住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ネパール巡礼・四

2009年08月27日 16時21分36秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
一九九五年十月十六日(カトマンドゥー・アーナンダクティ・ビハール)、朝六時頃呼ばれて一階の食堂で朝食。ここでも変わらずカレーにチャパティ。最後にバター茶だろうか、チベット人が好むお茶をご馳走になる。総勢六人、薄暗い床に座っていた。老僧二人に学生のような若い坊さんが四人。本当に気のよさそうな人ばかり。

歩いて街に向かう。お寺を出て東に進むとスワヤンブナートという大きなチベット寺の山門に出る。チベット仏教のエンジの僧服を着た僧やら沢山の人だかりをすり抜けて、さらに東へ。

お寺や学校の前を通り、大きな河に出た。河ではちょうど染色した布を洗っているのか、大きな色鮮やかな布を広げている。その近くで食器を洗う人、衣類を洗う人、様々な人の営みを見下ろしながら橋を渡る。

その河を渡ってすぐ右側にある四階建ての新しいお寺、サンガーラーマ・ビハールを訪ねた。ここの住職アシュワゴーシュ長老は、政府の要人とも親しいとのことで、まず初めに訪問するようにと言われていた方だ。

訪問の要旨を出てきた坊さんに告げると、そのまま四階の長老の部屋に案内された。きれいに整理された部屋で、太った小柄な長老が大きなクッションに座っていた。床に額を着け三礼してから、カルカッタの弟子であること、この度のルンビニーのお寺の件でLDT(ルンビニー開発トラスト)の事務所に用事のあることを告げる。すると、もう政府が変わってしまって、自分もLDTの副議長職を離れたことなどを手短かに話された。

すぐに一人の坊さんを電話で呼び、「この人に案内させるから行きなさい、帰ってきたらここで一緒に食事をしていって下さい」と、お昼の心配までして下さった。時間を無駄にしない、用件だけを手早く片づける。それでいてそこに温かさが感じられる。

自分の力でこの寺を作り上げ、その時十人もの坊さんを住まわせ、比丘(びく)トレーニングセンターも運営されているということだったが、それだけの手腕があるのだろう。いかにも仕事が出来る人だな、と思わせる人だった。

電話で呼ばれて来てくれたサキャプトラ比丘とお寺を出て、タメル地区というリキシャなどの中継地区からオートリキシャに乗り込みディリ・バザールに向かう。サキャプトラ比丘は、途中何やら盛んにヒンディ語でまくし立ててくる。「おまえは不浄観をやったか」とか、「人を見るときどう見ているか」とか。とにかく真面目なのだ。

迷いながらもバザールから民家の並ぶ小道へ入り、「Lumbini.Development Trust.Kathmandu」と大きく書いてある木造二階建ての建物に入る。「理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏に会う為にカルカッタのベンガル仏教会から来たのですが」と申し出ると、二階に通された。昔の小学校のような細い板を貼り合わせた床にワックスという懐かしさを感じさせる部屋。その壁は、この二十年間作り続けてきたLDTのポスターが飾っていた。

黒いソファに身を沈めて、今にもお出ましかと思って様々言うべき事を反芻していると、しばらくしてから「今日は来ない」と言う。仕方なく明日出直すことを伝え、退散することにした。

また来た道をサキャプトラ比丘と引き返す。随分待たされたからだろうか、もう十一時を回っている。サンガーラーマ・ビハールでは数人のウパーサカ、ウパーシカと呼ばれる在家の男女の信者さんたちが腰巻きを膝まで上げて、忙しく比丘たちの昼食の準備をしていた。

私はしばらく比丘のたむろする部屋に案内され、カルカッタの様子などいくつかの質問を受けた。だが、彼らは私が何人なのかを問わなかった。だからこちらも日本人だとも言わず、自然にただカルカッタに暮らす一人の比丘として自然な応対をしてくれた。お陰で、日本はどんな国か、航空チケットはいくらか、招待してくれないかと言った余計なことに答えずに済んだ。

年長の比丘が何やらネパール語で話をしている間に時間となり食堂に案内された。有り難いことに何の縁故もなかったこのお寺でまるで自然にいつもここにいる人間に対するように給仕を受けた。

