住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

小学六年生に國分寺を語る 改訂版

2016年04月29日 08時35分35秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
○小学六年生に国分寺を語る(28.5.2.)

今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

皆さんこちらにお参りになるのは初めてですか。國分寺、例えば他の備中の国分寺にお参りしたことがあるという人もあるかも知れませんね。事前学習と言うことで國分寺について学んでこられたかも知れません。何か質問はありませんか。何事も、いろいろと疑問を持って何でだろう何だろうと考えながら学んで欲しいと思います。では、私からぼちぼちとお話をしていきますが、質問があったらすぐに手を上げて下さい。

まず、この皆さんの前にある建物は、現在の國分寺の本堂ですが、こちらは今から320年前、江戸時代元禄七年、1694年に再建された建物です。それより20年前の延宝元年に大雨で流されて荒廃していた國分寺を、時の福山城主水野勝種公が大檀那になって再建されました。

①なぜ水野勝種公は國分寺を再建されたのでしょうか。

それは、この備後には國分寺が昔からあって、一国に一つ、備後福山の国の象徴としてあったからなんです。

②そもそも國分寺が、いつ頃からあったかと言えば、今から1270年ほど前からです。その初めにできる奈良時代の國分寺はどんなお寺だったのでしょうか。

当時の建物は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門があり、周りには高さが2.5メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経蔵等があって、今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

③ではその初めにできる國分寺は誰が造ったか、ということですが、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられてできていくのですが、なぜ天皇は國分寺を造ろうとされたのでしょうか。

741年の百年くらい前に何があったか、社会科の授業で習っていますね。大化の改新と習いましたか。それは今では乙巳の変といって、今で言えば総理大臣の地位にあった蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が惨殺する。政権を転覆させるクーデターがあった。まだ、中大兄皇子が天智天皇になって朝鮮に出兵をしたり、また、天智天皇が死ぬと後継者争いで壬申の乱が起きる。それで、天武天皇の時代にそれではいけないというので中国の政治の仕組みである律令制度を採用して準備されて、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、律令制度上大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられ、全国でつごう68の国が出来ていきます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが710年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがありました。正しい政治をしていた人が冤罪で暗殺されたり、その後政権を取った人が天然痘という疫病が流行り次々に死んでいくという恐ろしい時代となります。さらに天変地異があって作物も実らない。そこで、聖武天皇は、仏教の力で、この時代を正していこうとされたのです。諸国に國分寺を造り、都には東大寺を造り大仏を造って、理想とする仏様の世界をこの世に造ることによって、国が安泰となり、諸国が平安となり、そこに暮らす人々も幸せになると信じられたのでした。

④では、なぜこの御領の地に備後の國分寺を造ったのでしょうか。

それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる沢山の大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

⑤ところで、皆さん、なぜお寺だったんだろうと思いませんか。神社ではいけなかったのかと。

そう、仏教でなくてはならなかったのです。なぜかというと。既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきますが、それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、、芸術、科学技術を伴うものであったからです。そもそも仏教が日本にもたらされるのは、今から1500年ほど前、西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ諍いがありましたが、その後聖徳太子が、仏教は四方の極宗(よものおおむね)であると言って、今で言うグローバルスタンダード、世界基準ということで、積極的に仏教を取り入れていきます。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物を造る建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写のための紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、仏画などの絵画の技法、僧衣の生地や縫製など服飾関係の製法、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることができました。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、諸国に國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。何か質問はありますか。

國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。

(5/2 本日実際にお話しさせていただいた内容は以上のとおりです。)


今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

このお寺は今から1270年ほど前に出来るのですが、そもそも仏教が日本にもたらされるのはそれより200年前、今から1500年ほど前のことです。西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ議論がありましたが、聖徳太子が積極的に仏教を取り入れていきます。なぜ仏教を取り入れたかと言いますと、既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきました。中国も朝鮮もみな仏教を積極的に導入していました。

それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、科学技術を伴うものであり、今で言うグローバルスタンダード、そのものだったのです。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物、建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写による紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、僧衣の服飾、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることで、日本の国は一気に文化的に発展することが出来ました。さらに沢山の経典が書写研究され、様々な願いを祈願することも出来る、願っても無いものだったと言えます。

聖徳太子の時代の後、政治的には、皆さん習った大化の改新それが645年、今では乙巳の変と言いますね、それから壬申の乱が672年というように、政治的社会的にかなりの混乱した時代が続きます。そこで、それではいけないというので天武天皇の時代に律令制度が整備されていき、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが708年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがあり、疫病が流行ったりしまして、偉い人も亡くなった、そこで時の天皇、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられ、国ごとに國分寺を造って、大きなお釈迦様を祀り、大きなお堂や七重塔を作って、金光明最勝王経という護国経典を読誦させて国家の安泰と作物がよく実りますように、人々が幸せであるようにと願ったのでした。

國分寺は、国を分ける寺と書くわけですが、ここは備後の國分寺ですね、隣には備中の國分寺、また西には安芸の國分寺があり、一つの国に一つの國分寺が造られ、全国に六十八ほどの國分寺がありました。國分寺が造られた頃の政治の仕組み、律令制度は、天皇を中心とする中央政府が万民に土地を公平に分け与え、その収穫の3%ほどを税とし他に労役兵役を課すという制度で、きちんとその制度が行き渡るように地方の各国にも役所、国府が置かれました。そして、先ほど申した通り仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、各国には國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

ここ備後の國分寺は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門、入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経堂等があって、周りは高さが二メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

ではなぜこの場所、御領というところに國分寺を造ったのか。それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

ところで、お寺には仏様が祀られています。今の本堂、この伽藍は今から320年ほど前に福山城主水野勝種公が大檀那になり再建されたものですが、仏様はお薬師さま、薬師如来が祀られています。仏様とは何でしょうか。亡くなった人ではありませんよ、木の彫り物でもない。仏様はインドから来たわけですが、インドではブッダと言います。ブッダは目覚めた者という意味です。この世の中の真実、ありのままの姿、この世界の成り立ち、法則について本当に解った人のことです。

皆さんは、怒ったり、喧嘩したり、イライラしたり、悩んだりということがあると思いますが、それは本当のことが解らないからです。ブッダは、そんなことは一切無い、いつも幸せな気持ちでゆったりと落ち着いて、とっても楽に生きている人のことです。人間としての理想とする人格を備えた人。だから本堂に祀って、一生懸命私たちもそうなれるように努力する、そうした場所がお寺ですね。ですから、國分寺というのはその国の人たちがみんなそうした理想的な生き方が出来るように、幸せに暮らせるようにと願って作られたお寺だったのです。

皆さんの家にもお寺がありますね。仏壇です。仏壇は皆さんの家の仏様、ブッダを祀った場所です。皆さんも理想の人になれるように頑張って生きて欲しいし、何かあったら、仏壇の前に行って手を合わせて静かにしてると気持ちがスッと安らぎます。やってみて下さい。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。



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日本仏教史総まとめ

2015年01月02日 18時29分33秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
仏教は、およそ二五〇〇年ほど前、一人の修行者がインドブッダガヤの地で深い瞑想に入り、人の生き死にの現実を神通力によって知り、その因を知ることでさとりの智慧が生じ、この迷いの世界からの解脱を果たされたことに始まる。その解脱に至るための教えは、厳格に守られていくが、その後、自ら大乗と名乗り、救いを求める多くの大衆に向けて説いた教え・大乗仏教が生まれた。

主にその教えが中央アジアに至り多くの西域の思想が付加されてシルクロードを通り西暦紀元前後に中国に伝えられた。伝来した経巻を悉く漢訳し、その後中国独自に思想として発展した。中国に仏教が伝わってから三百年ほどして、中国から朝鮮に伝わり、わが国には、欽明天皇七年(538)百済の聖明王が、釈迦金銅像と幡蓋などの仏具、それに経巻を天皇に対し献じて公式に仏教が伝えられた。

①聖徳太子の存在

わが国に仏教を採用するにあたっては、新しい教えを積極的に採り入れようとする蘇我氏と古来から祀られている神祇の怒りを招くとする物部氏との対立が起きたとされている。次の敏達天皇は仏教を信じなかったが、この時代に仏像や仏舎利が百済や高句麗からもたらされた。

敏達天皇十三年(584)には、仏像に仕える僧が必要とされ、蘇我氏の仏殿にてわが国最初の出家得度式が高句麗僧恵便を戒師に挙行され、司馬達等の娘ら三人の尼僧が誕生している。次の用明天皇は天皇として初めて仏教に帰依するが、即位二年で崩御すると物部守屋が挙兵し、蘇我氏が後の推古天皇を奉じて討伐。崇仏派の蘇我氏が勝利したことにより、豪族たちは競って氏寺を建て美しい仏像や経典類の調達に奔走した。

そして推古天皇が即位すると用明天皇の子聖徳太子が皇太子になり、四天王寺を大阪難波に建立。翌年には、高句麗僧恵慈を師として仏教を学んだ聖徳太子は、三宝興隆の詔を発して、仏教による道徳精神を国民に宣布。推古十二年(604)に制定した十七条憲法第二条には、「篤く三宝を敬え」として、
近隣諸国に倣い仏教を採用したことを述べた。さらに、太子は勝鬘経、法華経を自ら講じ、後にそれら経典の注釈書を認め、仏教の導入が国家レベルに達していることを内外に示した。

当時仏教を採り入れることは、金銅や木彫の仏像制作には精緻な彫刻加工技術、瓦葺きの大規模な堂塔は精密な建築技術、仏壇、逗子などの仏具類は精巧な工芸技術、法会には伎楽などの仏教音楽、経典書写には筆や紙の製法など、数多の先進文化技術を導入することを意味した。これにより、短期間で近隣諸国に並ぶ国際レベルの国家形成を計ることができたのである。

太子は日本仏教の祖とも言われるが、それは単にわが国最初の仏書を著するなど教えを深く研鑽されただけでなく、随という先進国レベルにわが国を押し上げんがため、仏教を国の教えとして国造りをする範を示されたことにあるのである。

②奈良仏教

奈良時代は、天災や疫病、飢饉や政治の動揺を沈め、国家の安泰を祈るために様々な仏教施策がとられた時代である。律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病からの攘災招福の意を込めて遷都した平城京は、奈良の都から仏教を全国に広める発信源となった。

