住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

黄色は仏教の色

2005年08月27日 15時50分22秒 | 仏教に関する様々なお話
黄色は仏教の色と言えます。昔、山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画がありましたが、黄色は仏教の色だから、幸せというと黄色を思い浮かべるということなのでしょうか。

黄色は仏教僧の袈裟の色です。だから仏教では黄色を尊重するということではないかと思います。それはつまりアジアの仏教国にとって社会の中で仏教僧たちの存在感がとても強く大きいということなのだと思います。

インドのヒンドゥー教の行者さん、スワミと言われる僧侶たちは、サフランカラー、薄いややピンクがかった色の衣を着ておられます。しかし仏教の僧侶は、木欄色と言われるやや黄色がかった黄土色の衣が主です。スリランカの袈裟はややオレンジ色。ミャンマーはエンジに近く、タイの袈裟は茶色に近い色です。チベットのお坊さんたちは赤に近いエンジ色でしょうか。

インドでは、黄色という色はとにかくよく目立つ色です。女性のサリーも原色がよく似合う風土国柄です。皺深いお年寄りでも原色のサリーを美しく着て籠を頭に乗せて歩いていたりします。

もともと袈裟とはその色を現すカーシャーヤという言葉が言語です。渋色、不正色、壊色とも言われる人の好まない、世間的に価値のない色の衣のことです。正式には律(波逸提60戒に定められている)などに袈裟の色は、青・黒・木欄のいずれかに染めて生地の鮮色を壊色することとあります。

ですが、南方仏教のカティナ・チーバラ・ダーンという安居(あんご:雨期の3ヶ月間僧院に籠もって修学修行に励む期間のこと)開けのお坊さんたちに袈裟を施す儀式で唱えられる問答には、カティナ衣の色は濃い黄色にすべきであるとあります。

黄色は袈裟の色であり、それは仏教僧たちの色であり、社会に欠かすことの出来ない色であり、存在感あるもの。それは社会に平安をもたらす仏教を象徴するものだからこそ、アジアの仏教国では幸せの象徴でもあるということなのだと思います。
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報恩

2005年08月24日 17時51分27秒 | 仏教に関する様々なお話
報恩と題する古い経典がある。そなたたちに善ならざる人の立場と善なる人の立場を示すことにしよう、とお釈迦様が話し始めるこの経典では、恩を知り今あることの恵みに気づいている人が善なる人の立場であり、まことある人が習いとすることであると教えられている。

そして、その恩を知るべきものの筆頭に父母があり、この二人には容易には償いが出来ないと言明される。そして、例え、百歳の寿命の人がその寿命に達し、なおかつその年で母親父親のお世話をし、香を体に塗り、さすり、沐浴させ、もみほぐす。また尿や糞などの排泄物を処理したとしても、それでもなおかつ両親に対して何事かをなした、あるいは償いを果たしたことにはならないのである、とお釈迦様は諭される。

そしてさらに、七つの宝に満ちたこの大地で王者の位に上らせるほどに両親に対して勤めたとしてもその恩に報いるに足りない。なぜならば、母と父はその子に多くの助けを与え、支持し、養育し、この世界を子に示した人であるから、とお釈迦様の言葉は続く。

なれば、どうすれば私たちは父母に償いを果たすことが出来るのであろうか。この経典では、もしもその両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、お釈迦様はこのように教えられている。

ただ従順に従い、付き従うことが私たちの恩に報いる道ではないことをお釈迦様は示された。もしも恩義あるものに誤りがあるのなら正しい道に誘い教え諭すことが必要なのであると教えられている。

仏教では、いのちをこの世で授かり生きていく上で、私たちが恩を知るべきものとして四つのものを挙げている。上に述べたとおり筆頭は、父母であり、それから衆生、国家、三宝であり、四恩と言われる。生きとし生けるものたち衆生があって初めて私たちの生活は成り立っているのであり、そのもとには私たちを守り保護している国家の存在があり、それから精神的に生きる上での支えとなる三宝があると考える。

報恩と題する経典から、今私たちは恩あるものに対する償いの仕方を学んだ。時あたかも私たちの命と財産を守り保護するはずの国家が誠に心許ない存在となりつつある。たった一つの法案を殊更に誇張して、この法案が通らなければ国家の骨格を揺るがせると言わんばかりの意味づけを施し、憲法を逸脱してまで衆議院を解散させた。

先の国会でこの法案に良識をもって反対した者たちを追い出し、刺客を差し向けるなどという穏やかならぬ表現が新聞紙上を賑わせる世の中になってしまった。他国から通告される「年次改革要望書」に則り、そのまま法案を上程し可決を謀るような傀儡とも取れる政権が長期にこの国を支配するようなことでいいものなのか。

