンビニーのお寺のためにお金を集めるのも簡単でしょう」などと曰った。
そこで、「とんでもない、その殆どがヒンドゥー教徒ではないですか。仏教徒はごく僅か。ベンガル仏教徒はその一部なのだから、大変なのだ」と応戦した。日本や台湾などに支援を要請しているがなかなかうまくいかないことを告げると、ルールでは調印後六ヶ月で建設に着手し三年で完成する事が謳われている、などと追い込みを掛けてきた。
実は韓国のお寺で一件キャンセルが出ていたりと、なかなか他のどの国も建設が予定通りに進んでいないことに焦りがあったのであろう。その後、ベンガル仏教会が借り受けている土地の地代一年分五千ルピーを払い、レシートを書いてもらい退室した。
階段の所で、「近々カルカッタに行く用事があるのでお寺に泊まらせてもらいます。その時は宜しく。バンテーにも」とお愛想を言ってきた。「どうぞどうぞお越し下さい。お待ちしています」と私も返事をした。が、彼らのような上流意識のある特権階級が施設の調わないお寺になど泊まるはずがない。それはどこの国でも同じことだろう。
何か後味の悪い思いを引きづりながら、来た道を引き返した。セントラルバススタンドまで行き、そこからバスンダラという地区までバスに乗った。そこで小さなお寺を造った、かつてカルカッタのバンテーの所にいたというスガタムニ師を訪ねた。
バスを降りて道を斜めに入ると小さなストゥーパ(塔)が見えた。小太りで日焼けした坊さんが黄色い腰巻き一つで出てきた。初めてお会いしたのに、以前からの知り合いのように親しみを感じさせる四十くらいの人だ。カルカッタの寺の写真を見せると喜んでくれて、自分がカルカッタにいたときはこの辺りがまだ平地だったというような話をしてくれた。
傍らに年老いた比丘が居た。九十五才になるという。あわてて礼拝しようとすると、待てと言う。年老いて行くところも身寄りもなく、お寺で比丘にさせて置いて上げている、だから自分の弟子で、まだ出家して五年なのだ
からと。そんなことをこともなげに言われる。
それでいてお寺にホールを造るのだといって、自分でセメントをこねてレンガを重ねていくような工事をしている最中でもあった。決して裕福なお寺などではないのだ。その彼らのひたむきな姿を思い出し、こう書き進めつつ我が身を振り返ると、誠に申し訳ないような気持ちにつつまれ、涙が溢れて仕方がない。
その日は泊まれと言われたが、用意もなく結局帰ることになった。帰り際、明日、市内のスィーガ・ストゥーパでカティナ・ダーナ(安居開けの袈裟供養のお祭り)があるから来るようにと言われた。 ・・つづく
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歩いて街に向かう。お寺を出て東に進むとスワヤンブナートという大きなチベット寺の山門に出る。チベット仏教のエンジの僧服を着た僧やら沢山の人だかりをすり抜けて、さらに東へ。
お寺や学校の前を通り、大きな河に出た。河ではちょうど染色した布を洗っているのか、大きな色鮮やかな布を広げている。その近くで食器を洗う人、衣類を洗う人、様々な人の営みを見下ろしながら橋を渡る。
その河を渡ってすぐ右側にある四階建ての新しいお寺、サンガーラーマ・ビハールを訪ねた。ここの住職アシュワゴーシュ長老は、政府の要人とも親しいとのことで、まず初めに訪問するようにと言われていた方だ。
訪問の要旨を出てきた坊さんに告げると、そのまま四階の長老の部屋に案内された。きれいに整理された部屋で、太った小柄な長老が大きなクッションに座っていた。床に額を着け三礼してから、カルカッタの弟子であること、この度のルンビニーのお寺の件でLDT(ルンビニー開発トラスト)の事務所に用事のあることを告げる。すると、もう政府が変わってしまって、自分もLDTの副議長職を離れたことなどを手短かに話された。