聖武天皇は、皇后とともに政情の安定を願い一切経の書写を発願し、諸国に丈六の釈迦仏、脇侍菩薩を造らせ、大般若経や法華経の書写、七重塔の建設を命じた。天平十三年(741)には、国分僧寺尼寺建立の詔を発して、護国経典・金光明最勝王経による国家鎮護を願われた。そして、帝都奈良には総国分寺として東大寺を創建。当時世界最大の金銅仏である盧舎那大仏を造り、理想国家の象徴として万民の幸福を願ったのである。

天平勝宝四年(752)、東大寺大仏が開眼し、その翌年、中国から伝戒の師鑑真和上が来朝する。大仏殿前に戒壇を設け、聖武太上天皇、孝謙天皇はじめ四百余人が鑑真和上から菩薩戒を受け、官僧八十人ばかりには三師七証という正式な授戒式が行われた。これによって、わが国
にも具足戒を僧尼に授戒する、他国に認められる制度が整えられていくのである。

そして、この時代には、遣唐使らによって中国から伝えられた仏教学派が誕生している。これらは南都六宗と呼ばれ、空の思想を研究する三論宗、付随して研究された成実宗、唯識説について研究する法相宗、その基礎学としての倶舎宗、統一国家の原理とされた華厳教学を学ぶ華厳宗、戒と律全般について研鑽する律宗があった。

③平安仏教

平安時代には日本仏教の二大巨人と言われる最澄と空海が登場する。延暦十三年(794)、桓武天皇は人心の一新と仏教界の刷新のため平安京に遷都。京の鬼門に当たる比叡山に草庵を結ぶ最澄を宮廷の仏事に奉仕する内供奉十禅師に任じ、延暦二十三年(804)に入唐させる。

最澄は帰朝すると桓武天皇の熱烈な歓迎を受け、延暦二十五年には天台、密教、禅、戒律の四つを兼学する一大仏教センターとして天台宗を立宗。後の円仁円珍らの入唐によって本格的な密教がもたらされ天台宗も密教色が強まる。

一方、最澄と同じ第十二次遣唐使に加わった空海は、長安の恵果和尚を訪ね、インド伝来の密教の大法を悉く相伝されて帰国、すべての教えを包摂した広大な実践的思想体系である真言教学を構築し真言宗を開宗した。

空海は東大寺の別当に任ぜられると奈良の仏教界を密教化し、さらには宮中の仏教儀礼をも密教化した。仏教は国家鎮護を祈るものとしてだけでなく、律令体制の衰えによって台頭する特に貴族文化人のために悪霊退散や病気平癒など現世利益への要求が高まり天台、真言の密教による祈祷や儀礼ならびに音楽や絵画は歓迎された。

山岳修行者らが天台真言の密教と結合して組織化され修験となり、神仏の習合が進み、神は仏が姿を変え現れたとする本地垂迹説が説かれた。

また末法思想が流行し、永承七年(1052)から末法の世が始まるとされ、災害が頻発したり社会不安が蔓延したこともあり、人々は現世に絶望し来世に期待するようになる。そうした時代に、空也が京の街角で念仏を広め、源信が往生要集を著して念仏往生の教えを説いた。宇治の平等院などに見られるように貴族たちはこぞって阿弥陀堂を建築した。また寺院に属さない聖という民間布教者が現れて浄土教は全国に広まった。

この時代私的支配が進んだ多くの荘園をもつ大寺院が現れ、貴族の子弟が入寺して階層化し、また地方の治安が乱れて武士団が形成されると、下級僧侶が僧兵化し、さらに院政をとる上皇が正式に出家をして法皇になると、寺院は保護され、横暴を極め中央政治の権力が及ばない時代が続く。

平安時代は、密教という人々の願いを叶えてくれる力ある教えが求められ、宮廷貴族から一般大衆にも仏教が伝わり、心の安寧を神をも包摂した仏教に求め始める時代であった。

④鎌倉仏教

鎌倉時代は比叡山で修行した僧らが新たな教えを興す時代である。源平の合戦以来争乱が続き、さらに天災がしばしば起こって社会不安が増大していたが、旧仏教は、特に大寺院では多くの荘園を持ち他の有力寺院と対立したり上級の僧は権門子弟が占めて政治に関与して俗化し、下級の僧は僧兵となり権力争いに明け暮れ横暴を極めていた。

そこで、真に救いを求める人々の願いにかなう教えとして、まず法然が既に流行していた浄土教をわかりやすく弥陀の本願として救われる道として念仏を唱えれば良いとする教えを説き、公家や武士庶民にいたる広い階層から支持されて浄土宗が成立。そこに馳せ参じた親鸞がさらに罪深き身を顧みるとき自力作善はあり得ないとして絶対他力の教えを説いて、武士や農民に広まり浄土真宗を開いた。一遍は弥陀成仏のとき既に一切衆生の往生は決定していたとして六字の名号の功力によって往生するとして諸国を遊行して時宗が成立。

鎌倉武士たちの気風にあった教えとして、中国からもたらされた禅を第一とする教えが京鎌倉の上級武士らに受け入れられ、二度入宋した栄西によって臨済宗が、また道元が宋から曹洞禅をもたらして座禅は仏としての修行であるとして只管打坐を説き曹洞宗が開かれた。また法華経に絶対帰依する日蓮が一切衆生成仏の真髄としての唱題を説いて日蓮宗が開かれた。

一方奈良の旧仏教界でも、新仏教に触発されて、革新の機運が起き、高山寺の明恵、興福寺の貞慶、唐招提寺の覚盛らは、戒律復興を唱えて、菩提心を疎かにし三学を蔑ろにする新仏教のあり方を批判した。また西大寺を復興した叡尊と弟子の忍性は、乞食や囚人などにいたるまで多くの人々に戒律を授け、悲田院療病院を作り慈善救済活動に尽力した。

旧仏教が学問戒律中心の貴族仏教であっのに対し、新仏教は、教義もわかりやすく修行も簡易で、庶民の救済を主とする仏教であり死後の救いを与えてくれるものでもあった。仏教が人々の葬送に関与する習慣ができるのもこの時代からであった。

⑤室町期

室町期は、幕府が支配していた前期には、安定した時代を背景に各宗派が勢力を浸透させ、応仁の乱後の後期・戦国時代には一向一揆などのように大寺院は政治的な一大勢力となり戦乱に巻き込まれ、地方寺院はおのおの戦国大名のもとで共存しながら生き延びる策を講じた時代である。

まず、将軍家の帰依と保護により発展したのは臨済宗であった。足利尊氏は夢窓疎石の勧めで敵味方一切の霊を弔うため天竜寺や諸国に安国寺と利生塔を建立。三代義満の時代には、南宋の官寺の制に倣い五山十刹の制を整え、五山の僧の中には政治・外交の顧問や宋学、五山文学で活躍する僧が出ている。西芳寺庭園など山水画の趣向をいれた禅宗庭園や書院造りなどの建築、佗茶として広まる茶の湯もこの時代に創始された。

曹洞宗は浄土教や真言などとの兼修禅を唱え主に北陸に教線を拡大し、浄土宗は関東地方に布教して、江戸に増上寺を建立する。

しかし、応仁の乱が起こると、京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退した。一方親鸞の曾孫覚如が大谷本廟を中心とした本願寺を建立し、その後蓮如が出て北陸を中心に現在にいたる真宗教団を築きあげると、一向一揆へと展開し加賀一国を統治するまでに勢力が拡大。このほか京都に勢力を張っていた日蓮宗法華門徒や比叡山衆徒など政治権力に対する抵抗勢力として戦国大名に対抗しうる勢力となった。

天下をほぼ手中にした織田信長は比叡山の堂塔を焼き払い、最後まで各地で激しく抵抗していた一向一揆を平定し、石山本願寺とは和睦を結び集結した。その後高野攻めを決行するもののその間に本願寺にて客死、豊臣秀吉は根来寺の全伽藍を焼き、高野山にも軍勢を向かわせたが、木食応其の説得にあい、逆に自らの祈願のために青厳寺を寄進した。秀吉は検地刀狩りによってすべての寺領を没収して寺院勢力の解体を行い、由緒正しき所領のみ与え懐柔。自らの父母供養のため京都東山に建立した方広寺大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養を行った。

鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで浸透する一方、大寺院が政治権力に抵抗する勢力として影響力を示した時代であった。

⑥江戸の仏教

江戸時代は、武力も経済力も失った寺院勢力が、幕府に干渉統制され、封建機構の中に組み込まれていく時代である。幕府は江戸に各宗派の触頭寺院を置かせ、全国の末寺を組織統制させた。そして宗内の職制、住職資格、本寺末寺などが規定された各寺院が守るべき法度を定め、本寺、中本寺、末寺などへ通達がいくよう、すべての寺院を本山が組織する中央集権的な組織に組み入れた。そして法談の制限、勧進募財の取り締まり、新寺建立、新興宗教の禁止自由な布教、新しい教義の提唱が禁止された。

さらに、キリシタン禁制のため全住民に寺請が強要され、どこかの寺院の檀徒になることが義務づけられた。これにより、婚姻、旅行、移住、奉公の際にも寺請証文の携行が、また死亡時には住職検分の上、引導を渡すことが義務づけられた。

今日にいたる檀家制度がこのとき始まるのであるが、これによって、全国民が仏教徒になり、葬式、年忌法要、墓碑の建立が定着し、一家一宗旨、檀那寺の変更も禁止されるに至る。仏教僧が故人の葬儀を執り行うことがこの時期から一般化する。

この時代の仏教は、自由な活動を制限する一方で、檀林、学寮など学問所が整備され宗祖研究、経典解釈など教学の振興が図られた。

檀家制度ができて生活が安定し安逸に陥った仏教界に非難の声が上がると、僧風の粛正や戒律の復興運動が各宗で起こった。比叡山の妙流、霊空、浄土宗の忍徴、霊潭、真言宗では淨厳、慈雲といった学僧らが本来あるべき仏教への回帰を唱えた。

民衆の管理統制の役割を担い、信仰を問わず全国民に仏教徒としての勤めを強いることになり人々に崇高なる信仰の価値を見失わせる発端となった一方、善光寺、高野山や西国などの観音霊場、四国八十八カ所への参拝旅行が一般民衆に流行する時代でもあった。

⑦明治維新と仏教

明治時代、それは日本仏教にとって未曾有の衝撃に襲われた時代である。皇室の保護、国家の体制に護られ、また各時代の為政者に師事されてきた仏教、そして江戸時代には国教と言える地位にあった仏教が、天地逆転して賊教にまで貶められ排斥された。

王政復古の旗印の下に打ち立てた明治新政府は、その権威のため天皇を親権者とする国家神道を国教とする政策を推進する。明治初年、神仏分離令を発令して、神社と寺院を分離したが、それに触発された神職らは幕藩体制下で受けてきた精神的な圧迫に反発すべく民衆を巻き込み寺院建物や仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものを破壊した。