午後はバザールを覗く目的で、一人お寺を出て歩く途中、旅行社に立ち寄る。バラナシ行きの飛行機の料金を聞くだけのつもりが、店のお兄さんお姉さんが愛想良く受け答えをするので、ついつい四日後のフライトに予約を入れさせられてしまった。七一ドル。現地人価格だというが確かに安い。

ついでにそこから国際電話をカルカッタのバンテー(尊者の意、ここでは師匠のダルマパル総長のこと)に入れた。ここまでの簡単な報告のためだ。ルンビニーでのこと、ここカトマンドゥーでのことなど。結局バンテーは「アッチャー(よい、よろしい)」を連呼するだけで何も言われなかった。電話代が勿体ないと思われたのかもしれない。

古いバザールを通り、四キロほどの道のりを歩いてアーナンダ・クティ・ビハールに向かう。二三階建てのレンガ造りの店が建ち並ぶバザールは、日本のどこにでもかつてあった大きな寺院の参道にできた仲店といった風情。四つ角の広場には、三間四方程度のお堂があってヒンドゥー教の神様が祀られている。その前には移動式の棚の上に沢山の果物や乾物、お茶などを乗せて所狭しと、いくつもの店が出ていた。

昼間だというのに、そこに大勢の人がぶつかり合うように行き交うので、落ち着いて品物を手に取り思案することも出来ない。結局何も買わずにただ様子を見て歩くだけでお寺の近くまで戻ってきてしまった。大部人通りの少なくなった辺りで、線香と、下着を買った。

線香は部屋に染みついた、すえた臭いを消すためであり、下着は朝晩の冷え込みに体調を壊してはいけないと思われたからだ。本来比丘は中に着る物であっても袈裟の色である黄色から茶色系統の衣類しか認められていない。が、このときだけは染めるわけにもいかず、白いものを着込むことになった。

十月十七日、この日もLDTに行かねばならなかったのだが、午後の約束だったため、朝から歩いてタメル地区に出て、リキシャでバグ・バザールまで行ってもらった。そこにスマンガラ長老という日本の大正大学に留学していた方がおられると聞いていたのでお訪ねした。

バク・バザールを南側に路地を入る。しばらく行くとガラス張りのショーウインドウの中に仏さまを祀ったようなきれいな装飾を施した小さなお寺があった。門にはダルマ・チャクラ・ビハールとある。ダルマは法、チャクラとは車輪、ビハールは精舎という意味で、訳せば法輪精舎となる。私がかつてサールナートで世話になっていたお寺と同じ名だ。

親しみを憶え中に入り、ブッダ・ビハールはどちらかとお尋ねした。すると縁のないネパール帽をかぶってジャケットを着た初老の紳士が出てきて道案内をしてくれた。プレム・バードゥル・タンドゥカール氏という。スルスルと細い道を進み、路地の一番奥にブッダ・ビハールはあった。四階建ての大きな建物。ひと昔前の日本の高等学校を思わせる鉄筋の建物だ。

玄関を入って正面から階段を上がると、二階にスマンガラ長老はおられた。さすがにきれいな日本語で応対して下さった。もう七十才になろうかというお年。立正佼成会と孝道教団から今も寄附をもらっていると言う。学校と老人ホームを経営しているが、「お陰様でとても忙しいです」と言われた。

建物の様子もだが雰囲気が日本のようで、ネパールやインド特有のまったりした空気が希薄だ。瞑想センターもあるが活発とは言えない、毎朝数人が来る程度だと言う。このときも忙しい合間に話しかけてしまったようで、階段ホールでの立ち話程度で仕事に向かわれてしまった。厚い眼鏡を掛けて表情は日本人と変わらない。気ぜわしく仕事をするスタイルも日本で学んで来られたのだろうか、などと考えつつお寺を後にした。

すると門の所で、先ほどのプレムさんが待っていてくれた。「どうぞ私の家にお越し下さい」と言う。バザールに面した縦に細長い家へと案内された。そして、三階だっただろうか、若いときの写真を飾った部屋に通された。

しばらくするとネパールの紅茶にビスケットが運ばれてきた。ニコニコと嬉しそうに合掌して、「お越し下さって有り難い、どうぞゆっくりくつろいで下さい、私は昼食の準備をして来ます」と言うと居なくなってしまった。お茶をすすりながら窓の景色を見た。

