聖武天皇はどのようなお方で、なぜ國分寺を造られたのか。仏教が伝来し、それを積極的に受け入れた蘇我氏、その系統から聖徳太子が出て仏教は興隆した。仏教は、国の教えとなり政治を底辺で支えた。
諸外国に学び、進んだ政治制度である律令国家への歩みを進めていたとき、乙(いつ)巳(し)の変が起こった。私たちが大化の改新と習った政変である。天皇家を貶め専横を極める蘇我氏を暗殺し、後の天智天皇と後に藤原氏となる中臣鎌足が政権を奪取し新しい行政改革を行ったといわれる。次の時代に編纂される「日本書紀」では彼らは英雄とされた。しかし、事の真相はそれほど単純なものではなかったであろう。
そもそも日本の起こりは、近年発見された三世紀前半の最大の大型建物跡が発掘された纏向遺跡(まきむくいせき)から地方各地の土器が発見され、それは地方豪族による合議共存によってヤマトが成立したことを推定させる。それを根本から崩す政治を天智と藤原氏は目指していたという。それは、雄略、武烈というかつて倭の五王と言われた天皇と同類の独裁を目指すものであった。
しかし、天智天皇の死後、のちの天武天皇が繰り広げた壬(じん)申(しん)の乱(らん)は、それを再度ヤマト古来の合議共存への政治回帰であり、実際に各豪族の協力のもとに律令制度の基本となる土地制度改革が進められた。
そして、聖武天皇とは、天武の孫文武天皇の子ではあるが、母は鎌足の子藤原不(ふ)比(ひ)等(と)の娘であり、初めて皇室外の母を持つ天皇であった。そして、後の世で天皇と外戚関係を結び政治の実権を握る藤原氏の政治手法の最初の天皇でもあり、生まれたときから不比等邸で育てられた。
聖武天皇は、大宝律令ができた七〇一年に生まれ、奇しくも皇后となる不比等の娘光明子も同年に生まれた。不比等の死後、天武の孫長屋王の政権を面白く思わなかった不比等の息子たちは、光明子を臣下の娘として初めての皇后とすべく暗躍し、長屋王を冤罪で身罷らせる。
しかし、その後蔓延した天然痘でその不比等の息子たち四人が瞬く間に死す。それは、長屋王の祟りと恐れられ、恐怖した聖武、光明は仏教施策に奔走する。一切経を書写させ、諸国に丈六の釈迦如来像を造立させ、七重塔のある寺を造らせる。
議政官を独占していた藤原四兄弟が亡くなると橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備が政権を担い、九州に左遷された藤原広嗣が九州で挙兵。それを期に、聖武は藤原氏の造った平城京を出て彷徨。はじめに向かった東国ルートは、天武が壬申の乱で挙兵すべく向かったルートに重なる。藤原の天皇から脱し、天武を意識し、その政治を理想とし継承することを目指したのであろうか。結局、その後五年にわたり各地へ遷都を繰り返し、この間に國分寺の詔も発せられる。
汚れた政治権力の抗争を離れ、真に理想の国家建設のために何が必要かを深く思索していったのであろう。そして、大仏造立を発願する。唐から帰った玄(げんぼう)の諸国造寺の進言と、東大寺初代長老良弁(ろうべん)から学んだ華厳思想が融合し、國分寺制と大仏造立が一つの理念に結ばれたのである。
すべてのものは相関し、個は全体の縮図であり、全体は個に影響するという思想のもと、国土全体を華蔵世界になぞらえ、諸国國分寺に釈迦仏を、帝都に毘盧遮那大仏を造り、時空を越えた理想的仏国土建設を志したのであった。
聖武太上天皇一周忌には、東大寺と諸国國分寺にて盛大な法要が営まれた。
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諸外国に学び、進んだ政治制度である律令国家への歩みを進めていたとき、乙(いつ)巳(し)の変が起こった。私たちが大化の改新と習った政変である。天皇家を貶め専横を極める蘇我氏を暗殺し、後の天智天皇と後に藤原氏となる中臣鎌足が政権を奪取し新しい行政改革を行ったといわれる。次の時代に編纂される「日本書紀」では彼らは英雄とされた。しかし、事の真相はそれほど単純なものではなかったであろう。
そもそも日本の起こりは、近年発見された三世紀前半の最大の大型建物跡が発掘された纏向遺跡(まきむくいせき)から地方各地の土器が発見され、それは地方豪族による合議共存によってヤマトが成立したことを推定させる。それを根本から崩す政治を天智と藤原氏は目指していたという。それは、雄略、武烈というかつて倭の五王と言われた天皇と同類の独裁を目指すものであった。
しかし、天智天皇の死後、のちの天武天皇が繰り広げた壬(じん)申(しん)の乱(らん)は、それを再度ヤマト古来の合議共存への政治回帰であり、実際に各豪族の協力のもとに律令制度の基本となる土地制度改革が進められた。
そして、聖武天皇とは、天武の孫文武天皇の子ではあるが、母は鎌足の子藤原不(ふ)比(ひ)等(と)の娘であり、初めて皇室外の母を持つ天皇であった。そして、後の世で天皇と外戚関係を結び政治の実権を握る藤原氏の政治手法の最初の天皇でもあり、生まれたときから不比等邸で育てられた。
聖武天皇は、大宝律令ができた七〇一年に生まれ、奇しくも皇后となる不比等の娘光明子も同年に生まれた。不比等の死後、天武の孫長屋王の政権を面白く思わなかった不比等の息子たちは、光明子を臣下の娘として初めての皇后とすべく暗躍し、長屋王を冤罪で身罷らせる。
しかし、その後蔓延した天然痘でその不比等の息子たち四人が瞬く間に死す。それは、長屋王の祟りと恐れられ、恐怖した聖武、光明は仏教施策に奔走する。一切経を書写させ、諸国に丈六の釈迦如来像を造立させ、七重塔のある寺を造らせる。
議政官を独占していた藤原四兄弟が亡くなると橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備が政権を担い、九州に左遷された藤原広嗣が九州で挙兵。それを期に、聖武は藤原氏の造った平城京を出て彷徨。はじめに向かった東国ルートは、天武が壬申の乱で挙兵すべく向かったルートに重なる。藤原の天皇から脱し、天武を意識し、その政治を理想とし継承することを目指したのであろうか。結局、その後五年にわたり各地へ遷都を繰り返し、この間に國分寺の詔も発せられる。
汚れた政治権力の抗争を離れ、真に理想の国家建設のために何が必要かを深く思索していったのであろう。そして、大仏造立を発願する。唐から帰った玄(げんぼう)の諸国造寺の進言と、東大寺初代長老良弁(ろうべん)から学んだ華厳思想が融合し、國分寺制と大仏造立が一つの理念に結ばれたのである。
すべてのものは相関し、個は全体の縮図であり、全体は個に影響するという思想のもと、国土全体を華蔵世界になぞらえ、諸国國分寺に釈迦仏を、帝都に毘盧遮那大仏を造り、時空を越えた理想的仏国土建設を志したのであった。
聖武太上天皇一周忌には、東大寺と諸国國分寺にて盛大な法要が営まれた。
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