神仏分離令から肉食妻帯解禁の布告が出るまでの五年間ほどは各地で廃仏毀釈と言われる野蛮行為が全国に吹き荒れた。寺院が廃合され、僧侶が還俗させられたり、仏像経巻も焼却廃棄された。こぞって僧職が還俗して神官になり、神社に遣えた大寺もあった。そういう時代である。

神道国教化は宮中においても同様に行われ、寺院を勅願所にしたり勅修の仏教儀礼は廃止となり、天皇皇族の菩提所だった泉涌寺との関係は改められ、皇室の葬礼は神式にて行うこととし、黒戸に祀られていた位牌仏具類は泉涌寺などに移された。

敬神愛国を国民に広める役割を神官僧侶に担わせ教導職と呼び、序列を設け、その養成機関として大教院を設立。これは、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治的思想を国民に浸透させるものであった。しかしこれは神仏混淆の新たな国教を作ることとなり、当初の神仏分離の原則とも矛盾するものとなり、二年半ほどで解散。

明治五年には、僧侶の肉食妻帯勝手たるべき事との布告がなされ、一般人民同様に苗字を称すこととなり、国家として出家者を特別扱いしないこととなり、これにより仏教の世俗化に拍車がかかったのである。その後、欧米からキリスト教迫害を抗議されたこともあり、神道を非宗教と規定し信教の自由を保障することが通達されるに至る。

こうした仏教排撃の機運に抗して仏教擁護のため僧風の粛正と通仏教の立場から戒律主義による護法運動が起きる。浄土宗の福田行誡、真言宗の釈雲照らは僧侶のあるべき姿を真摯に守るべき事を僧界に要求し、自ら実践して、他宗の僧侶からも民衆からも崇敬された。

さらに学校教育によって西洋の近代的知識が浸透することで社会生活における仏教の知的地位が低下していたが、原坦山、大内青巒、井上円了、村上専精などによる仏教の開明的啓蒙活動が盛んに行われた。

そして、欧州で花開いた近代仏教学が、東本願寺の南条文雄、笠原研寿によってもたらされ、これに楠順次郎が続き、漢訳仏教ではない、インドの原典からの仏教研究が学問仏教では主流となっていった。その後釈興然、釈宗演などスリランカ仏教界に留学する僧侶が現れ、また河口慧海は経典を求めてチベットに潜入した。

そうした中、米国人オルコット大佐がスリランカを経由して正式な仏教徒として、スリランカ仏教界からの親書を携えて来日し、各本山管長と会談し、全国に講演旅行をして仏教の基本を説き日本仏教の復興を後押しした。

また明治半ばより、居士仏教、在家仏教と呼ばれる道心堅固な在家仏教者ないし還俗した仏教者たちにより座禅や聞法、機関誌の発行など様々な仏教啓蒙運動が展開されるが、後に多くの新興宗教を生むことになる日蓮系の組織にあってはこの時代に既に、出家在家を越えて真に信仰を持つ者こそが重要であることを表明して講組織を拡大し教団組織を形成した。

文明開化のこの時代、国家神道体制の枠の中で、僧侶や在家仏教者たちにより、新時代に相応しい仏教のあり方が様々に模索され、仏教の近代化のために様々な活動が展開された時代であった。

⑧近現代の仏教

大正から昭和にかけて戦時体制が強まる中で、思想宗教がなりを潜めていく時代、仏教も同様に圧迫を受け、天皇主義ないし政治教学と言われるような戦争協力的な姿勢を取り戦時体制の中に組み込まれていった。

そうした中、昭和九年には、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始した友松圓諦、高神覚昇らによるラジオによる法句経、般若心経の講義は大人気を博し、不安な心情の中に生きていた当時の人々の心のより所となった。

各宗団は、植民地政策、大陸侵攻にも深く関わりそこで布教活動を展開した。朝鮮では、皇民化政策の推進のため皇道仏教を押しつけ仏教界を統一し、台湾や満州では日本の宗派が個別に進出して親日的な組織を作り侵略を補助した。

 
戦後は、都市部の寺院は戦災に遭い、地方では、もともと寺院は一定の土地を所有しそれを小作に耕作させ小作料により維持されてきたが、戦後の農地解放によりそうした土地さえも奪われ、やむなく葬式法事に寺院の主たる活動が特化せざるをえない状況に追い込まれていったのであった。

そして、1952年、真理運動を起こした友松圓諦師らの尽力により、世界仏教徒連盟会議第二回が日本で開かれ、それにより国際社会に復帰する手がかりとしていく。その後、高度成長期に進む都市への人口流入に伴い、明治に起こった在家主義仏教の流れをくむ新興宗教が都市部を中心に浸透し、日蓮宗系の諸団体が大きな勢力となった。

今日では、都市化に少子化が進み、地方寺院と檀家との密接な関係が薄れつつあり、永代供養墓の普及、ならびに都会では地域との関係も薄れ家族葬、直葬が流行している。さらに、墓じまいと言うように、古来日本人が大切にしてきた先祖祭祀の根本であった、先祖代々の墓さえも整理廃棄してしまうなど、己の存立の根拠さえ無くてよいとする、日本人としての宗教観を喪失した時代でもある。

しかし一方で、国宝に指定された仏像などの展示には何十万もの人が拝観に訪れ、奈良京都などの古寺に詣り仏像や庭を鑑賞したり、写経や座禅の実践にのぞんだり、また四国遍路など巡礼にも関心が高く、閉塞した時代の心の癒やしを仏教に求めてもいる。

また、特に都市部を中心に寺離れという現象が問題視される中、1980年代から、スリランカなど南方仏教の僧侶が日本に長期に滞在して布教し、今日では多くの書籍が出版され、全国に布教所や寺院を建立して、多くの人々が聞法瞑想に励んでいる。

さらに最近の話題としては、明治初期に分離された寺院と神社が、東日本大震災後に神と仏が手を結んで、疲弊した多くの人々の心の安寧のために関西一円の大寺社が神仏霊場会を立ち上げたことは特筆されよう。

戦後の占領政策から日本人の宗教観はこの七十年で著しく崩壊したかの感が否めない。それでも多くの人たちが、西洋での仏教ブームにも見られるように進歩した科学文明や過酷な情報社会、経済の低迷の中で精神的な解放を仏教に求めていることは確かなことであろう。伝来以来この国にとって大切な精神的な支柱であり続けてきた仏教は、いま、私たちの心身に無意識のまま浸透しているとも言える。江戸時代につくられた家の宗教としての仏教から、瞑想や巡礼、写経など実践による個人の心の平安、また生き方を模索する手立てとしての仏教へ転換が求められている時代と言えようか。


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國分寺創建の背景

2014年05月27日 07時31分42秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
聖武天皇はどのようなお方で、なぜ國分寺を造られたのか。仏教が伝来し、それを積極的に受け入れた蘇我氏、その系統から聖徳太子が出て仏教は興隆した。仏教は、国の教えとなり政治を底辺で支えた。

諸外国に学び、進んだ政治制度である律令国家への歩みを進めていたとき、乙(いつ)巳(し)の変が起こった。私たちが大化の改新と習った政変である。天皇家を貶め専横を極める蘇我氏を暗殺し、後の天智天皇と後に藤原氏となる中臣鎌足が政権を奪取し新しい行政改革を行ったといわれる。次の時代に編纂される「日本書紀」では彼らは英雄とされた。しかし、事の真相はそれほど単純なものではなかったであろう。

そもそも日本の起こりは、近年発見された三世紀前半の最大の大型建物跡が発掘された纏向遺跡(まきむくいせき)から地方各地の土器が発見され、それは地方豪族による合議共存によってヤマトが成立したことを推定させる。それを根本から崩す政治を天智と藤原氏は目指していたという。それは、雄略、武烈というかつて倭の五王と言われた天皇と同類の独裁を目指すものであった。

しかし、天智天皇の死後、のちの天武天皇が繰り広げた壬(じん)申(しん)の乱(らん)は、それを再度ヤマト古来の合議共存への政治回帰であり、実際に各豪族の協力のもとに律令制度の基本となる土地制度改革が進められた。

そして、聖武天皇とは、天武の孫文武天皇の子ではあるが、母は鎌足の子藤原不(ふ)比(ひ)等(と)の娘であり、初めて皇室外の母を持つ天皇であった。そして、後の世で天皇と外戚関係を結び政治の実権を握る藤原氏の政治手法の最初の天皇でもあり、生まれたときから不比等邸で育てられた。

聖武天皇は、大宝律令ができた七〇一年に生まれ、奇しくも皇后となる不比等の娘光明子も同年に生まれた。不比等の死後、天武の孫長屋王の政権を面白く思わなかった不比等の息子たちは、光明子を臣下の娘として初めての皇后とすべく暗躍し、長屋王を冤罪で身罷らせる。

しかし、その後蔓延した天然痘でその不比等の息子たち四人が瞬く間に死す。それは、長屋王の祟りと恐れられ、恐怖した聖武、光明は仏教施策に奔走する。一切経を書写させ、諸国に丈六の釈迦如来像を造立させ、七重塔のある寺を造らせる。

議政官を独占していた藤原四兄弟が亡くなると橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備が政権を担い、九州に左遷された藤原広嗣が九州で挙兵。それを期に、聖武は藤原氏の造った平城京を出て彷徨。はじめに向かった東国ルートは、天武が壬申の乱で挙兵すべく向かったルートに重なる。藤原の天皇から脱し、天武を意識し、その政治を理想とし継承することを目指したのであろうか。結局、その後五年にわたり各地へ遷都を繰り返し、この間に國分寺の詔も発せられる。

汚れた政治権力の抗争を離れ、真に理想の国家建設のために何が必要かを深く思索していったのであろう。そして、大仏造立を発願する。唐から帰った玄(げんぼう)の諸国造寺の進言と、東大寺初代長老良弁(ろうべん)から学んだ華厳思想が融合し、國分寺制と大仏造立が一つの理念に結ばれたのである。

すべてのものは相関し、個は全体の縮図であり、全体は個に影響するという思想のもと、国土全体を華蔵世界になぞらえ、諸国國分寺に釈迦仏を、帝都に毘盧遮那大仏を造り、時空を越えた理想的仏国土建設を志したのであった。

聖武太上天皇一周忌には、東大寺と諸国國分寺にて盛大な法要が営まれた。



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フレデリック・ルノワール『仏教と西洋の出会い』を読んで

2013年06月12日 09時16分04秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
帯に書いてある通り、正に壮大なドラマ、フランス人の雑誌編集者による、二千年にも亘る仏教と西洋の交流史を拝読した。個人的備忘録として特に印象深いところを概説してみたい。