すぐに一人の坊さんを電話で呼び、「この人に案内させるから行きなさい、帰ってきたらここで一緒に食事をしていって下さい」と、お昼の心配までして下さった。時間を無駄にしない、用件だけを手早く片づける。それでいてそこに温かさが感じられる。
自分の力でこの寺を作り上げ、その時十人もの坊さんを住まわせ、比丘(びく)トレーニングセンターも運営されているということだったが、それだけの手腕があるのだろう。いかにも仕事が出来る人だな、と思わせる人だった。
電話で呼ばれて来てくれたサキャプトラ比丘とお寺を出て、タメル地区というリキシャなどの中継地区からオートリキシャに乗り込みディリ・バザールに向かう。サキャプトラ比丘は、途中何やら盛んにヒンディ語でまくし立ててくる。「おまえは不浄観をやったか」とか、「人を見るときどう見ているか」とか。とにかく真面目なのだ。
迷いながらもバザールから民家の並ぶ小道へ入り、「Lumbini.Development Trust.Kathmandu」と大きく書いてある木造二階建ての建物に入る。「理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏に会う為にカルカッタのベンガル仏教会から来たのですが」と申し出ると、二階に通された。昔の小学校のような細い板を貼り合わせた床にワックスという懐かしさを感じさせる部屋。その壁は、この二十年間作り続けてきたLDTのポスターが飾っていた。
黒いソファに身を沈めて、今にもお出ましかと思って様々言うべき事を反芻していると、しばらくしてから「今日は来ない」と言う。仕方なく明日出直すことを伝え、退散することにした。
また来た道をサキャプトラ比丘と引き返す。随分待たされたからだろうか、もう十一時を回っている。サンガーラーマ・ビハールでは数人のウパーサカ、ウパーシカと呼ばれる在家の男女の信者さんたちが腰巻きを膝まで上げて、忙しく比丘たちの昼食の準備をしていた。
私はしばらく比丘のたむろする部屋に案内され、カルカッタの様子などいくつかの質問を受けた。だが、彼らは私が何人なのかを問わなかった。だからこちらも日本人だとも言わず、自然にただカルカッタに暮らす一人の比丘として自然な応対をしてくれた。お陰で、日本はどんな国か、航空チケットはいくらか、招待してくれないかと言った余計なことに答えずに済んだ。
年長の比丘が何やらネパール語で話をしている間に時間となり食堂に案内された。有り難いことに何の縁故もなかったこのお寺でまるで自然にいつもここにいる人間に対するように給仕を受けた。
午後はバザールを覗く目的で、一人お寺を出て歩く途中、旅行社に立ち寄る。バラナシ行きの飛行機の料金を聞くだけのつもりが、店のお兄さんお姉さんが愛想良く受け答えをするので、ついつい四日後のフライトに予約を入れさせられてしまった。七一ドル。現地人価格だというが確かに安い。
ついでにそこから国際電話をカルカッタのバンテー(尊者の意、ここでは師匠のダルマパル総長のこと)に入れた。ここまでの簡単な報告のためだ。ルンビニーでのこと、ここカトマンドゥーでのことなど。結局バンテーは「アッチャー(よい、よろしい)」を連呼するだけで何も言われなかった。電話代が勿体ないと思われたのかもしれない。
古いバザールを通り、四キロほどの道のりを歩いてアーナンダ・クティ・ビハールに向かう。二三階建てのレンガ造りの店が建ち並ぶバザールは、日本のどこにでもかつてあった大きな寺院の参道にできた仲店といった風情。四つ角の広場には、三間四方程度のお堂があってヒンドゥー教の神様が祀られている。その前には移動式の棚の上に沢山の果物や乾物、お茶などを乗せて所狭しと、いくつもの店が出ていた。
昼間だというのに、そこに大勢の人がぶつかり合うように行き交うので、落ち着いて品物を手に取り思案することも出来ない。結局何も買わずにただ様子を見て歩くだけでお寺の近くまで戻ってきてしまった。大部人通りの少なくなった辺りで、線香と、下着を買った。