実はカトマンドゥーに来たら、一つレストランにでも入ってやろう、と考えていた。チベット料理や中国料理も手頃な値段で美味しいところがあると聞いていたからだ。だが、この日も含め結局カトマンドゥーにいた四日間すべて供養を受けることになり、レストランに入ることは叶わずカトマンドゥーを後にすることになった。夕方になって比丘がレストランになど入れるはずもなく。

それだけネパールの人たちに坊さんを見たら昼飯を食べさせるものだという観念が徹底しているとしか思えない。それが何よりも自分たちの喜びなのだという。この日がそのことをしっかりと思い知らされた日でもあった。

ただ道を聞いただけなのに、自分の家に見ず知らずの、それもネパール語も出来ない坊さんを連れ込んで、ゆっくりしろだのご飯を食べてくれと言うのだから。まったくもって無防備というか底抜けの人の良さにかけては徹底している。それも飛び切り上等のご馳走だ。勿体ない。

普通、ご馳走の後にはパーリ語のお経を唱え、大きめのお盆と水差しを用意して、その水を盆にゆっくりとかえしてもらいながら功徳随喜の偈文を読む。このときまでお恥ずかしながら一人で供養を受ける経験もなかったので、偈文がとっさに出てこず、メッタスッタ(慈経)だけで我慢してもらった。

最後に聞けば、このプレムさんはインドの有名な瞑想所の一つであるイガトプリで比丘として修行した経験もあるという。袈裟の中に冷や汗をかきながら階段を下り振り返ると、プレムさんはニコニコと合掌して送りだして下さった。

そこから歩いてLDTに向かった。二階の執務室で、すでに待ちかまえていた理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏と会う。いかにもネパールの貴族然とした威風堂々とした人物だ。

簡単な挨拶の後、「全体の計画が大きく道路工事なども進まず大変な計画ですね」と水を向けると、わが方がインド寺院の建設になかなか着手できないでいることを催促するかのように、「いやいや、インドは大きな国だ。ハルドワール(デリーから北にバスで六七時間のガンジス河沿いの聖地)にあるお寺は賽銭だけで二十四カロール(二億四千万ルピー)ものお金を貯めて、とてつもないお寺を造った。ネパールは小さな国だが、インドならルンビニーのお寺のためにお金を集めるのも簡単でしょう」などと曰った。

そこで、「とんでもない、その殆どがヒンドゥー教徒ではないですか。仏教徒はごく僅か。ベンガル仏教徒はその一部なのだから、大変なのだ」と応戦した。日本や台湾などに支援を要請しているがなかなかうまくいかないことを告げると、ルールでは調印後六ヶ月で建設に着手し三年で完成する事が謳われている、などと追い込みを掛けてきた。

実は韓国のお寺で一件キャンセルが出ていたりと、なかなか他のどの国も建設が予定通りに進んでいないことに焦りがあったのであろう。その後、ベンガル仏教会が借り受けている土地の地代一年分五千ルピーを払い、レシートを書いてもらい退室した。

階段の所で、「近々カルカッタに行く用事があるのでお寺に泊まらせてもらいます。その時は宜しく。バンテーにも」とお愛想を言ってきた。「どうぞどうぞお越し下さい。お待ちしています」と私も返事をした。が、彼らのような上流意識のある特権階級が施設の調わないお寺になど泊まるはずがない。それはどこの国でも同じことだろう。

何か後味の悪い思いを引きづりながら、来た道を引き返した。セントラルバススタンドまで行き、そこからバスンダラという地区までバスに乗った。そこで小さなお寺を造った、かつてカルカッタのバンテーの所にいたというスガタムニ師を訪ねた。

バスを降りて道を斜めに入ると小さなストゥーパ(塔)が見えた。小太りで日焼けした坊さんが黄色い腰巻き一つで出てきた。初めてお会いしたのに、以前からの知り合いのように親しみを感じさせる四十くらいの人だ。カルカッタの寺の写真を見せると喜んでくれて、自分がカルカッタにいたときはこの辺りがまだ平地だったというような話をしてくれた。