第一部幻想の誕生
その始まりはアレクサンドロス大王のインド遠征にあり、その後インドを統一したアショカ王の仏教使節、さらにはギリシャ、西域からのインド世界への侵攻などが東西文化の交流を促進する。そうした中でインドの思想がヨーロッパへと到達したことによって、紀元前2世紀のエッセネ派ユダヤ教団に仏教の出家教団の影響が見られたり、パリサイ人が転生を信じていたりということがあったようだ。

また、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴があるグノーシス主義が仏教を源とするといった意見や、そもそも仏教はユダヤ教やキリスト教、ギリシャ思想にまで直接的に決定的な影響を及ぼしたとする意見も紹介するが、著者は相似とその影響は別物と結論している。その根拠として、カール・ヤスパースが人類の基幹期と呼ぶ、紀元前550年から500年にかけて、ゾロアスター、老子、孔子、ブッダ、マハーヴィーラ、ピュタゴラス、ヘラクレイトスなどの偉大な後世に多大な影響を与える思想家が輩出したが、その彼らは直接の接触なく、影響もなく、並行して思想を発展させたではないかとするのである。

ところで、ヨーロッパ世界にアジア最大の宗教の開祖の伝記をはじめて伝えたのは、ヴェネチアの大旅行家で、24年間も極東をめぐり14世紀初頭にその旅行記を書いたマルコ・ポーロであったという。その後16世紀には沢山のイエズス会の宣教師たちがアジア各地にやってくる。しかし彼らは残念ながらアジアの宗教にはそもそも関心がなかったのか、このマルコ・ポーロの記述をまったく知らなかったのだという。と言うのも、11世紀頃ヨーロッパには、ブッダの伝説が様々な言語に置き換えられしながらキリスト教に改宗したインドの王子の物語・聖ヨサファットの生涯として流布しており、それと混同されたからとの仮説を立てている。このように、なかなか正確には仏教が西洋に伝えられることなく、次の時代まで、様々な要素と混同されてきたことが知られるのである。

第二部仏教の発見
18世紀から19世紀にかけて、東洋の信仰に関する言語学的学問的な解明が進む。ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』が1771年に出版され、1784年には、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァット・ギーター』が翻訳された。以後一世紀の間に、サンスクリット語からの翻訳がいくつも出版され、東洋学がヨーロッパ知識人を圧倒し、新ルネサンスと言われたという。そして1830年代になってはじめて仏教資料の本格的な研究が開始される。

まずハンガリー人のケーレシ・チョマはチベット隣接のヒマラヤ地域に長期に滞在して、1834年チベット語文法と辞書を出版。さらにチベット大蔵経やその注釈書などを発見し、学術論文にまとめた。イギリス人ブライアン・ホジソンがネパールで発見した88点のサンスクリット仏典をパリ・アジア協会に納め、それをフランス人学者ウージェーヌ・ビュルヌフが解読。彼は1844年に『インド仏教史序説』を出版、科学的、文学的、宗教的一大事件として全ヨーロッパで歓迎されたという。

これは本格的仏教研究の基礎となり、その発祥、バラモン教との位置、その発展、主要教義、その後の歩みに至るすべてが知られるものだという。こうしてヨーロッパ人にとって、仏教世界の広大さが意識されるようになっていく。当時カトリック教会よりも一億人もブッダの信者は多かったと言われ、その存在は、キリスト教と比較され、その普遍性によって、恐るべき危険な反論として捉えられたのであった。

一方で、ヨーロッパのインテリ層は、仏教とは、バラモン教という旧約聖書に対する一種の新約聖書にあたるものであるとしたり、また、仏教をプロテスタントの宗教改革と比較し、類似論が展開されることもあった。つまり、独占管理者だと思っていた人たちに閉じ込められていたものを理性ある魂を持つすべての人に開放したのだとする者もあった。しかしその大勢は、19世紀後半には近代的な仏教に対し、教条的なキリスト教との烙印を押す。

仏教は論理的で実践的な高次の道徳が、神の存在への信仰抜きに実現可能であることを証明する生きた見本であると説かれた。また、カトリック信者は仏教はインドに定着したキリスト教の一派だと主張するが、あいにく仏教はイエスより5世紀前に生まれているのは驚きであり、仏教の慈悲は動物、植物にまで及びキリスト教道徳より広く、厳しい実践に基づいた道徳がキリスト教教理とはまったく関係ない教義とともに存在しうることの証明であるとも主張された。こうして、仏教はキリスト教のライバルとして宗教的脅威として受け取られていくのであった。

19世紀前半に生きた哲学者ショーペンハウアーは、その哲学の主要命題を仏教の教義が傍証しているとされ、生命の本質は苦であるとするなど仏教に通じるものがあるとされた。しかし、彼のその厭世主義は、人生の苦しみは癒し得ないとするのに対して、仏教は、苦しみの原因は業であり、無知であり、それらは相対的なものであるがゆえに、瞑想とその悟りによって克服できるものとする点において明らかな相違があった。

そして19世紀後半に生きるニーチェは、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を読んで、ブッダの教えに熱中、仏教はキリスト教に比べ百倍も現実的だ、仏教は我々に示してくれる唯一の、真に実証主義的な宗教だ、と『反キリスト教』に書いた。しかし後にニーチェは、仏教虚無主義なる言葉を当てはめて、仏教の厭世主義的、虚無主義的、頽廃的教義として拒絶したとされる。

しかし、これは当時の西洋文明が一種の快楽主義に傾き、苦しみに対して過敏になり、苦しみを排除して、ニーチェに言わせれば人の弱さを助長するものとして慈悲があるとされたり、そのような改変されつつある新しい仏教として受け入れられようとする仏教をニーチェは非難したのであろう。なぜなら本来の虚無主義とは、絶対なるものは何一つ存在しないとする哲学上の学説であり、その意味からすると仏教虚無主義とは、決して仏教を非難した言葉ではないからである。しかし、言葉は一人歩きして、ニーチェの意図したものとはかけ離れて、仏教とは虚無主義だと短絡的なレッテルとして通用することになるのである。

第三部神智学と仏教近代主義
ニーチェが活躍した同じ時代、1879年に、イギリス人エドウィン・アーノルドが『アジアの光』と題するブッダの生涯と教えに関する八巻もの長い詩を発表した。非の打ち所のないヴィクトリア朝文体で書かれた、この本は100万部もの大ヒットを記録したという。これは当時の西洋人が合理主義と科学的物質主義にも、教会の形式主義と偏狭な教条主義にも、同じ位に強く反発し、新たな宗教的熱情を求めていたからであり、近代精神主義と言われる魔術、秘教思想、交霊術が広まり、また占星術、タロット、カバラ、錬金術などオカルティズムがもてはやされる時代でもあったからである。

1875年、アメリカ人H・S・オルコット大佐とロシア人マダム・ブラヴァッキーによって、ニューヨークに神智学教会が設立された。交霊術サークルに出入りしていた二人であったが、すべての宗教を認めた上で、真理以上に高尚な宗教はないということをモットーにした。しかし、仏教に対して特に肩入れしたことは否めない。1880年、セイロンの港湾都市ガールの仏教寺院で、二人の西洋人が仏法僧に帰依して正式に仏教徒になった。

この二人とは、神智学協会を創立した二人であったが、このことは、仏教に対するキリスト教の限りない優位を確信する西洋人から植民地の民として侮蔑的な扱いを受けていたシンハラ仏教徒へ絶大なる勇気を与えた。オルコットは、1881年『仏教教理問答』なる本を出版して、1884年には、ロンドンに趣き、イギリス政府に仏教徒に対する差別的な法律のいくつかを廃止させた。そしてブッダの生誕日が、スリランカ全島で祭日となった。

オルコットは、1888年には日本の招待を受け来日。数ヶ月の滞在で75回もの講演をして、ブッダの教えの根本への復帰と南北仏教の統一を説いた。パーリ語と南伝仏教を学ぶ任務を帯びた日本人三人を連れてコロンボに戻り、1890年には、インド本部で、セイロン、日本、ビルマからの代表達に、仏教の根本に立ち返る14ヶ条に署名させた。これは西洋人の直接の影響による、仏教統一の端緒となった。

そして、1893年、神智学教会の支援のもと、自由主義的なキリスト教徒たちによって、世界宗教会議がシカゴで開かれた。インドの聖者ラーマクリシュナの若き弟子ヴィヴェカーナンダが、開会の辞で、あらゆる宗教の根本的一致を宣言して、感銘を与えた。仏教を代表する重要人物は、日本の釈宗演とセイロンのアナガリカ・ダルマパーラであった。

釈宗演は臨済宗の老師で、仏教に関心の高かった編集者ポール・ケーラスの依頼で、弟子の鈴木大拙を派遣し、仏教の基本的文献の英訳出版を助けた。大拙は帰国後おびただしい数の英文の著作をなし、世界的な名声を得た。ダルマパーラは、その後1年間米国にとどまり、仏教の教義を講演して歩いた。彼はその後40年余りを西洋での布教とインドでの聖地復興に捧げたのであった。

第四部さまざまな弟子たち
アメリカのカウンター・カルチャーは、1960年初め頃から、東洋に注目し内面的体験、自己実現、コスモスとの繋がり、グルとの一体感などの精神的価値を東洋から取り入れようとした。それらは心理学精神医学とも関連が指摘されより一層もてはやされた。正統的フロイト派は反宗教的だったが、ユング派は、西洋の神秘主義的伝統を復権させる一方で、数千年にわたって発達させてきた心理的身体的技法を有する東洋の智慧によって精神分析の手法を豊かにすることが図られた。

1950年代末から何百人ものアメリカの精神療法家がインドに行き、1961年には、インド哲学と心理学に関する研究センターがカリフォルニア・エサレンに設立され、ニュー・エイジと呼ばれる流れの第一の礎石となった。こうした流れの中から、ハタ・ヨーガや東洋武術が紹介されていった。

1959年、アメリカには鈴木俊隆師が曹洞禅を伝え、その精神的な影響力と語学の才によって米国全土に数十の禅センターを作り単純さと具体的な実践からなる禅の精神を伝道することに成功した。またヨーロッパには、1965年、遊行の禅師沢木興道の弟子だった弟子丸泰仙師が単身乗り込み、フランスを中心に、人を引きつける人格と教育家としての才能によって百を超える道場を作り多くの弟子を育てた。フランスにはまた、ヴェトナムのティク・ナット・ハン師も有名であり、母国での人権擁護運動から亡命後は社会参加型の仏教を説き、五千人以上のヨーロッパ人が入会するセンターを運営する。