エコノミックアニマルと罵られながらも私たちの祖父や父親たちが戦後の復興に血眼になって積み上げてきた国内経済も、いまや国債などの長期負債額は800兆円という途方もない借金で賄う誠に愚かしい状況にある。それに加え、どの業界もスキャンダルに巻き込まれて外国資本に乗っ取られようとしている。銀行や保険ばかりではない、通信事業や流通業界も、これから航空業界も狙われるのではないか。

アメリカ式経営スタイルが浸透し、リストラが奨励され、正社員が減少して、フリーター、パート労働者ばかりの不安定な国になりつつある。それにもかかわらず、配偶者控除が無くなり年金や健康保険料ばかり上がるなど重税国家になろうとしている。消費税も上がることになろう。

地方には市町村合併を強引に推進して、公務員や議員を減らす事を強いているのに、中央官庁の官僚や国会議員の削減、年金問題などについては何も具体的な話が聞こえてこないのはどうしたことか。

さらに首相の靖国参拝問題から発展した中国、韓国という隣国との緊張状態も、故意に別の作為をもって騒擾されたものではないか。その先には憲法改正や米軍の世界的再編計画の一端を担うべく準備されたものではないかとも思われる。イラクに派遣した自衛隊も話題に上らないほどその意義が曖昧なものとなり、ただ世界の体制を維持するための駒と成り果てている。

いずれにしても私たちは、過去の戦争で、新聞などマスコミがその時どのように振る舞うのかを学んできたことを忘れてはなるまい。マスコミの誘導に乗ってはならない。ただ、物事の推移を冷静に観察し残されていく事実だけを見続けることが必要なのではないか。そこから透けて見える真実をわが視点として物事を判断することが必要なのではないかと思う。

両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、とお釈迦様は教えられた。

国家が国民に安寧をもたらす気持ちがないならば、国民の命と財産を守る本義を忘れているなら、自己保身のみに執心し国の富を保全する気持ちを失っているなら、また良識とまことを置き去りにしているようなら、私たち一人一人が非力とは思いながらも一票として、そのことを国家に教え諭すことが必要なのではあるまいか。私たち一人一人の強い意志こそが何にも代えがたい国家への報恩であることを忘れてはなるまい。
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続報 インド古典舞踊奉納

2005年08月17日 17時11分22秒 | 様々な出来事について
8月21日万灯施餓鬼会に際し、午後7時より奉納されるインド古典舞踊の演目とその概要をお知らせします。

まずはじめに、マニプリダンスの代表的な演目、ライハラオバを奉納されます。

ライハラオバとは、メイテイ族に伝わる豊年祈願のお祭りのことです。そのお祭りで神様に奉納される踊りを披露します。

「ライ」は、神、「ハラオバ」とは、喜ばせるという意味で、この踊りを奉納して神々を喜ばせる、そういう踊りの内容になっています。特定の神と女神の前で踊り手がその土地の平和と発展と感謝の気持ちを込めて踊ります。

次に、クリシュナループワルナン。

インドの古典舞踊はヒンドゥーの神々や英雄を題材に取っているものが多く、その中でもポピュラーなのがクリシュナ神です。クリシュナ神は女たちの憧れの的であり、人々にこよなく愛されラーダやゴピーたちと戯れる愛の神として知られています。特にラーダはクリシュナ神の永遠のパートナーでもあります。

クリシュナ神については色々なエピソードがありますが、18世紀頃からマニプリダンスの対象になり、このクリシュナループワルナンでは、クリシュナ神を崇拝する踊り手がクリシュナ神の美しいお姿の描写をしています。

そして最後に、インドの有名な詩人であり哲学者でもあるラビンドラナート・タゴールの創始されたタゴールダンスを披露します。

タゴールは、その80年の生涯を通して自ら曲を付け2000曲以上もの歌を作っておられます。その曲にインドの古典舞踊マニプリダンスやカタカリダンスなど様々なフォークダンスを取り入れて、新しい創作舞踊を生み出しました。

この度披露しますタゴールダンスは、春の季節を歌った踊りです。
  ジャスミンの花咲く森で
  初めてジャスミンがつぼみを結んだとき
  友よ、私はあなたのために
  両手いっぱいの花を捧げました。

以上、お楽しみに、皆様お誘い合わせの上、多数お参り下さいますことをお待ちしています。
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郵政民営化法案が否決された

2005年08月12日 18時47分15秒 | 時事問題
郵政民営化法案が否決された。当日たまたまお盆参りから帰りテレビで参院の賛否討論と採決を目の当たりにした。議員が壇上に上がり一人一人票を入れていく姿が映し出され、白票青票がカウントされていた。これまでこんな場面を観たことがない。それだけ大事なシーンだったのだろう。