傍らに年老いた比丘が居た。九十五才になるという。あわてて礼拝しようとすると、待てと言う。年老いて行くところも身寄りもなく、お寺で比丘にさせて置いて上げている、だから自分の弟子で、まだ出家して五年なのだ
からと。そんなことをこともなげに言われる。

それでいてお寺にホールを造るのだといって、自分でセメントをこねてレンガを重ねていくような工事をしている最中でもあった。決して裕福なお寺などではないのだ。その彼らのひたむきな姿を思い出し、こう書き進めつつ我が身を振り返ると、誠に申し訳ないような気持ちにつつまれ、涙が溢れて仕方がない。

その日は泊まれと言われたが、用意もなく結局帰ることになった。帰り際、明日、市内のスィーガ・ストゥーパでカティナ・ダーナ(安居開けの袈裟供養のお祭り)があるから来るようにと言われた。      ・・つづく

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ネパール巡礼・三

2009年08月10日 07時06分56秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
十月十五日、今日はカトマンドゥに飛ぶ日だ。荷物をまとめて外に出ると、朝靄の中、エンジ色の袈裟を身につけた端整な顔立ちのお坊さんに出会った。まるで、時代劇の役者がカツラをかぶらずに登場したような風貌。英字の名刺を差し出された。「Bhikkhu Rewata」(比丘レーワタ)、住所はミャンマーのヤンゴンとある。私と同年配だろうが、法蝋を聞くと既に十年を過ぎていると言うので、その場で礼拝し話し出す。

カトマンドゥから、ジョンというタスマニアで瞑想センターを主宰している中年のオーストラリア人と一緒に巡礼をしてきて、今朝到着したとのこと。そのジョンも三週間前まではヤンゴンの瞑想所で比丘として三ヶ月間瞑想していたという。インドの仏教聖地を回った後には日本にも招待されているということもあり、是非今日はミャンマー寺の建築現場で昼食を招待したいと言うので、十一時過ぎに再会を約した。

ミャンマー寺へ着くと、既に布を敷いた台の上に先ほどのレーワタ比丘が座っている。隣に座らせてもらい、建設中の塔の地鎮祭の写真を拝見する。沢山のお坊さんたちが招かれ、その前で派手な民族衣装を着た人たちが踊りを披露している写真や、ストゥーパの基礎の中心に経本を置き、周りに緑、クリーム、赤、金、銀といった八色のレンガを丸く敷いて儀礼を行っている様子、太い鉄骨の櫓が組まれ、その周りにレンガを巻いてコンクリートを塗っているストゥーパの内部の様子などが写されていた。

その写真に写っている工夫だけでも百人を遙かに超えて二百人を数えようかという凄まじさ。柴田氏によれば、ミャンマー寺では一律で工夫を雇うのではなく、職能に応じて四十、五十、六十ルピーという具合に賃金を設定し雇い入れているのだということであった。その後私たちの前には置ききれないくらい沢山の小皿に盛りつけた料理が運ばれてきた。野菜の炒めたものや野菜と魚の煮物など、ミャンマー料理を堪能した。

食事の後、建築途中の足組を登り、ストゥーパの上部で空洞になった内部をバックにしてレーワタ比丘と私、それにジョンで写真を撮った。その日カトマンドゥに飛ばねばならない私は、そのあとお寺に戻り、二百ルピーをドネーション(寄附)として払い、リキシャとバスを乗り継いでバイラワに向かった。

バイラワの空港は、平屋の小さな建物の前に小学校の校庭ほどのコンクリートが広がっていた。ロビーにはカウンターがあるだけ。出発時刻の二時間も前に到着していることもありロビーには誰もいない。インドで列車に乗るときも私はこの調子で、二時間前には駅に着くように出る習慣がある。その余った時間、周りの人たちの様子や動きを見ているだけで飽きないし、すぐに二時間くらい過ぎてしまった。

しかしこのときばかりは時間をもてあました。なにせ人が居ないのだから。仕方なく、ルンビニでの出来事や見聞したことをメモしたり、これから向かうカトマンドゥの様子をガイドブックで確認したり。そうこうしていると、にわかに一人二人カウンターを出入りし出した。そして五、六人の旅客と共に田舎の駅の改札なみのゲートを通り抜けると、ぽつんと一機。私たち乗客を待つ飛行機は、その目の前にある、なんとも小さなプロペラ機なのであった。新しい飛行機ではあったが、こんな小さなプロペラ機で乗客を乗せて首都カトマンドゥに向かうとは。