さらに1960年代末から、チベット仏教が西洋に広まる。西洋からインドに向かった先駆者たちがインドからラマを西洋に招き、求めに応じて数々のセンターを作ったことと、若いラマが西洋の文化や語学を学ぶために宗派から派遣されてその地で求められて多くのセンターを開設したことによるという。

そしてこのチベット仏教についてこの間の詳細を15ページにわたり詳述する割には、わずか4ページに簡単に著者は記しているのだが、20世紀初頭にはドイツ、イギリスに伝わった仏教の一派としてテーラワーダについて言及する。1970年代の終わり頃から、テーラワーダ仏教が西洋で実践され始めるという。さらに、今日何人かの西洋人がテーラワーダの伝統を通して実践しようとしている瞑想にヴィパッサナーの内省の技法があると記す。

西洋人に瞑想を教えた最初の師としてタイのアーチャン・チャー師を紹介し、他にはビルマのウ・バ・キン師、またイギリス人僧、サンガラクシタ師の活動が紹介されている。1970年代から1980年代にかけて、東南アジアでの戦争や内戦によって、西洋に大量の移民が生じ、それがために、アメリカヨーロッパにテーラワーダが根を下ろしたとする。北米に数十のヴィパッサナー瞑想センターがシンハラ人亡命者によって開設されたという。この他、ヴェトナム人、カンボジア人によるフランスなどでの寺院建立について言及する。

1881年にロンドンにパーリ聖典教会が設立され、多くの典籍が英訳されることによって初期仏教、つまりテーラワーダ仏教こそが仏教の本来の教えとして学ばれていていることも触れられていない。このことは大乗仏教の国である日本にあっても明治から戦後にかけて原始仏教が各宗派仏教に増して学ばれていた事実からも窺い知られることではあるのだが。アメリカでの活動では、近年日本で訳書が出版されているH・グナラタナ師の1968年からの活動、ワシントンのブッディスト・ビハーラ・ソサエティでの指導、諸大学での講義などについての言及もない。精神医学の分野、心理療法等にこのテーラワーダの瞑想法が採り入れられていることなどには一切触れられておらず、自ら語っているようにカトリックの国々は大乗仏教に対する親近感が強いということがそのままこの本の内容に反映されているのは誠に残念なことである。

第五部仏教ヒューマニズムの展開
冷戦構造がベルリンの壁崩壊とともに、世界が不確実なものとして、個人的にも集団的にも、不安が生まれ、工業技術の進歩によって生態環境上にも脅威が迫り一層の不安が深まる現代にあって、新たな倫理的指標が探し求められ、意味の総合的な再構築が求められている。無常という非永続性、相対性、変動の哲学として、絶対的真理の概念や伝統という権威にすがることのない意味を提示し、個人的、集団的な責任性という一つの倫理を提唱するブッダのメッセージは、特にダライ・ラマが発信していることではあるが、印象深く西洋に受けとめられているという。以降、ダライ・ラマはじめ、多くのチベット仏教関係者の事跡を取り上げ紹介しているが割愛する。

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備後・國分寺の歴史

2009年01月17日 15時29分01秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
平成21年1月17日神辺町観光協会主催・かんなべ史跡めぐりにおける『國分寺の話』       

本日は、神辺町観光協会主催の神辺史跡めぐりということで、ここ備後國分寺にもご参詣下されまして、ご苦労様に存じます。少し國分寺についてお話しを申し上げます。

國分寺は皆さんご存知の通り、今からおよそ1270年ほど前、天平13年、741年に聖武天皇が、國分寺の詔という勅令を発せられまして出来たお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の国に國分寺が出来て参ります。当時は今のように日本の国という観念がありませんで、それぞれ各国でバラバラに暮らしていた。

それが、國分寺の詔の100年くらい前に大化の改新という大改革がありまして、中央集権体制となって、都を中心に一つの国にしていこうということになります。その50年後には大宝律令が制定されて中国をまねて律令制度という国の統一した制度によってまとめていこう、そのために各国に國分寺を造り、中央には奈良の東大寺を造って、人々の心を中央に向けて国を統一する礎とされたわけです。ですから、國分寺は、鎮護国家、それに万民の豊楽を祈願するというのが仕事でした。

備後國分寺は、皆さん今参道を歩いてこられました入り口に南大門があり、古代の山陽道に面していた。少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂があった。金堂は、東西30メートル、南北20メートル、七重塔は、基壇が18メートル四方であった。講堂は東西30メートルあったと、昭和47年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。

これは、奈良の法起寺式の伽藍であった。また、寺域は600尺四方、およそ180メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。

当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約5メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われますが、当時の國分寺の中心には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経10巻が七重塔に安置されており、正式な國分寺の名称が『金光明四天王護国の寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。

それは、護国経典として、とても当時珍重されたものでもあります。で、その「紫紙金字金光明最勝王経10巻」、今どこにあるかと言えば、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、ここから持ち出されて、沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されております。国宝に指定されています。

その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。

おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたであろう。4年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。

そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す、江戸時代には、延宝元年、1673年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、2年前ですか、文化財となっております。

そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種候の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、人の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍ということであります。元禄7年にこの本堂が出来ました、今から310年前のことです。

それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。

それが仁王門前の詩碑に刻まれておりますから、帰りにでも、よくご覧下さい。それで、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたのであります。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。

皆さん、ところで、福山検定受けられましたでしょうか。関連しまして、「知っとる?ふくやま」という公式テキストが、発行されておりますが、初版では、この國分寺は、創建時の國分寺と歴史が分断されているかのような書き方をされていました。

しかし、連綿と國分寺の歴史が続いていることは、先ほどの発掘でも明らかでありまして、そのことを出版先に伝えまして、最近出ました第4刷には、全文が訂正されております。どうか興味のある方はご覧いただきたいと思います。

長くなりましたが、國分寺の変遷を通しまして、このあたりの歴史にも触れお話しをさせて頂きました。当時の人々は今の私たちには想像も出来ないほどに、目に見えないもの、大きな私たちを支えてくれている存在に深く感謝とまことを捧げるために、このような立派な建物をお造りになった。その御心についてもどうか思いを馳せながら國分寺を後にして頂ければ有り難いと思います。本日は、ご参詣誠にありがとうございました。

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わかりやすい仏教史⑦ー中国仏教の最盛期とその後 2

2007年08月12日 17時02分09秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
密教の興隆

七〇五年、武后が病床につくと、中宗が復位して唐を復興。その後も女禍が続くものの睿宗の子玄宗(在位七一二ー七五六)が即位すると官僚機構を整理して乱れた政治を建て直し、武后時代に増えた税金逃れの僧尼一万二千人を還俗させました。

玄宗のとき、すでに八十歳になっていたインド僧善無畏(六三七ー七三五)が密教経典を携え陸路長安に来て、インド伝来の密教が伝えられ[真言宗]が誕生しました。善無畏は玄宗の信任を受け、「大衍暦」を作った数学、天文、暦法の達人一行を弟子として大日経を翻訳。

また南インド出身の金剛智は、ナーランダーで諸学を学んだ後密教を授かり、海路長安に来て玄宗の侍僧となりました。密教宣布のかたわら金剛頂経など多くの密教経典や儀軌を漢訳し、インドで盛んになるのとほぼ同時期に中国でも密教が興隆していきました。

西域またはスリランカ出身と言われる不空(七〇五ー七七四)は、金剛智から中国内で密教を授かり、師の死後インドやスリランカに行き最新の密教経典をもたらしました。不空は宮中に迎えられ、内道場において玄宗に灌頂を授け、また一方、一一〇部一四三巻の経論を翻訳し、羅什や玄奘などと並び四大翻訳家の一人として名をとどめています。

七五五年安史の乱がおこり、玄宗が蜀へ逃れている間、不空は長安にとどまり、密かに唐朝復帰の運動をなしたと言われています。長安回復後は朝廷の不空帰依は頂点に達し、その後の粛宗、代宗も不空を師とし、三代の国師として大広智三蔵の号を賜りました。漢胡、文武、僧俗に多くの弟子があった不空は、中国仏教史上最も宮廷に勢威をはったと言われています。

会昌の仏教弾圧

代宗の時代は戦乱で荒らされた長安に再び豪奢な貴族の生活が復活しました。しかし北のウイグル南のチベットなど周辺からの侵入掠奪にさらされ、また徳宗の時には辺地の軍団長である節度使がのさばり、中央では宦官による横暴がはびこっていました。

そうした中で、道教の熱心な信者であった武宗は八四二年廃仏を断行し、犯罪を犯したり戒律を守らず還俗させられた僧尼が二六万人余り、寺院も官寺四千六百、私寺四万余寺がことごとく廃止されました。

財政難を抱える朝廷は寺院の荘園を没収して転落農民を生み出し、人民のよりどころを奪い、唐朝崩壊に拍車がかかっていきました。

この廃仏によって、隋唐時代に隆盛を極めた三論、天台、法相、華厳、真言の各
派どれもが朝廷の帰依を受け経済的援助によって興隆してきたが為に、瞬く間に衰退していきました。しかし、民衆のための宗教として重要な役割を果たしつつあった浄土教と山野にあって自活生活をする禅宗はその後も発展を続けていきました。

浄土教と禅宗

阿弥陀仏を礼拝し念仏する[浄土教]の教えは、中国では一つの宗派として独立したものとはなりませんでしたが、様々な宗に属する人々が盛んに阿弥陀浄土を信仰していたと言われています。

三論宗系の人、曇鸞(四七六ー五四二)は、心に阿弥陀浄土を観想するといった観念の念仏から名号を唱える口称の念仏を確立し、また善導(六一三ー六八一)は阿弥陀仏の慈悲の力により凡夫の救済があるとして、日本の浄土宗にも大きな影響を与えました。

[禅宗]は、他の宗派がどれも、より所とする経典なり論書をもって宗旨をたてるのに対して、心を以て心に印する教外別伝としてそれらを用いず、五二〇年頃海路中国に至ったとされる菩提達摩がインドから伝えたとしています。

仏教の教理も含め一切の分別を捨てて、ただひたすらに坐禅し本来の淨らかな自己の本性を直感的に自覚しようとするところに特徴があります。また食事作法や作務など生活全般に重きを置くこともよく知られており、中国人が生んだ最も中国的仏教と言われています。