この採決から二日目の新聞には一斉に世論調査がトップの紙面を飾っていた。解散に対する理解を示す世論が過半数を占め、郵政民営化法案への支持を表明する者が半数近くを占め、反対派を凌いでいるとあった。このところの内閣支持率を調べる世論調査の数字も40数パーセントが小泉政権を支持するとあるのと同様に、本当だろうかと疑いたい。サンプルを操作することなど至極簡単なことだと思えるからだ。おそらくアメリカ大統領選挙でしたのと逆に、自民党支持基盤の多い地域年齢職業などを選別した上での結果ではないかと思う。

どこへ行っても政治に対する意見を聞くようにしているが、この2年ばかりは小泉氏を支持するという人に会ったためしがない。かつての大本営発表とは言わないが、それに近い操作又は捏造があったとしてもおかしくはない。それほどまでに現在の日本のマスコミはおかしい。ニューズウィーク誌の特集にあったとおりだ。

誰のための報道だろうか。何を目的に新聞やテレビがあるのか。私はしばらく前から殆どテレビを観ない。先日もNHKの何かのアンケートに協力してくださいと言って係の人が来たが、テレビを一日に5分も見ないと言ったら結局殆どの項目を該当無しということになってしまい帰って行った。テレビなど観たいとも思わない。なぜなら、明らかに日本国民を愚鈍化するためにあるように思えて仕方ないからだ。ニュースや政治関連番組にしても全く意図的に操作された形跡があると思える。多少の教養番組のみ見る価値があると言えようか。

本題に入ろう。今海外のメディアではこの度の郵政民営化法案の否決をどのように報道しているのかということだ。森田実氏のサイトでは、ウォールストリートジャーナルに「日本の郵政民営化法案は廃案になったがこれは手取りの時期が少し延びたに過ぎない。ほんの少し待てば我々は3兆ドルを手に入れることが出来る」との見方が掲載されているという。さらには、ウォール街は小泉自民党を大勝利させるために日本国民をマインドコントロールするための多額の広告費を投入している、それも日本の在京テレビ局に対してであるとまで書かれている。

また別のサイトによれば、ファイナンシャルタイムズにも同様のことが書かれているとのことだ。何も知らされていないのは当の日本人だけで外人たちはみんなこの度の郵政民営化の意味するところを知り尽くしているということなのだ。国債を何とか買い支えてきた郵貯簡保資金がみんな外へ出て行ってしまい、終いにはなくなってしまうことであろう。戦後60年丸々太らせてあげたのだから少しおいしい肉を切り取って喰わせなさいと言われているのも同然なのだ。みんな私たち日本人庶民の汗の結晶なのに。

私たちは外からの見るもの聞くもの読むものに少なからず影響される。間違いのないものを見て聞き読む必要がある。何が自分にとって必要か、何を正しいと思うか、間違いないと思えるか、その人の一生の間にはかなりの大きな違いが生じることであろう。つまらない番組を見てつまらない時間を過ごしつまらない人生を送ってはならない。つまらない人生を送る国民が多ければ多いほどその国は疲弊する。

私たちは自分の中に入ってくる情報を正に厳選に選別した上で取り入れることが特に今の時代不可欠なことだと思う。余りにも情報過多であり、その内容の質が劣悪である事は周知の事実であるからだ。何が正しいのか、今正にそれを見抜く目を養う必要に私たちは迫られている。
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万灯施餓鬼会にてインド舞踊奉納

2005年08月11日 19時05分10秒 | 様々な出来事について
8月21日、午後7時よりインド古典舞踊の奉納が国分寺本堂で行われます。演じるのは、外川セツ氏。演目は、インド四大古典舞踊の一つマニプリダンスから、ライ・ハラオバ他。

マニプリダンスとは、インド北東部のマニプール州に伝えられる民俗舞踊です。このマニプールとは、宝石の都との意味で、この地方は、一方をミャンマーと国境を接する山岳地帯に囲まれ、豊かな自然に恵まれています。

中央の盆地に州都インパールを擁し、人口は182万人、シナ・チベット語族に属するモンゴロイドです。主要な民族はメイテイ族で、多くはヒンドゥー教徒ですが、ヒンドゥー教がこの地方に伝わる以前の精霊信仰や宇宙創造神話を持ち、今日でも豊かな民族儀礼や芸能を伝えています。