線香は部屋に染みついた、すえた臭いを消すためであり、下着は朝晩の冷え込みに体調を壊してはいけないと思われたからだ。本来比丘は中に着る物であっても袈裟の色である黄色から茶色系統の衣類しか認められていない。が、このときだけは染めるわけにもいかず、白いものを着込むことになった。
十月十七日、この日もLDTに行かねばならなかったのだが、午後の約束だったため、朝から歩いてタメル地区に出て、リキシャでバグ・バザールまで行ってもらった。そこにスマンガラ長老という日本の大正大学に留学していた方がおられると聞いていたのでお訪ねした。
バク・バザールを南側に路地を入る。しばらく行くとガラス張りのショーウインドウの中に仏さまを祀ったようなきれいな装飾を施した小さなお寺があった。門にはダルマ・チャクラ・ビハールとある。ダルマは法、チャクラとは車輪、ビハールは精舎という意味で、訳せば法輪精舎となる。私がかつてサールナートで世話になっていたお寺と同じ名だ。
親しみを憶え中に入り、ブッダ・ビハールはどちらかとお尋ねした。すると縁のないネパール帽をかぶってジャケットを着た初老の紳士が出てきて道案内をしてくれた。プレム・バードゥル・タンドゥカール氏という。スルスルと細い道を進み、路地の一番奥にブッダ・ビハールはあった。四階建ての大きな建物。ひと昔前の日本の高等学校を思わせる鉄筋の建物だ。
玄関を入って正面から階段を上がると、二階にスマンガラ長老はおられた。さすがにきれいな日本語で応対して下さった。もう七十才になろうかというお年。立正佼成会と孝道教団から今も寄附をもらっていると言う。学校と老人ホームを経営しているが、「お陰様でとても忙しいです」と言われた。
建物の様子もだが雰囲気が日本のようで、ネパールやインド特有のまったりした空気が希薄だ。瞑想センターもあるが活発とは言えない、毎朝数人が来る程度だと言う。このときも忙しい合間に話しかけてしまったようで、階段ホールでの立ち話程度で仕事に向かわれてしまった。厚い眼鏡を掛けて表情は日本人と変わらない。気ぜわしく仕事をするスタイルも日本で学んで来られたのだろうか、などと考えつつお寺を後にした。
すると門の所で、先ほどのプレムさんが待っていてくれた。「どうぞ私の家にお越し下さい」と言う。バザールに面した縦に細長い家へと案内された。そして、三階だっただろうか、若いときの写真を飾った部屋に通された。
しばらくするとネパールの紅茶にビスケットが運ばれてきた。ニコニコと嬉しそうに合掌して、「お越し下さって有り難い、どうぞゆっくりくつろいで下さい、私は昼食の準備をして来ます」と言うと居なくなってしまった。お茶をすすりながら窓の景色を見た。
実はカトマンドゥーに来たら、一つレストランにでも入ってやろう、と考えていた。チベット料理や中国料理も手頃な値段で美味しいところがあると聞いていたからだ。だが、この日も含め結局カトマンドゥーにいた四日間すべて供養を受けることになり、レストランに入ることは叶わずカトマンドゥーを後にすることになった。夕方になって比丘がレストランになど入れるはずもなく。
それだけネパールの人たちに坊さんを見たら昼飯を食べさせるものだという観念が徹底しているとしか思えない。それが何よりも自分たちの喜びなのだという。この日がそのことをしっかりと思い知らされた日でもあった。
ただ道を聞いただけなのに、自分の家に見ず知らずの、それもネパール語も出来ない坊さんを連れ込んで、ゆっくりしろだのご飯を食べてくれと言うのだから。まったくもって無防備というか底抜けの人の良さにかけては徹底している。それも飛び切り上等のご馳走だ。勿体ない。
普通、ご馳走の後にはパーリ語のお経を唱え、大きめのお盆と水差しを用意して、その水を盆にゆっくりとかえしてもらいながら功徳随喜の偈文を読む。このときまでお恥ずかしながら一人で供養を受ける経験もなかったので、偈文がとっさに出てこず、メッタスッタ(慈経)だけで我慢してもらった。