唐以後の中国仏教

唐代以後の中国仏教は、その後大きな発展もなく今日を迎えています。その教義や実践に関する基礎が唐代までに完成されていたからとも、仏教が中国化し深く民衆の生活に浸透して生活の中にとけ込んでしまったからであるとも言われています。

宋代(九六〇ー一一二六)には禅宗が広く行われ、曹洞宗、臨済宗など五家七宗へと分派発展していきました。また浄土教は深く民衆に浸透し、禅などの諸宗とともに行われ、禅浄双修が説かれました。

宋の太祖は、九七一年大蔵経の出版事業を起こし、十二年を費やして五千巻あまりの大蔵経を出版しました。仏典の印刷はすでに唐代にも行われましたが、一切経が印刷されるのは初めての試みであり、世界印刷文化史上稀有の大事業でもありました。

その後の大きな変化としては、元朝(一二六一ー一三六八)において、蒙古地方に伝わっていたチベット仏教が宮廷に迎えられ、大きな勢力を得たことがあげられます。チベット版大蔵経が蒙古語に翻訳されるなど、チベット密教系の仏教研究も盛んでした。

明朝(一三六八ー一六六二)は、仏教を保護する一方で、民衆を扇動し宗教一揆を起こす半僧半俗の念仏結社などを厳しく取り締まりました。そのため旧仏教が復興し、天台、華厳、浄土などと融合した禅宗が盛んでした。

民衆にあっては観音信仰、念仏会、放生会、受戒会、菜食の実践などが盛んに行われ、仏教信仰は民間信仰とも習合しながら現世利益をかなえるものとして民衆の生活と密着したものとなりました。

その後、清朝(一六一六ー一九一二)もチベット仏教を崇拝しましたが、雍正帝が念仏を提唱したため、その後の中国仏教は宗派を問わず念仏を基本とするに至りました。また後に、仏教教団を社会から遊離する政策が採られ、在家者を中心とする居士仏教が盛んになりました。そして清末には太平天国の乱が起こり、寺院財産は没収、仏書も失われ、仏教は衰退していきました。

現代の中国仏教

一九一二年中華民国建国後も、仏寺圧迫が衰えなかったため、仏教界は一致団結して寺産保護仏教復興に乗り出しました。その後、総合仏教を唱える太虚らは仏教界を改革、各種仏教学校の創設、仏教雑誌の刊行、また社会事業を行うなど仏教の近代化が進められました。

戦後一九四九年、中華人民共和国が生まれると、伝統宗教に抑圧が加えられ、一九六六年には文化大革命によって寺院は傷つき、仏像は破壊されました。しかし一九八〇年頃からは急速な修復復興がなされ、信教の自由が憲法で認められるにいたり、今日の中国仏教は国家の政策に奉仕し人民のために幸福を願うものとして息を吹き返しつつあります。

一方台湾では、様々な民間信仰と混淆した観音信仰、念仏などが盛んではありますが、大陸から移った僧尼により中国仏教の伝統が伝えられています。

今日では飛躍的経済成長により経済的豊かさを獲得し、純粋な仏教を求め、また社会貢献の一手段として出家する人々が増加しています。また戒を受け真摯に仏教を学び実践する多くの在家信者が存在し、二千年の伝統を誇る中国仏教の面目を今に伝えています。 

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わかりやすい仏教史⑦ー中国仏教の最盛期とその後 1

2007年07月31日 15時09分49秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など

(大法輪誌平成十四年一月号掲載)

前回は、仏教伝来から南北朝時代までの中国仏教について述べました。今回は、その最盛期を迎える隋唐時代の仏教を中心に、その後現代にいたるまでの中国仏教を概観したいと思います。

隋の統一

北周の武帝による廃仏の後、無宗教政治が続いていた北シナでは、隋の創業主文帝(在位五八一ー六〇四)が即位すると、直ちに仏道二教復興の詔を出し、特に仏教に対しては自ら王家を率いて復興の先頭に立ったと言われています。

長安に新しい都城を建設し、城内に国立寺院として大興善寺が建てられ、隋唐にわたる名僧が住する中央仏教随一の名刹になりました。また全国の州県に州立県立の僧寺尼寺を建てるようすすめ、日本の国分寺制のもととなりました。

また、文帝は当時の最も学徳ある高僧を長安に招き、特別待遇を与え教学の宣揚をさせました。そこへ天下の学僧が集まり、南北朝時代までに培った教学を基礎とした宗派の開創に結びついていきました。

隋はその後、質素倹約を奨励して国力を充実させ、五八九年南朝の陳を制圧し天下統一を果たしました。討陳軍の総帥晋王広(のちの煬帝)は、揚州に駐在して仏寺や道観(道教寺院)を建て、もとの陳の宗教界の人材を招きました。これらの高僧の中には彼が特に親近し尊敬した天台宗の智や三論宗の吉蔵らがありました。

天台宗と三論宗

[天台宗]は今の浙江省にある神仙の棲む山として名高い天台山を聖地として、法華経を根本聖典とする学派でした。すべてのものを一切の条件を円満に欠けることなく具えた真実の姿であると捉え、喜怒哀楽に生きる私たちの現実そのままが仏のいのちに他ならず、すべてのものがさとりを開く条件を具えているという現実肯定の思想を説きました。

第三祖智(五三八ー五九七)は、「法華玄義」「摩訶止観」などを著して、こうした教学を大成するかたわら、当時の都の学問仏教もまた学問を忘れた無知の坐禅もともに真のさとりには至らないことを主張して、止観(禅)の実践を中心とした教観二門を説きました。智は晋王広に菩薩戒を授け、智者大師の号を賜りました。

智はまた、これまでに訳されたあまたの経典を価値評価する教相判釈を行ったことで有名です。お釈迦様の説法した時期を五つに分け、それぞれの時期で内容に変化があったとして経典を分類し「五時八教」の教判を示しました。

そして、その最後の時期に説かれた教えであるとする法華経と涅槃経こそがお釈迦様の本当に述べたかった教えであり、中でも法華経こそがすべてのものが成仏するという悉皆成仏の理想の教えを説いているとして、他の経典は仮の教えに過ぎないとしました。これは、当時経典が五月雨的にもたらされ、インドでの経典制作の背景や成立年代も知られていなかった事実をあらわしています。

この教判はその後の中国仏教、また日本仏教の行方に多大な影響を与えるものとなりました。が、近代の仏教研究によって、その評価は改められることになりました。

南京市東方の深山幽谷摂山を中心とする[三論宗]は、「空の哲学」を構築した龍樹が著述した中論、十二門論など三つの論書(羅什訳)を研究するグループから生まれました。

吉蔵は、これら三論の教理を簡潔にまとめた「三論玄義」を著して三論宗を大成し、空観に基づく中道を仏性との相即のもとに解釈しました。烈しい空観の修禅にその特徴があり、唐代以後は禅宗の中に吸収されていきました。

また、戒律を重視し律蔵の研究を進める人たちが[律宗]を開き、インドの部派仏教時代にそれぞれの部派が所持した律蔵を比較研究し、なかでも特に大乗色の強い「四分律」が重んじられました。

大唐帝国の誕生

皇帝の威光を天下に誇示するため大土木工事を強行した隋の煬帝は、晩年に高句麗征伐など無理な戦争を人民に強いると内地に反乱が起き、都を追われ江南に逃れてもなお豪奢を続けたと言われています。

山西省の鎮将であった李淵はその機に乗じて、子の世民とともに長安を陥れて、六一八年唐を建国。隋朝による搾取と戦乱で荒廃した土地に均田制を改めて生産力を高め、それをもとに大唐の繁栄が築かれていきました。

次の太宗(李世民)は、武略文治ともに傑出し、建国以来の外敵突厥を平定、また新興の吐蕃(チベット)とも友好を結びました。これにより唐の国勢が西域諸国に延び、長安はあらゆる文化民族を集める世界最高の文化都市となりました。

玄奘の活躍

六四五年玄奘三蔵(六〇〇ー六六四)は、十七年ものインド旅行から帰国し仏像経巻仏舎利などを多数将来しました。太宗は玄奘から西域インドの最新の知識を聞く機会を得て喜び、当時の仏教界の俊英を集結させて経論の翻訳を助けました。次の高宗は、慈母追善のために大慈恩寺を建て翻経院を設置し、玄奘が持ち帰った経巻や仏像が焼失するのを避けるため大雁塔を作るなど、彼の翻訳事業のために多大の便宜を図りました。

彼は、大般若経六百巻、大毘婆沙論二百巻など大部のものも含め、七五部一三三五巻もの原語に忠実な翻訳を手がけ、これにより中国仏教は一大飛躍を遂げたと言われています。

また、玄奘はナーランダーで学んだ当時のインド最新の仏教学であった無着、世親らの唯識説をもたらし、玄奘訳「成唯識論」により[法相宗]が生まれました。天台宗などが説く誰でもがさとりを開く素質があるとする悉皆成仏の思想を批判し、皆能力には違いがあることを主張しました。そして、私たちの心の根底にある阿頼耶識に貯め込んだ汚れを滅却する瞑想行を重んじ、現実主義実践主義の教えを貫きました。

武后と華厳宗

高宗の死後、皇太后武氏は我が子を即位させる間に武氏一族で朝廷の要職をおさえ実権を握り、六九〇年睿宗を廃して自ら帝位に上り、国号を周と改めました。

インドを始め三十国あまりを巡って六九五年に帰国した義浄は、則天武后の出迎えを受け、勅を受けて華厳経八十巻の新訳に協力。義浄はその後、律蔵や密教教典など多くの経巻を訳しました。

当時の仏教界の巨匠・法蔵(六四三ー七一二)は華厳宗を大成し、武后は法蔵に深く帰依して新訳華厳経の講義を受け、また宮中に内道場を設けて国家安泰聖寿長久を祈祷させたということです。

山西省の五台山を中心とする[華厳宗]は華厳経をよりどころとして、今の現実を離れて別に尊い聖なる領域があるのではなく、煩悩に覆われ自我を主張し苦悩に喘いでいる私たちの心そのものが仏のいのちの現れであると説きました。

また法蔵は、人間の自己省察の深まりを観点としてさまざまな教えを分類し評価を下した「五経十宗」という教判を示しました。天台宗、三論宗、法相宗などそれまでに成立した諸宗の教義を批判し、華厳宗の教えこそ究極の教えとして総合した広大な教学組織の上にその信仰実践を提唱しました。その後華厳宗は、諸宗を兼学した澄観によって急速に禅宗との調和がはかられていきました。