マニプリダンスの歴史は古く、言い伝えによれば、この宇宙が創造されたときに生まれた踊りとされています。が、今日のマニプリダンスは、18世紀にこの地を治めたバギヤチャンドラ王がヴィシュヌ神に完全に帰依してヒンドゥー王国を打ち立てた時代に確立されました。

ガンジス川流域に発達したインド文化と異なった文化がマニプールにはありますが、それは長い歴史の間にインドだけではなく中国、ミャンマー、その他東南アジアの国々との紛争や交流を通じて、それらの文化を吸収して今日に受け継がれたものです。

そして、この地を訪れたタゴールによって初めてマニプールの美しい踊りや音楽が紹介され、それによりインド四大古典舞踊、つまりバラタナーティヤム、カタカリ、カタック、マニプリの一つとして世界的な評価を得るまでになりました。

踊りの形式には大きく二つの系統があり、マニプリ人の古くからの自然崇拝の宗教儀礼から生まれた踊り「ライ・ハラオバ」と、ヒンドゥー教のクリシュナ信仰の影響によって新たに形成された踊り「ラース・リーラー」があります。

もともとこのダンスは、人生儀礼や宗教儀式の時に、寺院の神々に捧げていたものであり、一般に公開されることはありませんでした。観て楽しむものではなく、瞑想あるいは神への祈りとしてあったものですが、今日ではステージで行われるようになりました。そうした過程でこのような二つの踊りの形式が確立していくのですが、現在では、特にクリシュナ神とその恋人ラーダーの物語を演じる優美なグループダンスとして知られています。

なお、この度踊ってくださる外川セツ氏は、インドでお生まれになり、高校までインドで過ごし、日本の大学を卒業。その後日本国内での勤務経験を経て、インドにお帰りになり、シャンチニケタンのタゴール国際大学にて、音楽学部舞踊科を卒業、引き続き修士課程を修了されました。現在ご縁あって、東広島市に在住。

10数年前に、初めて外川セツ氏はじめお父様お母様ともお会いする機会があり、その後インドのご自宅にもお伺いして、お父様からは特にインドの宗教やタゴールの思想などについて様々教えを受けました。その関係で、この度お忙しい中特別にお願いしてお越し頂けることとなりました。外川セツ氏のインドダンスは本物です。是非この機会に、どなた様もお気軽にお越し下さいますようご案内いたします。
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仏教のあるべき姿

2005年08月05日 11時51分44秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教は他の宗教とは違って何かを信じなければいけないということはありません。お釈迦様の生き方に賛同し学び行ずるということだけだと思います。そこから何事かを得て、智慧のある生活をすればよいのだと思います。

本来的には、仏教徒とは、仏、法、僧に帰依したものを言うのですが、ただ帰依するだけで、その中身を知らず、信ずれば救われるというのでは真に仏教徒とは言えません。

昔お釈迦さまの時代にはインドのバラモン教による生活をしている人たちがお釈迦様の教えを信奉し僧団を支えていました。お釈迦様は如来は法を説くだけであると言われ、一人一人の行い、身体で行うことと、言葉と、考えることとが大切であり、各々が教えに従って進むべき道であることを説きました。

仏教であるか無いか、仏教徒であるか無いかなどというのはそんなに大事なことではないのだと思います。より普遍的な人類にとって共通の誰をも幸せに導く教えが仏教の教えだと思います。

昔スリランカの長老から様々教えを乞うていた時期がありました。ある時講演で、なかなか修行が出来にくい人もあり、考えることの好きな人もある。そんな人は自分が何のために生きるか、何のためにするのか、理由を問いつめていくことで悟ることが出来る、そういう道もあるのですと言われたことがありました。

そこで講演の後、それはどのようにすればいいのかともう一歩踏み込んだ内容を聞いてみたのですが、実はそれは恐ろしく難しい、殆どの人が気が狂うほどの果てにしか悟るなんてことはできない。それよりもよっぽどヴィパッサナーというお釈迦様の瞑想法の方が簡単なのだと教えて下さいました。多分つい口を滑らせて言ってしまったことなのでしょう。そんなことをみんなにさせたくて話した訳ではないのだということでした。

ヴッパッサナーは、繊細に見つめることです。自分の行い、感覚、心、世の中の法則真理そんなことの一つ一つを細かく瞑想の中で確認し冷静に観察する瞑想です。その中で智慧が生じていく、智慧の瞑想と言われています。

やっと日本でもこのお釈迦様の瞑想が本格的に伝えられ、実践され始めています。これまでの仏教は何だったのかとさえ思います。ただやみくもに信じることではなく、教えを学び、実践しつつ確認し悟りの心に向かって前進するのが本来の仏教のあるべき姿なのでしょう。