最後に聞けば、このプレムさんはインドの有名な瞑想所の一つであるイガトプリで比丘として修行した経験もあるという。袈裟の中に冷や汗をかきながら階段を下り振り返ると、プレムさんはニコニコと合掌して送りだして下さった。
そこから歩いてLDTに向かった。二階の執務室で、すでに待ちかまえていた理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏と会う。いかにもネパールの貴族然とした威風堂々とした人物だ。
簡単な挨拶の後、「全体の計画が大きく道路工事なども進まず大変な計画ですね」と水を向けると、わが方がインド寺院の建設になかなか着手できないでいることを催促するかのように、「いやいや、インドは大きな国だ。ハルドワール(デリーから北にバスで六七時間のガンジス河沿いの聖地)にあるお寺は賽銭だけで二十四カロール(二億四千万ルピー)ものお金を貯めて、とてつもないお寺を造った。ネパールは小さな国だが、インドならルンビニーのお寺のためにお金を集めるのも簡単でしょう」などと曰った。
そこで、「とんでもない、その殆どがヒンドゥー教徒ではないですか。仏教徒はごく僅か。ベンガル仏教徒はその一部なのだから、大変なのだ」と応戦した。日本や台湾などに支援を要請しているがなかなかうまくいかないことを告げると、ルールでは調印後六ヶ月で建設に着手し三年で完成する事が謳われている、などと追い込みを掛けてきた。
実は韓国のお寺で一件キャンセルが出ていたりと、なかなか他のどの国も建設が予定通りに進んでいないことに焦りがあったのであろう。その後、ベンガル仏教会が借り受けている土地の地代一年分五千ルピーを払い、レシートを書いてもらい退室した。
階段の所で、「近々カルカッタに行く用事があるのでお寺に泊まらせてもらいます。その時は宜しく。バンテーにも」とお愛想を言ってきた。「どうぞどうぞお越し下さい。お待ちしています」と私も返事をした。が、彼らのような上流意識のある特権階級が施設の調わないお寺になど泊まるはずがない。それはどこの国でも同じことだろう。
何か後味の悪い思いを引きづりながら、来た道を引き返した。セントラルバススタンドまで行き、そこからバスンダラという地区までバスに乗った。そこで小さなお寺を造った、かつてカルカッタのバンテーの所にいたというスガタムニ師を訪ねた。
バスを降りて道を斜めに入ると小さなストゥーパ(塔)が見えた。小太りで日焼けした坊さんが黄色い腰巻き一つで出てきた。初めてお会いしたのに、以前からの知り合いのように親しみを感じさせる四十くらいの人だ。カルカッタの寺の写真を見せると喜んでくれて、自分がカルカッタにいたときはこの辺りがまだ平地だったというような話をしてくれた。
傍らに年老いた比丘が居た。九十五才になるという。あわてて礼拝しようとすると、待てと言う。年老いて行くところも身寄りもなく、お寺で比丘にさせて置いて上げている、だから自分の弟子で、まだ出家して五年なのだ
からと。そんなことをこともなげに言われる。
それでいてお寺にホールを造るのだといって、自分でセメントをこねてレンガを重ねていくような工事をしている最中でもあった。決して裕福なお寺などではないのだ。その彼らのひたむきな姿を思い出し、こう書き進めつつ我が身を振り返ると、誠に申し訳ないような気持ちにつつまれ、涙が溢れて仕方がない。
その日は泊まれと言われたが、用意もなく結局帰ることになった。帰り際、明日、市内のスィーガ・ストゥーパでカティナ・ダーナ(安居開けの袈裟供養のお祭り)があるから来るようにと言われた。 ・・つづく
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