天台と華厳は中国が生んだ学問仏教として、中国仏教を代表する二大教学とたたえられています。その教学は漢訳された上で中国人の思惟により独特な読み方や解釈によって構築されたものであると言われています。つづく

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わかりやすい仏教史⑥ー仏教中国化の歴史 2

2007年07月25日 08時32分32秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
入竺求法僧法顕

羅什到着前の三九九年、法顕(三七七ー四二二)は六十歳を過ぎてから、同学十余人とともに、当時未だ完備されていない律蔵を求めてインドにいたり、グプタ王朝の都パータリプッタでサンスクリット語を学び、聖典を書写。また帰路セイロン島に滞在して経や律を入手するなどして、四一三年海路帰国。最初の入竺求法僧となりました。

彼は主に戒律に関する梵本(サンスクリット語原本)や部派教団所伝の経典などを持ち帰りました。これらを帰国後、自力でまた同学とともに翻訳し、それにより中国には完全な律蔵が四種類備わることになりました。そして、これらが比較研究され、僧団の運営や受戒、布薩、安居といった様々な作法や行事の仕方が正しく理解されるようになりました。

また法顕の後にも、次々にインドで仏教を見聞したお坊さんが現れ、この頃から直接インドの仏教が取り入れられ研究されるようになりました。
 
仏教弾圧と護法運動

東晋時代(三一七ー四二〇)にその基礎を築いた仏教は、南北朝時代になると、上層階級ばかりか庶民にも深く浸透していきました。仏教は、老荘思想に神仙の教えを付加して発展した道教や儒教をも圧倒し栄え、北朝の胡族朝廷をも仏教化していきました。

道教は、南北朝時代に仏教をまねて教団を組織化し、三蔵にならって道教経典を作成するなどして、仏教に対立する勢力となっていました。

そうした組織化に貢献したのが道士寇謙之であり、彼を信任し道教を信仰していた北魏の太武帝(在位四二三ー四五二)は儒士崔浩らの言を入れ、四四六年、僧尼の増加や瀟洒な寺院が数多く造営されることによる国家財政の圧迫と僧尼の堕落から、仏教教団の大整理を断行。堂塔を壊し、仏像経巻を焼き、僧尼をことごとく還俗させました。

これが「三武一宗の法難」といわれる中国で行われた廃仏の最初で、次の文成帝の時、早くも仏教復興がはかられます。潜伏していた仏教徒は、急速な復興に取り組み、破却された堂塔を再興し、重刑囚を労働力として受け入れて寺田の耕作や開拓に奉仕させるなど、社会奉仕事業にも着手しました。

洛陽遷都後は北魏の仏教興隆をしたって数千もの外国僧が来訪したと言われ、洛陽には天宮の如く壮大な大伽藍が甍をつらね、金碧をもって荘厳した千あまりもの寺院が建ち並んでいました。北魏末には、僧尼二百万、寺院は三万余りに達していたと言われています。しかし、その後も北シナでは、北周の武帝(在位五六〇ー五七八)の時大規模な廃仏が行われました。

こうした廃仏は、かえって仏教護法運動を惹起させ、雲崗や竜門などに石窟寺院が開鑿されて大小様々な石仏が彫られ、泰山、徂徠山には経文を永久に残すため、経典の文字を石に刻した石経が作られていきました。

菩薩天子ー梁の武帝

南朝では、歴代の王や貴族が仏教を愛好し、建康を中心に仏教は盛んでした。特に、梁の武帝(在位五〇二ー五四九)は、即位以前から多くの仏典に親しみ、仏教を国教と定めました。五十歳を過ぎると、女色も断ち菜食し質素な生活を心がけました。そして、国王たるものは、お釈迦様から仏教を護持し興隆すべき遺嘱を受けているものとの信念から、梁仏教界の全僧尼に酒肉を断つことを制約させました。

さらに武帝は、社会救済事業のための基金を設けたり、宮城の北に建立した同泰寺にて自ら仏典を講じたり法要をつとめ、また度々自身を三宝に寄付して捨身し、寺の労役に服したと言われています。天子を寺から買い戻すために、王室や臣僚は莫大な財物を同泰寺に布施したということです。

武帝は盂蘭盆会を南京でいち早く営み、また北朝では、灌仏会(お釈迦様の生誕祭)が洛陽最大の大祭となるなど、この頃には仏教行事も中国社会の中で定着しておりました。

仏教受容の特徴②

[国家仏教へ]仏教僧団は、もともと国家の統制外にあって、法律的にも経済的にも国家から出世間として認められる存在でありました。人々の任意の布施により成り立ち、法臘(出家後の年数)によってその序列が決められ、一切の身分制度から自由でありました。

しかし、中国では、伝来当初から国家の庇護のもとに普及し、官寺が次々に建てられるなど、もともと国家と強く結びついていました。そして、民衆の反乱や煽動に道教や仏教が利用され宗教一揆が起こり、また貴族が免税される寺院に土地を寄進したことにして脱税をしたり、税金逃れのためにお坊さんになる者もありました。そのため国家による統制が必要となり、中国の仏教教団は次第に国家機構の中に組み入れられることになりました。

東晋の安帝(在位四〇二ー四〇五)の時、僧尼を統率し諸大寺を管理するために僧主、悦衆、僧録の三職を置く、僧綱の制度がさだめられました。後には、僧正、都維那、僧都など、今日我が国でも用いられる名称が使われ、僧尼が中国の身分制度の一端として組織されることとなりました。が、本来出家者がこのような官職に就くということは、仏教にはあり得ないことでありました。

そして、南北朝時代の北魏において、四九三年「僧制四十七条」が制定され、国家統制に入るさきがけとなりました。

[大乗戒の誕生]中国での訳経はそのはじめから大乗経典が中心であった訳ではなく、五世紀の初めまではかえって部派教団所伝の三蔵が、はるかに大乗経典を凌いでいました。しかしながらそれら部派仏教の研究はあまり行われずに、次第に中国仏教は大乗一色に塗りつぶされていきました。

そして、中国仏教は純大乗仏教であるとの立場から、戒律も大乗の菩薩に相応しい利他の精神に基づいた戒を受持すべきであるとしました。そのため五世紀中頃、菩薩戒を説く「梵網経」が中国において制作されたと言われています。在家出家を区別せず衆生共通の戒として、仏性の自覚のもとに十重禁戒、四十八軽戒を説く梵網戒が、その後中国仏教界に広く浸透していきました。

[儒教との融合]中国では、社会の基盤として儒教があり、親に対する孝、君に対する忠が重んじられておりました。ところが、仏教は孝という徳目を特別に強調しないばかりか、出家は親に仕えず子孫も作らず、親の死後その霊魂の祭りも出来ない。儒教思想からすればこれ以上の親不孝はないとの非難が起こりました。そこで「父母恩重経」が中国にて作られ、それによってお釈迦様も孝の道を説いたとされました。

そして、儒教において後漢ごろから招魂儀礼の形代とされた木主を、仏教にても位牌として依用し、もともと仏教になかった追善供養を営むという儒教の習慣が採り入れられていきました。そのため「盂蘭盆経」という祖先供養を説く経典までも中国にて作られたと言われています。

このように仏教は中国に入り、中国社会に相応しい経典まで新たに作られ、中国化することによって広まり、いわゆる中国仏教が形成されていきました。

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わかりやすい仏教史⑥ー仏教中国化の歴史 1

2007年07月23日 07時51分05秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など

(大法輪 平成13年12月号掲載)

前回は、仏教が衰滅したとされてきたインドで今も生き続けているベンガル仏教徒の歩みと近代インドの仏教史を概観しました。今回は我が国へ仏教を伝える中国の、伝来から南北朝時代までの仏教について、その受容の特徴を中心に述べてみようと思います。
 
北伝の道

中国に仏教がもたらされたのは、後漢の明帝(在位五七ー七五)の時代と言われています。が、それ以前に、紀元前二世紀頃から開けていたシルクロードを通って、インド商人や仏教を信奉していた西域人が中国に仏教をもたらしたものと考えられています。

交易路であったシルクロードは、インドと中国の文化接触の幹線であり、仏教伝来の道でもありました。そして、スリランカやミャンマー、タイへと伝播された南伝仏教に対し、シルクロードによって西域を経由して中国、朝鮮、日本へいたる仏教は北伝仏教と言われます。

中国へ仏教をもたらした西域のトルファン、コータン、クチャなどには今日多くの石窟寺院が発見され、仏教が盛んであった当時の様子を伺い知ることが出来ます。こうした砂漠に消えていった国々の信仰によって仏教は中国に紹介されていきました。

訳経のはじまり

この古代の交易路を通って、西域のお坊さんたちが経典を携え中国にいたり、その儀礼を披露したのでありましょう。二世紀中頃には西方異国趣味の王侯貴族の間で、黄帝や老子とならんで金色の仏像を祀り、香を焚き経を唱える仏教の法要がもてはやされたと言われています。

そして、こうして西域から中国へ伝道された仏教は、そのはじめから経典をそのまま受け入れるのではなく、それらをことごとく翻訳し紹介されていきました。

その最初は、一四八年頃後漢の都洛陽に来たパルティアの安世高が進めた訳経で、このときには、転法輪経や八正道経など部派教団所伝の諸経典が翻訳されました。その後月氏出身の支婁迦 が洛陽に来て、般若経など大乗経典を訳出。

また三世紀末頃、敦煌出身の竺法護(二三二ー三〇八)は、法華経、維摩経、無量寿経など多くの大乗経典を訳しました。彼が翻訳した法華経は観音信仰の基礎を作り、維摩経は清談を好んだ貴族社会に大きな影響を与えました。

こうして始まった中国における経典翻訳の歴史は、その後千年にも及び、この間に訳された仏典は今日その大半を収める大正新修大蔵経三〇五三部一一九七〇巻に見るように膨大なものとなりました。翻訳後インドの原典はことごとく処分して残されておらず、今日こうして翻訳された漢訳経典が世界中で唯一最大の仏典となっています。

仏教受容の特徴①

[翻訳後の中国化]中国では翻訳されるとインドの原典が省みられることはなく、その漢訳した訳語を巡って議論され解釈が加えられていきました。

仏教の重要な基本概念でさえも、原典に立ち戻ってその意味を問う試みはなされず、訳された術語を解釈し、思想として論じられていきました。たとえば因縁という訳語の原語を忘れて、因とは何か、縁とは何かと思索されていきました。そうして形成されていく仏教は、原初の姿とはかなり異なるものとなりました。

[格義ということ]仏教伝来時の中国に、もしも紀元前三世紀に仏教が伝えられたスリランカのように、伝来されたインド文化に匹敵する文化が無かったならば、仏教をそのままに変化を加えることなく伝えたものと考えられます。しかし、当時既に彼らの文化の中には仏教を解釈するに値するものが充分にありました。