まるでトヨタのタウンエースを縦に二つ並べたほどの大きさしかない。いやそれよりも天井は低く狭苦しい。しっかりシートベルトを締めて揺れる機体に運命を預けた。十五時四十五分定刻発。下の景色がわかるほど天候も良くなかったが、それでも雲を眺めている間に一時間ほどで、カトマンドゥーの空港に無事着陸した。

実は、カトマンドゥーの空港はこのときと、この五日ばかり後にインドのバラナシに飛ぶときの二回使用したはずなのだが、まるで記憶にない。自分でもなぜだか分からないが、紀行文を書く身としてはただ申し訳ないと言うより仕方がない。そのかわりと言っては何だが、空港から出てオートリキシャに乗った所の光景は良く覚えていて、金網を張ったカーブした所を走るときの何ともなま暖かい風を浴びたことを記憶している。

途中信号で止まる車の間をスルスルと前に進みつつ、思ったよりも早く、スワヤンブナートという有名なチベット寺院の下あたりまで到着していた。小高い丘の上に四方に目を描いた仏塔が位置する、東京の浅草寺のような賑わいの大寺の仲店入り口でリキシャを降りた。道の両側には食品やら衣料品やらの小さなお店や屋台がひしめいていた。

夕方で暗くなる前に着かなくてはと、誰彼となく目指すお寺の名前を言っては道を尋ね、チベットの色とりどりの小旗のはためく小高い丘を越えて、何とかカトマンドゥでの宿と勝手に決めていたアーナンダ・クティ・ビハールに到着した。坂を下りると幼稚園の庭程度のところに人の背丈より少し大きな仏塔があり、そこから下の方に多くの人が大きな荷物をもって行き交う街道が見渡せた。二階建て二棟の小さなネパール上座仏教の僧院であった。

カルカッタのバンテーより、マハーナーマという名の長老を訪ねよ、と言われていた。マハーナーマ長老はその時この寺の住職さんで、用件を告げると、疲れていると思われたのか、すぐに二階の隅の大きな部屋に案内された。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない部屋であったが、マットのあるベッドが一つあり、何とか静かに寝れそうであった。

温水のシャワーが出るとのことだったので早速汗を流しに行く。大理石の床に広いシャワールーム。三人四人が一緒に浴びれるくらいの広さがある。蛇口をひねる。しかし、水がちょろちょろ出てくるだけで、いつまで経っても温水にならない。物寂しい思いにとらわれながら、結局タオルに水を浸して身体を拭くだけで出てきてしまった。標高千四百メートルのこのあたりでも、昼間は三十度近くなるはずだが、夕方には急に冷え込んでとても寒く感じる。冷たい水を身体にかける気にはなれなかった。

部屋に戻るとノックがして、小さな子供をおぶったせむしの女がミルクティを運んできてくれた。部屋に女性とだけ居ることを禁じている比丘の戒を気遣ってのことだろう。するとそこへ黄色い袈裟をまとった十代の沙弥(見習僧)がやって来て、私の荷物から覗いている文房具やカメラを触っては質問し、聞きもしないのに自分の名前を紙に書いたり、何しに来たのかとしつこく聞いて出て行った。おそらく年長の比丘たちから言われて偵察にでも来たのだろう。

ネパールは、国民の八割以上がヒンドゥー教徒で、残りの数パーセントを仏教、キリスト教などが分け合っている。仏教も、チベット仏教を継承するネワール仏教と言われる人たちと一九三〇年頃からは上座仏教も存在する。日本のように様々な宗教施設が街に混在し、ヒンドゥー教徒も仏教徒も双方の寺にお参りしても何の違和感も感じないという。ネパールの人たちは、顔や気性ばかりか、そうしたところも私たちに似ているようだ。 つづく・・。