中国化した仏教しかなかった日本に、明治時代に西洋経由でお釈迦様の仏教が入ってきましたが、それは学問の世界のことでしかありませんでした。やっと現代になって、本来のお釈迦様の実践仏教が伝来され、これから普及していくことでしょう。宗教宗派を問わない仏教の実践をより多くの人が行うことによって、争いのない世界に近づくことが出来ますように。生きとし生けるものの幸せを念じたいと思います。
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京阪神地区お盆行

2005年08月02日 14時01分25秒 | 様々な出来事について
昨日朝5時半頃お寺を出て、関西6軒のお盆参りに出かけた。新幹線こだまで西明石まで行き、神戸市垂水区に一軒、それから福知山線川西池田に一軒。このお宅では近年ご両親が亡くなられていることもあり、残されたご兄弟がご家族で毎年迎えてくださる。小学生のお子さんたちも般若心経を憶えていて、お参りに行く身にとっては遠くまで来た甲斐のあるありがたいご家族だ。

そこから伊丹まで車で送って下さって、一軒。この辺りでお昼になるので、昼食を取ってから、阪急で梅田に出て、それからJRで京橋へ、京阪電車に乗り換え枚方に2軒。京都府八幡市に1軒。都合6軒のお参りを済ませたのは夕方の5時であった。

それから新大阪へ出て新幹線で、途中岡山乗り換え福山まで戻ったときは、晩の7時半になっていた。毎年のことではあるが、今年で6回目になる京阪神地区のお盆行は正に修行と言えよう。

昔どなたかが、夏のお盆のお参りは僧侶にとっての修行なのだと思って勤めなくてはいけない、そんなことを耳にしたことがある。

ところが、近年東京やら都会では棚行と呼ばれるお盆参りが無くなりつつあるという。お盆期間の決められた日にお寺に位牌を持って出向き、みんなまとめてお経を上げてもらう儀礼に換わられたのだそうだ。それぞれの家に参り、家族の顔を拝見して始めて檀家さんご家族の様子も伺われようというのに、それさえも省略してしまう傾向にある。

昔、駆け出しの頃、四国徳島の大きなお寺のお盆参りを手伝わせていただいたことがある。地図を片手に家を探しつつ、一日に50軒ほども廻ったのだろうか。それぞれの家で祀り方も違ってはいたが、精霊棚にキュウリやナスの刻んだものと器に水が用意され、そうめんや夏野菜が所狭しと御供えされていた。位牌は仏壇から出して棚に祀りそれぞれの前に少しずつの御供えが置かれていた。

そうしてご先祖が帰ってくるのだという気持ちが表れた御供え荘厳の前でお経を唱えていく。そうしてご先祖を思う気持ち、仏事に篤い気持ちをきちんと次の世代に残していっている姿を目にした。お寺に位牌だけ持って行けばお盆が済んだというのではやはりいけないのではないか、そんな気がする。

ところで、この度お参りをした一軒で、親戚の方からこんな質問を受けた。50回忌を忘れていたがどうしたらいいかとのことであった。気になるならお寺さんにご夫婦で出向き簡単にお経を唱えてもらったらいかがですかとお答えした。何も命日までにするに越したことはないが、過ぎてしまったらしてはいけないということもあるまい。すると何か言い淀むところがあったので、つい持論を述べてしまう羽目になった。

別にしなければいけないということではないのですよ、特に50回忌は、33回忌で弔いあげと言って先祖に組み入れるという考え方もありますから。間違えてはいけないのは、しなければ何かある、悪い障りでもあると思うことです。何もありません。

ただ、法事というのは皆さん生きている人たちが幸せでなければ出来ないことでもあるのですから、まずは皆さんが幸せであればいいのです、それが何よりの先祖の供養です。その上で、法事をして善行を施しその功徳を回向すれば、それはその精霊のためにもなるし、ご自分たちのためにもなることなのですなどと長々お話しすることになった。

お寺も亡くなった人のためにあるのではない。お墓のためにお寺があるのでもない。今生きている人たちがより良くあっていただくためにお寺があり、私たち僧侶が居る。生きている人たちが幸せでなければお寺もうまくいかない。檀家さん方が良くあって始めてお寺も繁栄する。ごく当たり前のことなのだが、誤解している人は多いのではないかと思う。

過ぎ去った過去を追うなかれ、いまだ来たらぬ未来を思うなかれ。ただ今、いま為すべきことをなせ。生きとし生けるものが幸せであれ。お釈迦様の教えには時代を超越した真理がある。お釈迦様の言われたことに基づいて考えていれば私たちは迷うこともないはずなのにと改めて思いつつ、新幹線からの夜景を眺めた。
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