それが故に、彼らは翻訳された仏教の思想内容を理解するために、中国の古典、特に老荘や周易の思想を手がかりとしたのでありました。本義に格るためになされた、このような思想的いとなみを格義と言い、四世紀前半、盛んに流行しました。たとえば大乗仏教の中心思想である「空」を老荘思想で説く「無」をもって理解したり、解説されたのでありました。

しかし、四世紀後半になると、老荘思想などを通してなされたこのような仏教解釈は批判され、本格的仏教研究が進められました。ところが、その後も中国仏教を形成していく中で、老荘思想と仏教との結合は否定することのできないものとなり、「無」という言葉は後々までも中国仏教の中で重要な概念として語られていきました。

仏図澄と釈道安の活躍

時代は仏教伝来の後漢から三国時代を経て、西晋の時代となり、そのころ洛陽には四二のお寺があったと言われています。しかし、次第に北方からの異民族の圧迫が強まり、三一六年ついに西晋が匈奴に敗れて江南に逃れ東晋を建国。北シナは、異民族が次々に覇権を争う五胡十六国時代となります。

北シナを制圧した異民族は、漢民族を支配するために漢民族の文化に匹敵する異国文化として仏教を採り入れました。

三一〇年に中央アジアのオアシスの国クチャから洛陽に来た仏図澄(二三二ー三四八)は、その宗教的霊験によって後趙の石勒と石虎に王侯大臣以上の礼遇を受け、軍事、私事にわたり相談を受けるなど尊信を得ました。三〇年余り北シナで布教し、また神通力を現し、九〇〇近い寺を建て、一万もの弟子を養成したと伝えられています。

この時代までは、主に外来の西域人のための宗教としてあった仏教が、胡族出身の王によって前代の制に拘束されることなく、自由に僧尼になることが許されました。これにより、漢人の中からもお坊さんになるものが多く現れ、仏教は急速に広まっていきました。

この仏図澄の門下に、漢人の高僧道安(三一四ー三八五)があり、仏教徒はすべてお釈迦様の弟子なのであるから、みな釈を姓とするがよいとして、門下をみな釈氏と呼ばせ、純然たる漢人仏教教団をはじめて組織しました。

石虎の死後、彼は戦乱を避けて数百の門下と襄陽に檀渓寺を建て、東晋の皇帝や北シナの胡族君主、貴族たちからの寄付により、真摯な修道活動を続けたと言われています。

道安は、当時行われていた仏教の諸教理を老荘思想から解釈する方法を改め、仏教は仏経によってのみ解釈すべきことを訴え、仏教研究の正しい道を確立しました。

また道安以外にも長安や洛陽地方から戦乱を避けて東晋へ南渡するお坊さんも多く、建康を中心に多くの寺院が建設されました。江南の貴族たちはこぞってすぐれた学僧を家僧として招き、一門のために仏教を講義させたため、彼らは仏教の教養を広め信仰を増進する指導者として尊敬されました。

羅什の翻訳事業

クチャ出身の鳩摩羅什(三四四ー四一三)は、幾多の苦難の末に、後秦の姚興より国師の礼をもって迎えられました。彼は、当時の文明の中心地であった長安で、国家事業として充分な設備と資金、それに多くの優秀な助手を動員され、講義し討議しながら翻訳を進めたと言われています。

大般若経をはじめ、法華経、阿弥陀経などの大乗経典の他、その翻訳は中論や成実論などの論書や律蔵にまで及びました。天下の仏教者が長安に参集し、法華経の翻訳には二千人もの学僧が参加したと言われています。

羅什の翻訳は、訳語がすぐれ流暢であるため、彼にいたって始めて訳文のみによって仏教を理解し研究することが可能になりました。中国で没するまでの十二年余りの間に、この大翻訳家は三五部三百巻余りもの翻訳事業に携わり、唐代に新訳が登場してもなお現代に至るまで、彼の訳文が活用されています。つづく

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わかりやすい仏教史⑤ーインド仏教の近代史 2

2007年07月18日 14時19分50秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
仏教教団の設立
 
仏教徒として確固たる地位を社会の中で確立するためには、仏教の再生に加え教育に力を入れることが不可欠であると考えた彼らは、まずは誰もが読み書き出来るように、学校を作り基礎教育に力を注ぎました。

そして、ビルマ語やパーリ語の様々な仏教書や経典がベンガル語に翻訳され出版されていきました。お釈迦様の教えを日常生活に活かすために、僧団を供養するなど善行功徳によって、現世にまた来世に安楽がもたらされることが教えられ、迷信や非文化的伝統や習慣を社会の中から取り除くことが進められていきました。

仏教語であるパーリ語の研究所がつくられ、小中高校で学ぶ体制が作られました。また多くの在家者やお坊さんが仏教を学ぶためにスリランカやビルマ、タイに派遣されていきました。

そうして、一八八七年にはチッタゴン仏教会(チャッタグラーム・バウッダ・サミッティ)が、また一八九二年には、カルカッタに進出していた仏教徒たちのためにベンガル仏教会(バウッダ・ダルマンクル・サバー)が設立されました。

ベンガル仏教会と大菩提会

ベンガル仏教会を創立したクリパシャラン長老(一八六五ー一九二六)は、イギリス支配のインドにあって、民衆の反英運動が激化する中、カルカッタの中心地にカルカッタ最初の仏教寺院を建立。後にはビルラ財閥からの寄進によって三階建ての僧院が建てられるなど、施設が整えられていきました。

インドにおいて、忘れられていた仏教に多くの人々が目覚めることを目指して、仏教文化誌「世界の光」を創刊するなど、失われた仏教の栄光をとりもどすべく尽力しました。ラクノウ、アラハバード、デリー、シムラ、ジャムシェドプール、ダージリンなどに支部を作り、カルカッタ本部では無料小学校が運営されるなど、各地の教育機関充実のため指導力を発揮したと言われています。またカルカッタで世界仏教徒代表大会(一九二四)を主催して、インド仏教徒の再生をアピールしました。

時同じくして、スリランカにおいては、オランダやイギリス支配によって仏教が徹底的に否定されていました。しかし、一人のお坊さんとキリスト教徒との論争(一八七三)における劇的な勝利の後、仏教の復興に努め、インドに巡礼した、アナガリカ・ダルマパーラ師(一八六四ー一九三三)は、大菩提会(マハーボディ・ソサエティ)を一八九一年に設立。ブッダガヤ、サールナートなどの仏跡地の復興に尽力しました。

彼は、今もヒンドゥー教徒らによって管理されているブッダガヤの聖地を、世界の仏教徒の資金によって買い戻す計画を進めました。スリランカ、中国、日本、チッタゴンの代表による国際仏教会議をベンガル副知事出席のもとで開催するものの、交渉は難航し、結局実を結ぶことはありませんでした。

しかし、その献身的努力は、お釈迦様を生んだインドの地に仏教を復興したいとする純真な精神を、全世界にアピールすることとなりました。

また南インドでも、一八九〇年代末に不可触民出身の指導者アヨーティ・ダースによって南インド仏教会が設立され、タミル語の仏教雑誌を刊行するなど仏教を布教しました。その後、一九二〇年にはラクシュミー・ナラスがマドラス仏教徒協会を組織して、仏教思想の現代性を論じ、不可触民差別、幼児婚、寡婦再婚禁止など社会慣行の改善を訴えました。

インドの独立

第二次世界大戦の終結後、一九四七年、インドはヒンドゥー教徒の国として、パキスタンと分離独立することとなりました。チッタゴンは東パキスタン領となり、バルア仏教徒にとっては、またしてもイスラム教徒の国の中に居住することになりました。この時過去の悪夢を憂えた多くの仏教徒たちが、大挙してインド領西ベンガル地方に避難移住するという混沌とした状況を招きました。

インドでは、一九五〇年に憲法が制定され共和制国家となり、初代首相となったジャルハルワル・ネルーは、一九五二年にイギリスから返還されたサーリプッタ、モッガーラーナ両尊者の遺骨をサンチーの寺院に埋葬する歴史的行事を、また一九五六年には、お釈迦様の生誕二五〇〇年祭をニューデリーで開催して、インドの生んだ最も偉大なる聖者としてお釈迦様を讃えました。

また、共和国憲法を起草したことで知られる不可触民出身の初代法務大臣アンベートカル(一八九一ー一九五六)は、ナラスらの仏教による社会改革運動に感化されて、最も理性的で、かつ自由、平等、友愛を説く仏教に改宗し、ヒンドゥー社会から離れることによって階級差別を終わらせるべきことを訴えました。そして、一九五六年、インド中部のナグプールにおいて、参集した不可触民二十万人とともに三帰依・五戒を授かり、仏教徒に集団改宗しました。

パキスタンでは、一九七一年、総選挙にまつわる東西パキスタンの利害衝突から発展したベンガル独立戦争が起こりました。これにより、再度東ベンガル地方に住していたバルア仏教徒やチッタゴン丘陵部の少数民族の仏教徒たちの存在がふるいにかけられる事態となりました。そして、バングラデシュとなった今も、大多数のイスラム教徒の中にあって、仏教徒たちは現実に相応しい社会的な地位を与えられていないのが現状であります。

インド仏教の現状  

現在インド国内の仏教寺院は約五〇〇か寺、お坊さんは二千人。そして、結婚式、出生式、葬式などの儀礼を仏教で行う仏教徒は、インド全体で六四〇万人(人口比〇・七六%)と公表されています。

先に述べたように不可触民ヒンドゥー教徒らの改宗によって、仏教徒は年々増え続けていますが、伝統派のバルア仏教徒は、その内のわずか十五万人ほど。

一方バングラデシュの仏教徒は五十四万人(同〇・六二%)、内バルア仏教徒は十三万人あまりとなっています。

かつて、仏教を支援したマウリヤ王朝、パーラ王朝の子孫たちの中には、今日ヒンドゥー教徒として暮らしてはいても、仏教をとても大切に思っている人々がいます。仏教のお坊さんを招いて食事を供養したり、定期的に冊子を発行して仏教の教えを知らしめる活動をしています。

彼らは、ビシュヌ神の化身としてではなく、古代インドの思想哲学の理想を実現した聖者としてお釈迦様を捉え、人類普遍の真理を説く教えとして仏教を信奉しているのです。たとえ仏教徒は一握りの存在ではあっても、仏教を外護する多くの人々が、現代インドにも存在していることを申し添えておきたいと思います。

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