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ネパール巡礼・二

2009年08月02日 06時43分51秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
ゲストハウスに荷物を置いて、トイレバスの位置を確認していると子供に呼ばれた。ついて行くと、お寺の裏でヴィマラナンダ長老が座って食事をしている。知らぬ間に十一時を過ぎていたのだ。私の座るところを指さすので、座りご馳走になる。

野菜のカレーにチャパティ。チャパティは日本のインド料理屋で定番のナンよりも庶民的なインドパンで、精白していない小麦粉をこねて丸い鉄板で薄く焼いたもの。それを右手で小さく切ってカレーにつけて食べる。目の前で焼いてくれるので焼きたてのおいしいチャパティを沢山いただいた。

正午を過ぎると固形物を口にしない南方の僧侶にとって、一日の一番大切な行事を終えて、しばし部屋で横になり、二時過ぎにルンビニーの広大な平原へ向かった。ルンビニーはサールナートなどの遺跡と違いまだ未整備の為、柵やゲートなどもなく出入りが自由なのは結構だが、ガイドなしで一人行くときは何の手がかりもなく心許ない。カルカッタを出る前にバンテーから手渡された一枚の絵はがきをたよりに歩く。

ゲストハウスを北に出て少し行くと道の左側に沢山の看板があった。僧院地区に用地を取得して建設中のお寺の方角を示す看板だった。韓国やミャンマー、ベトナムのお寺の看板に混じって、薄いブルーに茶色の文字で、「BHARATIA SANGHAーRAMA The Bengal Buddhist Association」という看板があった。

両側に草原が広がるだけの、ひと気のないその道を北にまっすぐ行くと、蓮の形をした皿に灯された燈火が揺れていた。そこが僧院地区の入り口で、西側が大乗仏教のお寺、東が南方上座仏教のお寺に割り当てられ、その中央には水の干上がった水路が延びていた。

マスタープランが出来てから、その時すでに二十年は経過しているはずであったが、未だに草ボウボウの原野の中にレンガが点在しているようなものに思われた。私はそれから数人の人夫が立ち働く姿の見える西側の僧院地区へ向かった。そこはベトナムのお寺の建設現場であった。中に入っていくと、すぐに青いポロシャツに長靴を履いたベトナム人僧ウィンギュさんが出迎えてくれた。

百二十メートル四方の大きな土地にゲストハウスを建築中で、その後本堂と塔、寺務所などを作る予定だという。建設途中の仮寺務所に案内され、ベトナムのお茶とビスケットをご馳走してくれた。

ベトナムの仏教は、中国経由の禅仏教が主流で、他の東南アジアの仏教とは異なる。紀元前から一千年程中国領であったため道教儒教の要素も混淆している。共産党支配下で衰退したが、一九八六年以降改革開放路線がスタートしてからは仏僧も増加して今では、一万八千人の大乗僧に加え七千人もの上座仏教僧もいるという。ベトナム戦争当時から積極的に平和活動をしてノーベル平和賞の候補になる世界的にも有名な「行動する僧侶」もあり、社会的な地位も高いようだ。

次に向かったのは總教という日本の新興宗教が造っているお寺だった。柴田さんという日本人の方が七ヶ月前から駐在しており、何もない原野に一からお寺を建てる苦労話をひとしきりうかがうことになった。總教は茨城県に本部があるということで、それまで聞いたこともなく日本でこの方とお会いしても話すことはないだろうと思えたが、このときはお互いに久しぶりに会う日本人でもあり、すぐにうち解けて話が弾んだ。

三ヶ月前に電気が来て電話は一月前に入ったばかりとのこと。敷地の柵を作り出して二年半。一つ一つ建物を造り、寺務所が二棟出来たところで、そのときはお寺の本堂を建設中だった。夜が特に物騒なので寺務所の周りには別に三メートル程の柵をめぐらしていた。職人には一日百ルピー(約一五〇円)、人夫には五十ルピーとのことだったが、韓国のお寺が来てからは何もかにも値上がりしてしまったので困っているとこぼしていた。雨期が過ぎてスッポンが出たといって、水たまりに囲って入れたスッポンを見せてくれた。他の地区だがミカサホテルの現場では蛇に噛まれて死者も出たという。

この後日本からノータックスで運んだというトヨタに乗せてもらい日本山妙法寺に案内してもらう。途中韓国のお寺の前を通る。かなり大勢の人夫を使い建設を急いでいる様子。二人の韓国人僧が居るとのことだった。僧院地区を抜けて、研究所やホテルの建つあたりに来ると、草の間に煉瓦造りの大きな土管を重ねたような建物が見えた。日本の新興宗教「霊友会」が出資して建てたルンビニー国際研究所兼ホテルだそうだ。

柴田氏曰く、はじめに霊友会から一億もの寄附があったが何もしない間にルンビニ開発トラストの幹部がその大半を食べてしまったことがわかり、完成後直ちに寄附する予定だったが十年間は霊友会が管理することになったらしい、各部屋には高価な電気製品もあり、それらを持ち出されるのを恐れてとのことだ。

またその先には法華ホテルがひっそりと煉瓦の塀で覆われていた。すでに開業しているはずだが、聖地地区で発掘をしている全日本仏教会の関係者や日本の研究者が来たときくらいしか宿泊者もなく閑散としている。日本人発掘団の一人がドラックを鞄に入れられて警察に捕まりひどい目に遭う事件があって、その後地元警官と現地人の金目当てのトリックと判明し、日本人技術者もしばらくは来ないという。

日本山妙法寺は、熊本県出身の藤井日達師が大正七年に中国の遼陽に造ったお寺を先駆けに日本国内外に七十程の白い仏舎利塔を造り世界平和を訴える日蓮宗系のお寺の総称。インドではあのガンジーさんと出会い、ともに非暴力主義を語り確認し合ったと言われ、それがためにインドではかなり優遇されている組織と以前から聞いていた。ラージギールやヴァイシャーリー、ダージリンなどに大きな世界平和パゴタという仏舎利塔を建立している。

マスタープラン外の土地で建設を進める妙法寺では、ここへ来て三年、その前にはラージギールに六年いたという生天目豊師が迎えてくれた。白い上下の服を着てニコニコと話をされる。既に本堂と宿泊施設ができあがり塔の建設に入っている。二百メートル四方の土地だからかなり広く感じる。本堂に中国の化粧瓦を用いたが土地に合わないせいか、もう既に風化してきていると嘆いていた。

その時も何人かの人夫が働いていたが、彼らに仕事をさせる大変さを話していた。仕事をするとはどういう事か、そこから教えなければいい仕事は出来ないなどと。勤行は朝夕五時から団扇太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」と一時間半程唱えるとのこと、厳しい気候の中、生半可なことで真似の出来ることではない。今ではインド国内には十人しか坊さんがおらず、みんな快適なアメリカやヨーロッパに移り住んでいるとのことだった。

その後ベトナムのウィンギュさんもオートバイに乗ってやってきて、英語とヒンディ語混じりでひとしきり話をしていると、早くも日が傾きかけてきた。そのとき外に出てみんなで撮った写真が残っている。一人合掌し艶のいい笑顔で真ん中に写っている生天目師だが、実はこの一年後に賊に入られ殺されてしまったのを、ちょうど滞在していたカルカッタの新聞で知った。寺務所を二重に柵で囲った柴田氏はお元気にその後日本に戻り活躍されているようなのだが、気の毒なことである。

その晩はむしろを敷き詰めた床にスポンジだけの布団を敷いて、持参したシーツを身体に巻いて眠りについた。

十月十四日。この日も一日歩いて各お寺を回る。八十メートル四方と百六十メートル四方の隣接する土地を取得しているミャンマー寺では、坊さんがおらず全てを政府の役人が指揮を執っていた。簡易寺務所を作り、ミャンマー様式の細く上に伸びた円錐形の大きな塔を建設中であった。

そして、その隣の水路側に肝心のベンガル仏教会が取得した土地があった。看板一つ。何ともさびしそうに立っていた。短い草に覆われて、いつになったら人で賑わうことになるのか。インド国内でさえ他の地方に住みたがらないベンガルのお坊さんがこの地に住まうことさえ無理なのに、お寺を造ることなど出来るのかと人ごとのように感じていた。

加えて、その日の朝、ヴィマラナンダ長老に会ったとき、「仏教徒の居ないこの地にそんなに沢山のお寺を建ててどうなるのだ」と言われた言葉も私の脳裏に重くのしかかってきた。つづく

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